めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年4月28日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「恵み」についての考察:メフィボシェテから学ぶ>



★旧約聖書 サムエル記 第二 9:1
   ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタン
   のために、その者に恵みを施したい。」
 
★旧約聖書 詩篇 62:12
   主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。
 
★旧約聖書 箴言 3:34
   あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。
 
●主なる神は、我々に「恵みを施したい」と望んでおられる方である。 ただ、「恵みを施す」
とについて、様々な方法、かたち、意味合い、経緯、・・など聖書から多く学ぶことができる。 
ダビデの時代の登場人物、メフィボシェテについて、見てみる。 多くの方々は、みな「メフィボ
シェテ」は、へりくだっている、真実、ダビデに対する忠誠無私な態度はすばらしい、・・と評価
しているようである。 著者も以前は同じように思っていたが、聖書を何回か通読するうちに違
うのではないかと思うようになった。 (HPめんどり通信/2010年3月14日3月21日参照)
 
ダビデが全イスラエルを統治するようになり、「ヨナタンのために、サウルの家の生き残りの者
に恵みを施したい。」と捜索が行われ、ヨナタンの子メフィボシェテが連れて来られた。 ダビデ
は、メフィボシェテに、祖父のサウルの地所を全部返すことと王の息子のように王の食卓で食
事をするという恵みを与えた。 そのときメフィボシェテは「このしもべが何者だというので・・こ
の死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか(Uサムエル9:8)」と言ったが、これは、へりく
だった言葉なのか卑屈な心の表われの言葉なのかは、この場面だけで判断することは難
しい。 前王サウルの孫ということで、メフィボシェテはいつ命を奪われるかと、ビクビクして隠
れるように生活していた。 その彼が、ダビデに「恵み」を与えられ、その生活は一変したので
ある。 メフィボシェテが、サウルとヨナタンの訃報を聞いとき、5歳だったが、その時、うばが彼
を抱いて急いで逃げようとして慌てたので、彼を落とし、それが原因で足なえになってしまった
ことなど、それまでがあまりにも不幸な生い立ちのゆえ、たとえ、そのときは卑屈な心持ちで
あったとしても、仕方がないことかもしれない。 「恵み」の中で生活していく内に「へりくだり」が
養われていけばよいことである。 ダビデが、神殿の建築の準備を終えた状況での祈りのと
き、「私は何者なのででしょう・・(T歴代誌29:14)」と、メフィボシェテと同じような言葉を使って
いるが、かもし出されて来るものが違うように感じられる。
 
さて、それから後、ダビデの子アブシャロムが謀反を起こした。 ダビデは、エルサレムを追わ
れた。 「ダビデはオリーブ山の坂を泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。(Uサ
ムエル15:30)」と書かれている。 ダビデが苦しんでいるとき、オリーブ山の頂から少し下った
所で、ダビデによってメフィボシェテのしもべになったツィバが、王の家族のために二頭のろ
ば、若い者たちのためにパン二百個、干しぶどう百ふさ、夏のくだもの百個、荒野で疲れた者
が飲むためにぶどう酒一袋持ってダビデ王を迎えに来ていた。 これらはダビデが必要とす
る物だった。 ダビデは、ツィバにメフィボシェテの所在を尋ねると、エルサレムにいることを言
い、それに加えて、あたかもメフィボシェテはアブシャロム側についたと言わんばかりの返答を
した。(Uサムエル16:3) ダビデはツィバに、「メフィボシェテのものはみな、今、あなたのもの
だ。」と言った。 確かに、このところだけを見れば、ダビデは一方の言い分だけを聞いて判断
したように見受けられる。 しかし、現実にメフィボシェテはダビデのところに来ておらず、また
この話しの全体を見るとき、決して、ダビデは気分だけで決定したようには思えないのだが?
  
このとき、ダビデはまだ勝利していたわけではない。 ダビデは、エルサレムに留まって戦うこ
ともできたと思われるが、そうなると多くの血が流されることを懸念して逃げることにしたと思わ
れる。 しかし、傍から見ると、アブシャロムの方が優勢と見えただろう。 そういうときに、ツィ
バは、ダビデのところに来た。 そして、ダビデの必要な物を提供した。 ダビデは、王としての
油そそぎを3回受けたが、1回目は、神の命によってサムエルから密かに受けた。 このこと
は、神からの油注ぎといえる。(Tサムエル記16:1) ツィバは、そのことを知っていたのだろう
か? 神から 油注がれた王は、必ず「王」となる。
 
その後、アブシャロムが死に、ダビデは再びエルサレムに戻ることになった。 エルサレムに
戻る途中、ツィバは十五人の息子、二十人のしもべを連れて、王が渡る前にヨルダン川に駆
けつけた。 そして、彼は、王の家族を渡らせるために渡しを渡って行き、王が喜ぶことをし
た。(Uサムエル19:17,18) そこにメフィボシェテもエルサレムからダビデ王を迎えに来た。 
何故ダビデがエルサレムを追われるときに、一緒に付いて来なかったのかの答えを王さま。
私の家来が、私を欺いたのです。このしもべは『私のろばに鞍をつけ、それに乗って、王といっ
しょに行こう。』と思ったのです。しもべは足なえですから。ところが彼は、このしもべのことを、
王さまに中傷しました。しかし、王さまは、神の使いのような方です。あなたのお気に召すよう
にしてください。私の父の家の者はみな、王さまから見れば、死刑に当たる者に過ぎなかった
のですが、あなたは、このしもべをあなたの食卓で食事をする者のうちに入れてくださいまし
た。ですから、この私に、どうして重ねて王さまに訴える権利がありましょう。」(Uサムエル1
9:26-28)と言ったが、真のへりくだりから出たようには感じられないのだが? むしろ、ダビ
デをほめ、自分をへりくだらせるような言葉で自分の身を守っているように思えるのだが? 
 
ツィバが王にメフィボシェテのことを中傷しても、潔白ならば、何も恐れることはないはずであ
る。 ツィバが言うことは偽りであることを、ダビデに言えばすむことである。 足なえだから、ろ
ばに鞍をつけたり、一人で乗ることができなくてもメフィボシェテにはミカという幼い息子がいた
から、妻もいたであろう。 ツィバ以外のしもべもいた可能性がある。 いずれにしても、足なえ
だということ、中傷されたということは、ダビデに付いて行かなかった理由にはなり得ないと思う
のだが、どうだろうか? それで、ダビデはメフィボシェテに「あなたはなぜ、自分の弁解をくり
返しているのか。」と言ったのではないだろうか。
 
また、Uサムエル記19章24節に、メフィボシェテは、「王が出て行った日から無事に帰って来た
日まで、自分の足の手入れもせず、爪も切らず、ひげもそらず、着物も洗っていなかった。」
書かれている。 この箇所を多くの人たちは、メフィボシェテは、へりくだっており、ダビデに対し
て忠誠を尽くしているという。 しかし、もし、著者が、キリスト者(クリスチャン)ではなく、自我の
砕き、肉の切り取りなど体験していなかったとして、メフィボシェテの立場だったら、同じように
するかもしれないと思った。 ダビデがエルサレムを追われたときは、アブシャロムかダビデか
どちらが勝利して確固たる「王」になるのかわからない、決着のついていない状態であり、戦い
戦いの時代である。 立場上、自分を守るためには、どちらが勝利しても自分の身が守れる備
えをすると思う。 もし、アブシャロムが勝てば、アブシャロムに対しての「言葉」を言うであろう
し、ダビデが勝利したら、やはり上記のようなメフィボシェテが言った言葉を言うだろうと思っ
た。 そして、著者ならダビデよりアブシャロムに対しての対策の方を重要視する。 ダビデ
は、父ヨナタンと愛の信頼関係にあったからだ。 だから、エルサレムに留まる方を優先する。 
 
その観点で見るなら、ツィバは、決着もついておらず、しかもダビデが追われているときに、ダ
ビデに付くようなことをしたから、ダビデが神の命によっての油そそぎを受けていたことを知っ
ていたか、もしくは、日々のメフィボシェテの生活で見る彼の性質から、自分の身を守るため
に、彼がどっちつかずの態度を取っていると見ていたから、中傷じみたことを言ったのかもしれ
ない、とは考えられないだろうか? ただ、メフィボシェテを中傷して主人の地所を手に入れよ
うとした画策があったことは事実であろう。 ダビデに必要な物を献呈したり、ヨルダン川を王
の家族が渡るためにダビデが喜ぶことをしたとしても、心の奥に隠されていた不純な動機をダ
ビデは見抜いたのかもしれない。 ダビデは、メフィボシェテに「あなたとツィバとで、地所を分
けよ。」と言った。 するとメフィボシェテは、「王さまが無事に王宮に帰られて後なら、彼が全部
でも取ってよいのです。(Uサムエル19:30)」と言った。 ダビデが決定したことばに対しては、
「わかりました。」もしくは「はい。」とダビデのことばを、そのまま受け入れることが、本当のへり
くだりではないだろうか。 「自分の身を守るため」という思いが心の片隅に少しでもある中での
「へりくだり」は、主が我々に望んでおられる「へりくだり」ではない。 「へりくだる」とは、主なる
神を優先するということ。 まず「神と自分」であり、自分が先ではないということである。 
 
メフィボシェテは、足なえだったが、 「足なえ」はたとえとして見るとき、 「信仰の歩み」のない
者、頼りない者、はっきりしない者をたとえている。 そういう者は、神が定められた道をまっす
ぐに歩むことができない。 その道の先には、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない永遠の天
の御国がある。(黙示録21章) ところが、我々は、自分勝手な道を進み、その道の行き先も
知らず、神からののろいを受けても仕方のない者だった。 そのような「足なえ」の我々を、主
イエスが探してくださり、神のもとに返してくださったのである。 我々が救われるために、御子
イエスは、十字架にかかられ、血を流され死なれた。 そして、3日目によみがえられ今も生き
ておられ、今もなお、「足なえ」の者に「神の恵み」を施そうと探索されておられる。 「神の恵
み」は、いろいろあるが、「神からの救い」は、最大の神の恵みである。 ただ、メフィボシェテ
のことでもわかるように、「恵み」は半減する。 それでも、メフィボシェテは、ダビデのあわれみ
をいただいたが、それはヨナタンのゆえである。  我々が「神からの恵み」をいただけるのは、
キリストのゆえであることを、決して決して忘れてはいけない。 
 
主は、真にへりくだっている者に「神の恵み」を与えてくださり、御心を教えてくださる。 混じり
けのない純粋な「へりくだり」を身につけたいものである。 そのためにも 日々絶えず、主イエ
ス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交わりを深くしていき、
聖霊の流れに乗って、主の喜ばれる者になりたいものである。
 
★旧約聖書  詩篇 19:14
   私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖
       い主、主よ。

 
 

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