めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年3月14日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<ダビデを愛したヨナタンの子メフィボシェテから学ぶ>


★新約聖書  第一コリント人への手紙 2:10,11,14
       神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の
       深みにまで及ばれるからです。  いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほ
       かに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかに
       はだれも知りません。
       生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚か
       なことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊に
       よってわきまえるものだからです。

第二サムエル記にメフィボシェテとツィバが登場する。  メフィボシェテと言えば、よくへりく
だった人として評価されることが多い。 ダビデ家とサウル家の長い戦いのすえ、サウル家は
血筋が途絶えようとしていた。 通常、前の王の一族は、根絶やしにされるものだったが、その
中にサウルの子ヨナタンの子であるメフィボシェテが生き残っていた。 

彼は足なえだった。 それは彼が5才のときサウルとヨナタンが死んだことを聞いたうばが、メ
フィボシェテを抱いて逃げようとした。 そのときあまりにも急いでいたので彼を落とした。 そ
のことが原因でメフィボシェテは足が不自由になった。

そのメフィボシェテにダビデはあわれみを示した。 ダビデは「恐れることはない。私は、あなた
の父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなた
に返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。(Uサムエル9:7)」
と言った。  メフィボ
シェテの父ヨナタンは生前、ダビデに命をかけて愛しているという友情を身をもって表した。 
それでメフィボシェテはヨナタンの子というのでダビデから恵みを受けた。 そのときメフィボ
シェテは「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださる
のですか。(Uサムエル9:8)」
とへりくだった。 しかし、恐れが伴っていたと思われるので、全
くへりくだったというような感じには受け取れない

その後、ダビデがアブシャロムの謀反によりエルサレムを追われ、ダビデに従うすべての民と
一緒に逃げ出すときメフィボシェテはついて行かなかった。 その理由を「王さま。私の家来
が、私を欺いたのです。このしもべは『私のろばに鞍をつけ、それに乗って、王といっしょに行
こう。』と思ったのです。しもべは足なえですから。 ところが彼は、このしもべのことを、王さま
に中傷しました。(Uサムエル19:26,27)」
と答えた。 この理由でついて行けなかったと言った。

そして続いて「しかし、王さまは、神の使いのような方です。あなたのお気に召すようにしてく
ださい。 私の父の家の者はみな、王さまから見れば、死刑に当たる者に過ぎなかったのです
が、あなたは、このしもべをあなたの食卓で食事をする者のうちに入れてくださいました。です
から、この私に、どうして重ねて王さまに訴える権利がありましょう。(Uサムエル19:26^28)」

ダビデをほめ高めながら、自分をへりくだらせるようなことを言っている。 

するとダビデは「あなたはなぜ、自分の弁解をくり返しているのか。私は決めている。あなたと
ツィバとで、地所を分けなければならない。」
と言った。  するとメフィボシェテは「王さまが無事
に王宮に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです。」
と言った。 しかし、これらのとこ
ろから、メフィボシェテがへりくだっているように感じられないのは著者だけだろうか。

むしろダビデが言うように弁解と聞こえる。 中傷とは、メフィボシェテはエルサレムに留まって
いて、ダビデがエルサレムを追われたので、これでサウル王朝が復興すると喜んでいたという
ようなことである。 もちろん事実ではない。 ツィバは確かに悪い。 しかしメフィボシェテは自
分が潔白なら、家来が中傷したとしても、ついて行ったらいいのではないか、足が不自由なら、
そばにいる別の家来か誰かに連れて行ってもらったらいいのではないか、と思うのだが? 
ツィバの助けがなければ、エルサレムから脱出できなかったのだろうか? また、「足なえ」と
いうことを口実にしているようにも感じられる。

また、理由のあとの言葉(Uサムエル19:26^28)も弁解交じりのほめ言葉を言って、自分をか
ばっているように感じる。 また「彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分
の足の手入れもせず、爪も切らず、ひげもそらず、着物も洗っていなかった。(Uサムエル19:2
4)」
と書かれているが、願掛けに似た感じがする。 そこまでするのなら どうしてついて行か
なかったのか?と疑問に思うのは著者だけだろうか。 

そしてダビデが「あなたとツィバとで、地所を分けよ。」と言った後で、メフィボシェテは「王さまが
無事に王宮に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです。(Uサムエル19:30)」
と言った
が、ダビデ王が決定した後に、このように言ったメフィボシェテは謙遜ぶっていると感じる。 

ダビデがツィバの嘘を見抜けなかったから「メフィボシェテのものはみな、今、あなた(ツィバ)の
ものだ(Uサムエル16:4)」
と言ったのではなく、メフィボシェテがダビデについて行かなかった
から、ダビデはそのように言ったのではないだろうか。 メフィボシェテが「ダビデについて行く」
ということが重要だったのではないだろうか。 ダビデのことば「メフィボシェテのものはみな、
今、あなた(ツィバ)のものだ」「あなたはなぜ、自分の弁解をくり返しているのか」「メフィボシェ
テよ。あなたはなぜ、私といっしょに来なかったのか。」
などからは、非を感じないのだが・・・。

もし、これらの捉え方を主が良しとされるなら、聖書の著者は神ご自身であられるから、聖書
は前後関係、全体を読んで、神が我々に与えようとしている霊的なものを感じ取っていく必要
があるということではないだろうか。 聖書は霊の書物である。 神の御霊に属する。 人間の
頭の基準で理解するものではない。 だから字面だけでは、とうてい神の御心、御旨、奥義は
分かりえない。 それは聖霊によってわかるものである。 聖書は決して”善い””良い”ことを
書いている道徳系、哲学系の本ではない。 神のことばが書いているのである。

へりくだっている者に主は御心を教えてくださる。 混じりけのない純粋なへりくだりを身につけ
たいものである。 そのためにも 日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前に
へりくだって祈り、キリストとの交わりを深くしていき、聖霊の流れに乗って、主の喜ばれる者に
なりたいものである。
 
★旧約聖書  詩篇 19:14
    私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖
       い主、主よ。




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