めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年11月17日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主から幸いな「ことば」をいただくことは、神に選ばれていることを知る一つの方法>



★旧約聖書 サムエル記 第一 15:22
   するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、そ
   の他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾け
   ることは、雄羊の脂肪にまさる。
 
★旧約聖書 サムエル記 第一 3:10
   そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と
   呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。
 
★新約聖書(新共同訳) ローマ人への手紙 12:2
   あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただ
   き、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわ
   きまえるようになりなさい。
 
●カペナウムでイエスは群集に「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ま
す。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ福6:37)」と仰せら
れた。 また、「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来るこ
とはできません。・・・(ヨハネ福6:44)」と言われた。  これらのみことばから、「父なる神によ
る救われる者の選びがある」ことが伺える。 イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではな
い。わたしがあなたがたを選んだのである。(ヨハネ福15:16)」とも言われた。 
 
「選び」にはすべて、神の支配、権威がある。 人は、どうしても人の側から見てしまいがちであ
るから、キリストを信じ受け入れた時が、主の選びの時であると受け取る。 ある意味、その通
りである。 信じた者は、どこかのキリスト教会に所属する。 そして、その教会で、礼拝や集会
に出席したり、奉仕作業に参加したり、主のために働いたりするだろう。 そのような者たちが
「父がわたし(イエス)にお与えになる者」と言われるだろうが、皆が皆そうだとは言い切れな
い。 だれが「父がわたし(イエス)にお与えになる者」すなわち「父なる神が選ばれた者」であ
るのかを早々と知ることは難しいかもしれない。 「選ばれている」ということが、人生の途中経
過である今現在、明確であったとしても、今、聖霊の流れに乗っていることが明確であったとし
ても、今、主の喜ばれる働きをしていたとしても、その人の最期が来たとき、どうであるかが重
要であるからだ。 だから、「選ばれている」ことを一時だけ明確に知るというのではなく、知り
続けることが大切なことであろう。
 
神に選ばれている者で、極端な例かもしれないが、イエスと一緒に十字架にかけられていた犯
罪人のひとりは、キリストを信じ、へりくだった。 イエスに悪口を言ったもうひとりの犯罪人をた
しなめて「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方
は、悪いことは何もしなかったのだ。」と言った。 そして、「イエスさま。あなたの御国の位にお
着きになるときには、私を思い出してください。」という、たったこれだけの言葉でイエスから「ま
ことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」という「約束
の主のことば」をいただいた。(ルカ23:41-43) この人にとっては、いい意味でのどんでん返し
である。 この犯罪人は、「父がイエスにお与えになった者」だったと言えよう。 
 
だったら、この地上生活で、自分の好きなように生きて、最期の時になったら、主イエス・キリス
トを信じ受け入れたらいいではないか、という意見を聞いたことがある。 しかし、前もってイエ
スのことを聞いた者が、最期の時が来たからと素直に主を受け入れることなどできないと思わ
れる。 前もって、「イエスは救い主」だと認めておいて、自分の欲望のままに生きることを選択
する者の心をサタンが放っておくはずはない。 一人でも多くの者を、地獄への道ずれにしよう
と躍起になっているサタン、悪霊どもは、そのような心の思いを温存するような者を見逃すは
ずはない。(Tペテロ5:8) 
 
それでは、確実に神に選ばれていることを、どのようにして知り続けることができるのだろう
か? キリスト教会でよく教えられているように、「主イエス・キリストを信じて救われているこ
と」「主に頼ること」「主に従うこと」「主に仕えること」・・・などができるのは、神に選ばれて
いるからだと教えられたことがある。 しかし、それらが、ともすれば、自分がそのように思い込
んでいるという場合も多々ある。 また、肉(生まれながらの性質)で、行なって、「主のみここ
ろ」からずれて、自分の願望、考え、思いの方向へと向って進んでいるということもあり得る。 
確かに、本当に主イエス・キリストを信じているなら「主のみこころ」を知りたいと思うようにな
り、主に愛され主を愛するという、「主との愛の関係」を深く持ちたいと思うようになるものであ
る。 何をおいても「主に従っていきたい」と思うようになるものである。 そのために、絶えず祈
り求めたり、祈り尋ねたり、・・・、聖書を読んだり、神が立てられた指導者がいるなら、牧会を
受けたり、主を信じる者たちと交わったり・・などをするであろう。 そのように取り組んでいるな
ら、聖霊が必ず導いてくださり、神からの試練訓練をもって、自我が砕かれたり、肉が切り取ら
れたりしながら、意識するしないにかかわらず、自分を規準(基準)にしていた者が、「神を規
準(基準)」「主のみこころを規準(基準)」として歩むことができるようになってくる。 そして、持
続できるよう更に取り組むなら、明確に「神に選ばれている者」と言えるであろう。 
 
更に、確実なことは、その人に「主からのことば」が与えられていることである。 イザヤ書55章
11節には「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と書かれている。 
人は、ともすれば「主のことば」を、人間的な解釈、すなわち世の常識やキリスト教会の常識、
自分の解釈や判断で解釈をしがちだが、主は、ご自身の「ことば」「みこころ」をその方法も、途
中経過もすべて、「ことば」通りに成就される。 主のご計画があるからだ。 「主のことば」が成
就したとき、その「ことば」通りになっていることがわかるであろう。 主は、ご自身のことばに忠
実であられる。 ただ、主から「ことば」を与えられることは、その「ことば」の内容によっては、
与えられた「主のことば」が成就されるまで、試し、試練訓練のある場合が多い。(めんどり通
 
主が、人に「ことば」を語られ、その人がその「ことば」を信じ受け取る。 受け取った人が、そ
「ことば」のゆえに様々な試し、試練などにあったとしても、絶えずその「ことば」に返ることを
していく内に、主によって「霊」「信仰」が鍛えられる。 同時に、清められ、聖なるものとしてく
ださり、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するようにと導かれる。
(エペソ4:13) 「主の時」が来て、その「ことば」が成就される。 そのとき、神のみわざ、神の
力、神の愛を目の当たりに見たり、体験したりするであろう。 
 
一旦、神が語られたなら、そのことばが大きいことであれ、小さいことであれ、必ず主なる神は
成就される。 語られた「主のことば」の内容にもよるが、主は「ことば」を成就されるために、
その方向へと「すべてのこと」を動かしていかれる。 サタンや悪霊どもの妨げがあったとしても
人の失敗や挫折、罪、抵抗・・などがあったとしても、「ことば」が成就されるためには、それら
のことは、効力ある妨げとはならない。 むしろ、それらのことは「主のことば」を与えられた者
にとって、益にされる。 必ず、「主の時」が来たら成就される。 そのことをもって「父なる神が
選ばれた者」であることを知る。
 
ただ、基本的なこととして、語られた「ことば」が本当に「主からのことば」かどうかを、祈って
祈って吟味に吟味を重ねることは大切なことである。 多くの場合、自分の心の奥にある願い
や思いを「主のことば」だと思い込むことがある。 また、主ではない他からの「ことば」「主の
ことば」と間違って受け取っている場合も結構あると思われる。 だから、主に祈っての吟味は
必須である。 また、語られた「ことば」の内容によっては、条件を伴う「ことば」の場合は、与え
られた者の「ことば」に対する対応、応答が鍵となる。
 
また、主なる神がいろいろな方法で、人に「ことば」を与えてくださるが、一旦「主のことば」
与えられたなら、主ご自身からの「変更の主からのことば」がない限り、最初に与えられた「主
のことば」に返ることが大切である。 神は、一人一人のことを、よくご存知である。 その上
で、一人一人に応じて最善のご計画を持っておられる。 だから自分の願望で、与えられた「こ
とば」を変えようとしてはならないし、ごり押しのような感じで、主に訴えることも「否」である。 
最初に主が、その人に語られた「ことば」が一番良いはずだからである。 
 
旧約時代、南ユダ国王ヒデキヤの場合。 宗教改革をして偶像を徹底的に除き去り、神の命
令を心を尽くして行なったまではよかった。 しかしその後、彼はすべての国々から尊敬の目で
見られるようになった。(U歴代誌32:23 ) その頃、預言者イザヤが「あなたの家を整理せよ。 
あなたは死ぬ。直らない。」「主からのことば」が語られた。 たとえ死の宣告の内容であって
も、「主のことば」である。 ヒデキヤにとって、最善の「主のことば」だったはずである。 しか
し、ヒデキヤは、自分がどれほど主に従ってきたかを神に訴えて、15年寿命が延長された。 
結果、ヒデキヤはバビロン捕囚となるきっかけをつくり、ユダ王国の中で最悪の王と言われた
マナセを産んだ。 ヒゼキヤは晩年に主の恵みから落ちた。 15年寿命が延長されたのは、言
うなれば、ヒデキヤのごり押しのようなものである。 ヒデキヤが、最初に語られた「主のこと
ば」に返って従っていたなら、マナセが産まれることはなかった。 
 
いずれにしても、主から幸いな「ことば」をいただいた者は、試しや訓練試練はあるが、「父が
わたし(イエス)にお与えになる者」すなわち「父なる神が選ばれた者」と言えるであろう。 
「神が選ばれている者」は、どのような過程を通ったとしても、必ず、主が、「主のことば」を成
就される。 だから、主から直接なり、聖書を通してなり、人を通してなり、・・・などと、どのよう
な方法かはわからないが、我々はへりくだって、主が語ってくださるよう求めつつ、主の御声に
(霊の)耳を澄ましていきたいものである。 
 
★新約聖書  コリント人への手紙 第一 1:27、28
   しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をは
   ずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。 また、この世の取るに足りない
   者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにする
   ため、無に等しいものを選ばれたのです。
 


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