めんどり通信/2013年3月17日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <神の恩を忘れる者になってはいけない> |
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★旧約聖書 詩篇 103:2
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:21、23
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわた
しの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。
イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守る
であろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行っ
て、その人と一緒に住むであろう。
●出エジプトしたイスラエル人たちは、なぜ何度も何度も繰り返しつぶやいたのだろうか。 神
の大きな奇蹟を幾つも見たり、体験したりしたはずなのに・・・。 その中の一つの原因は、長
年の奴隷生活で、染み込んでいた「奴隷根性」、すなわち自分たちは何の責任も負わず、悪い
状況を人のせいにして、不平不満を言うなどの言動をする性質があったからだといえよう。(め
んどり通信HP NO、546参照) しかし、ただ、それだけでもないようである。
最初の人、「アダムとエバ」は、「神のかたちに」創造され、「自由意志(意思)」を与えられた。
「神は愛である」からだ。 そして、人が「愛によって」生きるようにと招かれ、神との愛の交わり
に入らせていただいた。 また、「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、
またそこを守らせ」るという責任と、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という一
つの命令を与えた。(創世記2:15-17)
アダムとエバは、罪が入る前は、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞けば、すぐに神
との愛の交わりをしたと思われる。 しかし、罪が入った後は、主の声を聞くと、彼らは、神であ
る主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 明らかに「罪」が、人を神から引き離した。
人の神に対する「愛」を失わせ、替わりに、人が自分という「人」を中心に生きるようになった。
その後、神を恐れて、隠れていた二人は、呼びかけられて、神の前に出てきたが、たった一つ
の神の命令に背いたこと、善悪の知識の実を食べたことの言い訳をした。 アダムは「あなた
が私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と
言い、エバは「蛇が私を惑わしたのです。」と言い訳をした。 悔い改めのひと言の言葉もなく、
悔い改めの一かけらの心も感じられない。 奴隷になったこともないのに、人のせいにして自
分の身を守るという「奴隷根性」がすでに表われている。 人の神に対する「愛」が失われると、
人の「他の人」に対する愛も失われるようである。
その後の人は、「罪人」として生きなければならず、死が全人類を支配するようになった。 長
い時を経た後、主なる神は人を救うために「アブラハム」を選ばれた。 アブラハムを通して、
地上のすべての人を救おうとする神の救いの歴史が始まった。 「人を救う」とは、「神と人との
愛による交わり」を復活させることでもある。
アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブ、ヤコブの子ヨセフがエジプトで大臣となり、ヤコブと
家族70人がエジプトに寄留して後、その数はおびただしく増えていった。 ヨセフの死後、イス
ラエル人たちはエジプトで約400年間にわたって奴隷となり、過酷な重労働を強いられるときが
長く続いたので、先祖の神に叫んだ。 その叫びを聞かれた主は、モーセを召された。 モー
セを用いて、イスラエル人たちを出エジプトさせた。 彼らは、エジプトに対する十の災い(不思
議)を見た。 その中での主である神の守りも体験した。 しかし紅海の手前でエジプト軍に追
いつかれそうになると「エジプトにいた時は良かった。」とつぶやいた。 それでも主は、紅海の
水を分けて、イスラエル人たちを海の真中のかわいた地を、進んで行かせるという壮大な奇
蹟を見、体験させた。 それなのに、その3日後には、水が苦いと言って、民はつぶやいた。
へりくだって神に求めるでもなく、素直に実情をモーセに話すでもなく、つぶやいた。
忍耐の主は、苦かった水を甘くしてくださった。 それにも関わらず、今度は「食べるものがほ
しい。エジプトでは肉もパンも満ち足りるまで食べていた。」とつぶやいた。 エジプトでの過酷
な奴隷生活をすっかり忘れたかのように、また出エジプトをしたことが迷惑だったかのように、
つぶやいた。 主は、天からのパン、マナを与え、「肉が食べたい。」と言えば、肉を与えられ
た。 ただ、与えたのではなく、いつも教訓をもって対処された。 しかし、彼らは、あれほど労
役にうめき、わめいて神に叫んでいたのに、出エジプト、すなわち解放の実際が始まったとき
から、何度も何度も、当て付けのように、エジプトでの生活を引き合いに出しては、つぶやい
た。 モーセにつぶいやいたことは、「主につぶやいた」と主は言われた。(民数記14:29)
主がイスラエル人をエジプトの奴隷から解放された目的は、神の民にすること、すなわち「祭司
の王国、聖なる国民」とするためだった。(出エジプト19:6) 「乳と蜜の流れるカナンの地」、そ
れは「神の住まわれるところ」、すなわち我々が目指している「天の御国」をあらわす。 「人が
神と一緒に住む」ところであり、この地上においても成されることである。 そこでは、「神と人と
の愛の交わり」が復活する。 パウロは、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなた
がたに宿っておられる(Tコリント3:16)」と言っている。
出エジプトしたイスラエル人たちは、滅びから救われるだけでなく、アダムとエバのときに失わ
れた、「神と人との愛による交わり」を得るはずだった。 しかし、結局、それを拒んだのは彼ら
自身であり、その表われが「つぶやき」であったと言えよう。 出エジプトしたイスラエル人たち
の40年間の荒野での言動を見てわかることは、彼らは、何度も何度も命を助けられ、表面的
な解放、救いだけでなく、真からの解放、救いを与えるために現わされた神の奇蹟や教訓に対
して、つぶやいたということ。 要は、主である神に対して何の「恩」も感じていないということで
ある。 主に対して「恩」を感じないのだから、主なる神を愛することができないはずである。
ちなみに「恩」とは、本来「恵み」を意味し、「恩」の根本は、感謝の念にある。
「恩を仇(あだ)で返す」と言うことわざがあるが、主なる神から離れること、主を愛さないこと、つ
ぶやくことは、「恩を仇(あだ)で返す」ことであると言えるのではないだろうか。 また、「恩の腹
は切らねど情けの腹は切る」ということわざがある。 意味は「受けた恩に報いるために命を捨
てる者は少ないが、義理人情のために命を捨てる者は多い。」ということである。 主のために
命を捨てることは、本当に難しいものである。 人は、肉の情にはすぐに反応するが、案外受
けた「恩」にはなかなか報いようとしないものかもしれない。 それを妨げるのが、アダム以来
の「罪」であり、「肉(生まれつきの性質)」であり、「自我(自分)」である。 それらがあるため
に、人は滅びに向かわなければならなかったが、その滅びから人を救うために、主イエス・キリ
ストは十字架で死んでくださったのである。
人は、主なる神に「恩」があるのだ。 その「恩」は、しかたなしにする行為や強いられて感じる
ものではない。 心からの感謝の念とヘリくだりが伴うものである。 だから、主に対して「恩」を
感じている者は、主を愛することができる。 マグダラのマリアもレギオンを追い出していただ
いた墓場のゲラサ人も、盲目だったのを見えるようにいやされた人も、癒されたらい病人も主
を裏切ったのに許されたペテロも…。
彼らはみな、「神の恩」を感じた。 だから、主を愛する
ことは彼らにとっては当然のことだった。 愛さずにはおられなかったのだ。 もちろん、愛し方
は、最初は不十分であっただろう。 それでも、主は、一人一人に応じて訓練、試練を与え清
めてくださり、主を愛することさえ成長させていただいた。 神を愛することが成長するとは、主
なる神イエス・キリストとの交わりが深まり、「神のみこころ」をわかって言動できるようになると
いうことである。
出エジプトしたイスラエル人たちで第一世代の多くの者たちは、「つぶやき」という、いわば不信
仰のため、40年間荒野をさまよったが、神の約束の地に入れなかった。 「主の良くしてくだ
さったことを何一つ忘れるな」と詩篇103:2に書かれているが、良くして下さったことに対して、
感謝も恩も感じないことは、恐ろしいことである。 それは自分をまたぞろ、滅びに向かわせて
いることだからである。 我々は、今までの人生、これからの人生において「すべての道で主
を認め」、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れ」ず、いつも主に心からへりくだって「神の
恩」を感じられるように清められたいものである。(箴言3:6、詩篇103:2) そして、自発的な
「恩返し」、すなわち、主に「すべての事について、感謝」し、日々絶えず、主イエス・キリストか
ら目を離さず、主と主のことばの御前にへりくだり、絶えず主の御心を知って祈っていきたいも
のである。
★新約聖書 テサロニケ人への手紙 第一 5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに
望んでおられることです。 |
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