めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年2月10日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「奴隷根性」が全く取り除かれるようにと願う!>



★新約聖書 ローマ人への手紙 6:16
   あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として
   服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、
   あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 6:22
   しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着
   く所は永遠のいのちです。
 
旧約聖書 出エジプト記32章には出エジプトしたイスラエルの民が子牛崇拝をして神に裁か
れたことが記されている。 エジプトに奴隷として売られたヨセフが、エジプトで大臣になり、カナ
ンの地が飢饉のとき、ヤコブとその一族が、ヨセフのところに移住して、そこに住み着いた。 
ヨセフが死んで後、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった頃から、イスラエル人
たちは奴隷として厳しく扱われた。 長い間のエジプトでの奴隷生活で、イスラエルの民は、神
をあがめて生きていた自分たちの先祖アブラハム、イサク、ヤコブやヨセフのことなどを忘れて
しまったかのようだった。 それほど、奴隷生活の中で、「奴隷根性」が染み付いたものと思わ
れる。 「奴隷」の意味は、「あるものに心を奪われて自主性を失い、行動を束縛されている
人。」「心を縛られ逃げられない人。(三省堂)」と辞書にはある。 神から授かっている「自由意
志(意思)」を用いることができないということである。
 
パウロは、神の栄光を現わすため、神に忠実に従うという意味で「神の奴隷」という言葉を使っ
ているが、「人の奴隷となってはいけない。」「罪の奴隷となってはならない」ことを語っている。
(Tコリント7:23、6:20、ローマ6章)  「誰の奴隷になっているのか」が大きな鍵となる。 「神
の奴隷、神のしもべ」として正しい位置にいるなら、主のみこころを悟って、自分の自由意志で
もって、主のみこころを行なおうとしていくであろう。 そして、聖霊も導いてくださるであろう。 
決して、盲従することはない。 しかし、留まるべき位置がずれると、「奴隷根性」が染み込む
か、もしくはすでに染み込んでいる「奴隷根性」が頭を持ち上げてきて、「盲従」するか「好き勝
手」な行動をとるという可能性がある。 
 
「奴隷根性」とは、強い人には下手に出て、主体性を捨てて追従し、弱い人、下手に出る人に
対しては、威張る態度をとったり、悪い状況を人のせいにしたり、不平不満を繰り返し言った
り、・・などの行動をとる性質である。 出エジプトしたイスラエル人たちが、子牛崇拝に興じた
原因の一つに、彼らの中に「奴隷根性」が染み込んでいたからだと思われる。 エジプトで過酷
な奴隷生活で苦しみ叫んでいたはずなのに、そのエジプトを懐かしんだり、エジプトの奴隷から
救われるために、神の大きな奇蹟を幾つも見たり、体験したりしたはずなのに、目先の苦しみ
にあう度に、奴隷から救われたことが迷惑だったように、モーセに詰め寄り、不平不満を言っ
たりした。 モーセは、不平不満を言うイスラエル人たちに「なぜ主を試みるのですか。」と言っ
た。 出エジプト記17:7には、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、
主を試みたからである。」と書かれている。 大きな救い、神の恵みを体験しても、大きな奇蹟
を体験しても、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」という疑いが心の根底に
ある。 これが「奴隷根性」のあらわれである。
 
我々は、サタン(悪魔)が、「この世の君」である「世」で生きている。 世のものが、いつでもど
こででも染み込んでくる環境にある。 そして昨今は、その「世」が強くなったように感じられる。 
人は「世」を良くしたいと願ってきているはずなのに、その想いとは裏腹に「世」はますます悪く
なっている。 神は「この世と調子を合わせてはいけない」「世と世にあるものとを、愛してはい
けない」(ローマ2:2、Tヨハネ2:15)と言われる。 しかし、「世」の方が強く、ともすれば巻き込
まれそうになる経験を、多くのクリスチャンがしてきたことであろう。 また、アダムとエバ以来
の「罪」、「罪の性質」の中には、「奴隷根性」が含まれているようにも思われる。 
 
さて、子牛は当時、エジプトでは神として拝まれていたという。 彼らが奴隷としてエジプトに滞
在していたとき、彼らの心の奥深くにまで、「子牛は神である」ということが染み付いたと思われ
る。 人は生活しているところの習慣、宗教などが、案外、深く染み込んでくるものかもしれな
い。 イスラエル人は子牛崇拝をすることによって、出エジプトで神が示された御力も神の奇跡
も、無益なものとしてしまった。 
 
聖書のことばは、たとえとして多く書かれているが、牛や羊などは、クリスチャンの型である。 
他にも、太陽、月、星、やぎなど多々クリスチャンの型がある。 「子牛崇拝」をするということ
は、クリスチャンという「器」を崇拝する、すなわち「器」を神の位置にまで押し上げて、「崇拝す
る」「礼拝する」ことである。 「奴隷根性」が対処されておらず、その人の中で上位を占めてい
るなら、聖書が禁じている「偶像崇拝」、すなわち「器崇拝」に陥る危険性が大いにあるという
ことである。 
 
また、「マインドコントロール」など、カルトも、その言葉は「ラテン語で「崇拝」や「儀礼」を意味す
るcultusを語源としているという。 結局、教えやそれらの教え方、導き方で、自分自身で考え
させない、判断させないように支配していく。 主体性を捨てさせて追従させるような「奴隷根
性」を染み込ませている。 本来あってはならないことだが、キリスト教会の中にも「マインドコ
ントロール」が横行していると聞く。 「キリストの救い」に導き、「キリストとしっかり結ばせる」務
めに預かっている教会の教役者たちが、自分たちの熱心から、クリスチャンたちに「マインドコ
ントロール」をかけているという事実がある。 自分たちは、まさかそうしているとは気付いてい
ない指導者も多いが、いくら熱心からでも、そのような指導者たちは、信者の心の奥底に「奴隷
根性」を染み込ませていることになる。  
 
さて、「偶像崇拝」も「器崇拝」も神の怒りをかう。 また「マインドコントロール」は、主が定めら
れた道を歩むことから逸らさせる。 いずれも、ゴールである「天の御国」に到達することがで
きない。 だから、いずれ「偶像崇拝」や「器崇拝」に陥らせようと誘う「奴隷根性」、「マインドコ
ントロール」の罠に誘う「奴隷根性」は、取り除かれる必要がある。 そして、それはすでに、イ
エス・キリストが十字架にかかってくださり処分してくださっておられることである。 そして、3
日目によみがえられて、今も、我々を「天の御国」への道、一人一人に応じた道へと導こうとし
てくださっている。 「肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。」と書
かれているように、肉における苦しみ、苦難は、罪とのかかわりを絶ちやすくさせる。 主が「神
の子」と認めておられるなら、その人に応じて神からの「訓練(懲らしめ)」、「試練」があり、神
がゆるされる範囲の「苦しみ」「苦難」はある。 また、自業自得による苦しみや自分が失敗し
た結果の苦しみもある。 いずれの「苦しみ」「苦難」であっても、そのときに主に必死に祈り求
めるなら、それらの「苦難」のときは、聖められるときともなる。
 
とにかく、我々の心の奥に潜んでいるかもしれない「奴隷根性」が一点でも残らないようにと願
う。 「このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心
の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。(Tペテ
ロ4:1 )」というこのことばを、しっかりと受け止めて、正しい位置で「神のしもべ」となっているか
どうか、自分自身を吟味し、へりくだって、日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主
に尋ねること、いつも祈ること、神に依り頼むことをしていきたいものである。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 4:6-8
   そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たち
   の心に遣わしてくださいました。 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。
   子ならば、神による相続人です。 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は
   神でない神々の奴隷でした。
 


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