めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年11月3日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「主のことば」を与えられた者は、成就されるまでその人を試し練り鍛える>



★旧約聖書 詩篇 105:19
   彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。
 
★旧約聖書 詩篇 19:14
   私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖
   い主、主よ。
 
★旧約聖書 イザヤ書 48:10
   見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。
 
聖書に、主から直接なり、人を通してなりで「主のことば」が与えられ、その「ことば」通りに
なった、という登場人物がいる。 ヨセフの場合。 旧約聖書 創世記に登場してくる。 アブラ
ハムの子イサク、イサクの子ヤコブ、そしてヤコブの11番目の息子である。 17歳のとき、2回
夢を見た。 ヨセフの作った麦の束が他の束にお辞儀をされるというもの。 もう一回は、太陽
と月と11の星がヨセフを拝んでいるという両方とも預言的な夢だった。 これらの夢を、兄弟た
ちや父ヤコブに話した。 当時、一般に子どもたちは短い袖の服を着ていたが、ヨセフだけは
「そでつきの長服」を着るなど、父の「ひとり子」のように特別に大切にされ愛されていた。 そ
れで、普段から兄弟たちからは妬まれていた。 その上、夢の内容から益々、兄弟たちはヨセ
フを妬んだ。 
 
しかし、ヨセフは夢というかたちで、「主のことば」を頂いた。  兄弟たちに話したことは、軽は
ずみだったとか、無邪気すぎたとか、よく言われているようだが、そうとも言えない。 夢を見
て、話したのが幼い子どもではなく17歳だったということもある。 また、父ヤコブが、ヨセフに
注意はしたものの、このことを心に留めていたからだ。 ヤコブがただ単に年寄り子だからとい
う理由だけでヨセフにだけ「そでつきの長服」を与えていたのではないと思われる。 「そでつき
の長服」は長子の権利を表すと言われていたからだ。 
 
さて、ヨセフ自身この夢は、主からの語りかけと受けていていたと思われる。 ヨセフは、夢を
自分の内にだけに留めなかったのは、ある意味、ヨセフは、自分に語られた「主のことば」に対
して、彼の信仰を公に表明したと言えるかもしれない。  ローマ人への手紙10章10節「人は
心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」と書かれているが、ヨセフは夢を神
からのものと信じたから告白したのではないだろうか。 神からの「ことば」となると、夢に関わ
る人たちに対しての告白は必要なことである思われる。 そして、神からの「ことば」であるな
ら、必ずその通りになる。 もし、神からの「ことば」でないなら、ただ、ヨセフの恥となる。 
 
また、あかりは、燭台の上に置れるべきである、マルコ4章21、マタイ5章15節などに書か
れているが、まさにその通りである。 ここの「あかり」は、通常、聖霊とかキリストにたとえられ
ていると言われているが、「主のことば」とも言える。 「主のことば」は、隠されるべきではな
い。 そして、「主のことば」をヨセフが告白したことにより、明るみに出されただけでなく、ヨセフ
のものとなった。 
 
ペテロの場合。 ペテロもまた、「人間をとる漁師にしてあげよう。(マタイ4:19、マルコ1:17)」
と、主から「ことば」を頂いた。 そして、「主のことば」通りになるまで、主から訓練、試練を受け
た。 主は、ペテロとヨハネとヤコブの3人を常にご自身のそばに置かれ、みわざを見せられた
り、不思議を体験させたりした。 その中でもペテロをいつも筆頭に置き、ペテロを試された。 
主に試され、訓練され、多くの失敗や深い涙の体験を経てペテロは練り鍛えられた。 そして、
「主のことば」通りの「人間をとる漁師」とされた。 「主のことば」通りとは、「主のみこころ」の通
りということである。 また、ペテロは主から他にも数々、「ことば」を頂いた。 例えば「わたし
は、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。 だからあなたは、立ち
直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)」との「ことば」を頂いた。 だから、ペ
テロが三度、イエスを知らないと、それも誓ってまで「そんな人は知らない。」と主を裏切って
も、深い涙の体験を通りはしたが、「ことば」通り立ち直った。 「主のことば」通りになった。
 
旧約聖書に登場するイスラエルの初代王サウルの場合。 直接、主がサウルに語られたわけ
ではなく、預言者サムエルを通して「主のことば」が語られた。 「・・あなたは彼に油をそそい
で、わたしの民イスラエルの君主とせよ。(Tサムエル9:16)」と。 このように、人を通して「主
のことば」を与えられる場合もある。  サウルはサムエルを通して、試されたが、結局、主の命
令に背いた。 サムエルに神への不従順を指摘されても、自分の面子を保とうとして本当の悔
い改めが見えなかった。 
 
こうして見ると、「主のことば」は、「主のことば」を頂いた人を試す。 すなわち聖書のことば
(詩篇 105:19)」通りである。 主から「ことば」を頂いた者は幸いではあるが、苦難や試練を通
ることになる。 具体的な「ことば」ほど、試練、訓練、試しが厳しいようにも思われる。 しか
し、一旦、主が語られたなら、主のご責任において、必ず「主のことば」は成就される。 
 
また、主なる神は、「主のことば」を与えられ、試されたとき、心の奥の思いがどうなのかを見て
おられるようである。 ペテロは多くの失敗をしたが、そのたび深く悔い改めたり、自我が砕か
れたり肉が切り取られたりした。 そして、主の「ことば」通りとなり、主が喜ばれる者となった。 
しかし、サウルは、かたくなな心のゆえ、神の霊はサウルから離れ去り、その後は、口寄せ(霊
媒)に頼るようになった。 そしてついにはペリシテの戦いで深手を負って、敵に殺されることを
拒んで自ら剣の上に倒れこんで自殺した。  ユダ国13代目王ヒデキヤは、イザヤから後に起
こるバビロン捕囚のこと、すなわち自分の子孫が裁かれることを聞いても深く悔い改め、へりく
だることをせず「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」自分が生きている間は平
和で安全だろうからと利己主義になった。 
 
語られた「ことば」がその人を試すが、試されたとき どうあるかはその人の責任である。 なら
「ことば」が語られない方がいいと思うかもしれないが、本来、神は我々に「ことば」を与えよ
うとしておられる。 ヨセフやペテロのように具体的、かつ直接的ではなくても聖書を通して、人
を通して「ことば」を与えようとしておられる。 また、出来事や状況、環境などを通して「主のみ
こころ」を知らせようとなさる。 どのようなかたちで与えられるか、どのくらいのレベルの「こと
ば」か、一人一人みな違うが、真に主を求めていく者には「主のことば」が与えられるであろう。 
「主のことば」を与えられるということは、いわば、神のご計画の内にあるということでもある。 
 
ヨセフが夢で神から「ことば」を与えられた後、多くの試しがあった。 兄弟たちに売られたこ
と、エジプトへ連れて行かれ奴隷にされたこと、ポティファルの家で強姦未遂として訴えられ、
無実の罪で監獄に入れられたこと、その監獄で同じ囚人の夢の解き明かしをしたこと、世界的
な飢饉、兄弟たちとの再会、・・・・すべて神の摂理であり、神のご計画を実現するために、ヨセ
フを鍛えるための試し、訓練試練となった。 ヨセフはその度、砕かれながら整えられながら、
「主のことば」に返り、「主と主のことば」の前にへりくだった。 そしてエジプトの宰相になり、
父や兄弟たちや父の全家族、幼い子どもに至るまで、食物を与えて養った。(創世記47:12) 
結局、「主のことば」にどう応答するのかである。 心の奥にある「思い」、表面的なものではな
く、心の奥、内側から表れる「行ない」が、その「ことば」に対して、どういう応答をしているのか
であろう。
 
我々も、真に主につながって、主から「ことば」をいただきたいものである。 どういうかたちで
与えられるかはわからないが、「主のことば」を聞き逃さないようにしたいものである。 主から
「ことば」が与えられて、主からの試し、試練があったとしても、主に寄りすがっていくなら、大
いなる助けがあり、必ず報われる。 とにかく日々の生活において、絶えず、主イエス・キリスト
から目を離さず、主の御心を知るために聖書を読み、祈っていくこと、そして主の御前にへりく
だり、一日一日聖霊の流れに乗っていきたいものである。
 
★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:6
 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。
 
★新約聖書 ヘブル人への手紙 2:18
   主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおで
   きになるのです。



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