めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年6月30日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<古きが終われば立つ位置が違う:ヨセフから学ぶ




★旧約聖書 申命記 9:7
   あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはなら
   ない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしで
   あった。

★旧約聖書 詩篇 103:2
   わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
 
★旧約聖書 イザヤ書 51:1
   義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、
   掘り出された穴を見よ。
 
●聖書に登場してくる人物の生涯からの学び。  先週のめんどり通信(2013年6月23日に続
いて、ヨセフから学ぶ。  父ヤコブには、4人の妻がいた。  ヤコブはラケルを愛していたの
で、ラケルを娶(めと)るために7年間伯父のラパンのところで働いた。  しかし、伯父のラパン
に騙され、姉のレアを娶ることになった。  その後、さらに7年間働いてようやくラケルを娶っ
た。  当時、結婚の最大の目的は、跡取りの子どもを得ることだった。  姉と妹の跡取りをめぐ
る戦いは結構、凄まじいものであった。  それぞれの召使をヤコブに側女として与えてまで子
どもを持った。
 
姉レアに6人の息子、レアの側女に2人の息子、妹ラケルの側女には2人の息子が生まれた
が、ヤコブが愛したラケルにはなかなか子どもが生まれなかった。 ヤコブが年老いてようや
く、ラケルとの間にヤコブにとって11番目の息子ヨセフが生まれた。 ちなみに12番目の息子が
ラケルとの間に生まれたベニヤミンである。 そのヨセフが将来、父、母、兄たち他、家族全員
がヨセフの前にひざまずく日が来るという夢で神からの示し(神のことば)を与えられた。  実
際、その夢の通りになるまでの17年間、ヨセフは神の試しを受けた。
 
ヨセフは、兄たちによってイシュマエル人に奴隷として売られたり、エジプト王パロの廷臣で侍
従長のポティファルのところでは、立身出世したと思えば、ポティファルの妻にしつこく言い寄ら
れ、断り続けた結果、濡れ衣を着せられ、監獄に入れられたりと、17年間は試練続きだった。  
しかし、主の試練、訓練によって、ヨセフは砕かれ、清められ、変えられていった。  エジプトの
大臣になったヨセフは、「古き」が過ぎ去り、新しくなっていた。
 
ヨセフは三十歳でパロに仕えるようになった。 パロの夢を解き明かした通り、7年間の豊作の
時が来て、その後7年間の大飢饉はすべての国に臨んだ。 世界中が穀物を買うために、エジ
プトのヨセフのところに来た。 ヨセフの十人の兄弟もエジプトで穀物を買うために、下って行っ
た。(創世記41章) 兄たちがエジプトでヨセフの前に来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ時、
ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかった。(創世記42:8) 
このとき、ヨセフは兄たちに「あなたがたは間者だ」とスパイの嫌疑をかけた。 自分の弟であ
るベニヤミンと父ヤコブの安否を知りたかったからだと思われる。 
 
兄たちが、一度父ヤコブとベニヤミンのところに帰り、再びヨセフの弟ベニヤミンを連れて来た
とき、ヨセフはまだ素性を明かさなかったが、兄弟たちを自分の家に招き、食事をともにした。 
兄弟たちが、目の前にいるのはヨセフだと気づかなかった理由は、ヨセフが通訳者をつけて話
していたということもあろうが、創世記43章34節には、食卓に招かれた兄弟たちは「ヨセフとと
もに酒を飲み、酔いごこちになった。(創世記43:34)」と書かれている。 本来、エジプト人はヘ
ブル人といっしょに食事をすることを忌み嫌っていた。 だから、エジプト人であるはずと思わ
れていたヨセフは兄弟たちと一緒に食事をすることはなかったはずだが、ここでは共に酒を飲
み、食事している。 それでも兄弟たちは、何も気づかなかったようである。 あのヨセフと一緒
に食事をしているなどとは露ほども思っていなかったようだ。 彼らにとって、ヨセフは過去の人
であり、過去の出来事であって、意識してか無意識かはわからないが、ヨセフのことに関する
記憶が薄れていたのかもしれない。  だから、ヨセフとはわからなかったのかもしれない。
 
また、兄たちは過去の出来事(ヨセフを売ったこと)について、覆い隠すだけで真の悔い改めを
していなかったから、彼ら自身、ある意味、霊的な成長をしておらず、人(ヨセフ)や物事の見
方が正しく見えなかった可能性はある。 人はうわべを見るが、主は心を見る。(Tサムエル16:
7)  我々も霊的に成長していくなら、人のうわべだけを見ず、心の奥底、霊からかもし出され
るものを見て、人のうわべに左右されないようになってくる。 また、兄たちは、ヨセフが語った
夢を「神のことば」と捉えていなかったから、年数が経って外見が変われば、見抜くことができ
なかったのではないだろうか。 たとえヨセフの夢の語り方に問題があったとしても、ヤコブは
このこと(夢)を心に留めていた。(創世記37:11) 
 
一方ヨセフは、兄弟たちに会ったとき、17年間で神に試され、砕かれ、変えられた新しい位置
から過去を見ている。  ヨセフの心は、決して過去にフラッシュバックしていない。 フラッシュ
バックして、兄たちに落し入れられ苦しんだ当時に戻っていない。 すべては神のご計画だった
と認識できるようになっていた。 「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出した(創世記4
2:9)」と書かれている。  すなわち、「神のことば」に返った。  だから外見は変わっていても
兄弟たちであるとわかった。
 
「古き」が終われば立つ位置が違ってくる。 新しくなる。  ただ、「古き」の終わり方は、一人一
人違うものである。 基本的には、主の十字架が必要である。  聖書のみことばとおり、「私た
ちの古い人がキリストとともに十字架につけられる」ことが必要であるからだ。 ただ、具体的
には、やはり一人一人、「古き」の終わり方は違う。  いうなれば、「古き」私は十字架につけら
れた、ということばは実際であり、実際であるからこそ、一人一人の体験があるものである。 
祈っていたら自然に、知らないうちに「古き」自分が終わっていた、などということはない。 主
は「古き」を終わらせるために、一人一人に応じてヨセフのように、試練、訓練、試しを与えるで
あろう。  主に愛されている者は、一人ひとりに応じて、訓練してくださる。 「主は愛する者を訓
練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである。」(ヘブル12:6口語訳)
 
ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答
えることができなかった。 驚きだけでなく、恐れや不安も入り混じっていたようである。 そん
な兄弟たちにヨセフは、「神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。・・・、大いなる救
いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。(創世記45:7)」と言ったが、父
ヤコブが死ぬと兄たちは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の
仕返しをするかもしれない。(創世記50:15)」とヨセフを恐れた。 ヨセフが兄たちに売られてエ
ジプトに来たのは、神のご計画があったことだとヨセフ自身が言い、父ヤコブもそのことを理解
していたはずなのに、兄たちは、過去がフラッシュバックしたところの位置、すなわち「古き」と
ころに立っていた。 立つ位置が違うから、いつまでも過去を引きずってしまう。 そして、神の
ご計画を見失ってしまう。 
 
兄たちは、父ヤコブの遺言を創作し、ヨセフに罪の赦しを願い出た。 これを聞くと、ヨセフは
泣いた。 どういう涙だっただろうか? ヨセフの前でひれ伏して「私たちはあなたの奴隷で
す。」と言った兄弟たちに、ヨセフは、彼らを慰め、優しく語りかけた。 「あなたがたは、私に悪
を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。・・・ですから、もう恐れ
ることはありません。・・・(創世記50:20,21)」と。 その後、兄弟たちは、真の悔い改めをして
「古き」から「新しい」位置に立ったと思われる。 ヨセフが110歳で死ぬまで、ヨセフは一族を養
い続けたと記されている。 死ぬ前に、兄弟たちに「神は必ずあなたがたを顧みてくださるか
ら、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから、(神の約束の地カナン)に携え上ってくださ
い。」と言った。 彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めたが、実際、出エジプトのとき、
この棺はイスラエル人と一緒に運び出された。(出エジプト13:19)
 
我々はヨセフのように、「古き」が終わり、新しい位置に立って、過去を見ることも大切なことで
ある。 新しい位置から見るならば、過去もそれまでの経過のいろいろなことも、主の哀れみ
のご計画の内であったことを知ることができるものである。 知らなかったとはいえ、罪人として
過ごしてきた日々のこと、愚かだった行動、軽はずみな言葉、欲丸出しの思い、・・・それらの
一つ一つを主はご存知であったが、悔い改めたとき、許してくださったこと、罪人の自分を赦し
てくださったこと、あの出来事によるあの苦しみは、主の試しだったんだということ、あの暗闇
の日々は、主の試練、訓練だったんだということ、・・・を一つ一つ、主に感謝しつつ思い出すこ
とができるものである。 そして、本当の前進ができるものである。 決してフラッシュバックす
ることはない。 立つ位置が「古き」でなければである。 
 
聖書に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ
去った。見よ、すべてが新しくなりました。(Uコリント5:17)」とあるから、キリストを信じた者、ク
リスチャンはみな「古き」は過ぎ去っていると、本当に言えるだろうか? みことばは真実である
とともに実際なのである。 本当に「古き」が過ぎ去るためには、人によっては真の悔い改めが
必要であったり、主からの示しによる取り組みが必要であったり、主から「ことば」を与えられて
いる者で、たとえどんなことがあってもその「ことば」に返り、握ることが必要であったり、・・・と
一人一人みな違う。 「主の十字架」という土台があるから、「古き」が終われるのであり、「主
の復活」ということがあるから「新しい」位置に立てるのである。 新しい位置で、主の喜ばれる
ことを行い、いつくしみを愛し、へりくだって主なる神とともに日々を歩んでいきたいものであ
る。 それが主が我々に求めておられることである。(ミカ書6:8)
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28
   神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
   のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。




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