めんどり聖書研究会 TOPへ > 証しによるプロフィール一覧

2015年10月18日地域の行事、秋祭りにどう対応するか:出エジプトしたイスラエル人と異邦人のナアマンと証しから思考

著者の場合。 キリストに救われる前、自分が変わるため、救われるために、数々の偶像礼
拝でお金も時間もかけた。 しかし、一方的な神のあわれみによって救われてから、偶像礼拝
から離れることができた。 信仰にしっかり立って間もないころ、神社の前を通ると鳥肌が立っ
たことがある。 著者の地域では秋祭りには太鼓台が出るが、それにも全く参加しなかった。 
著者の場合、当時所属していた教会の教えだけでなく、主が直接、著者にそれに参加してはな
らないと迫られていた。 まだまだ信仰が弱く、受けていた迫害の中で「主のことば」を守り通す
のは正直、大変だった。 
 
また、著者の子どもたちも偶像礼拝から守らなければ、主の嫌われることから離れさせなけれ
ばならないと、祭りに参加することを聖書のことばなどを話して止めた。 子どもたちは、親の
言うことだから従わなければならないと、従った。 その結果、友だちからいじめを受け、彼ら
の心は傷ついた。 その後、著者は所属していた教会から追い出されたが、その頃から、教会
で受けたマインドコントロールや教えが、著者の内から取り除かれるまで、祈りに祈って数年か
かった。 もちろん、正しい教えも多かったが、それでも取り除かれなければならないものを主
が直接、教えてくださった。 主の御心を必死に何をしていても尋ね求めていた。 
 
そうして、子どもたちも大きくなり、それぞれ親の傘下ではなく自分の意志で持つ信仰を問われ
るようになった。 その様子を見ていて、偶像礼拝を避けることに関して、半ば強制的な感じで
あり、子どもたちは苦しみ傷ついたので、自分は間違っていたのだろうか、と主に尋ねた。 す
ると主の答えは「あなたは間違っていない。」と語られ、今までの「過程」「良し」とされた。 今
では子どもも、自分は そこを通る必要があったこと、主が通されたこと、そして益にしてくださ
ることを悟っている。 今、子どもたちは、主の祝福を受けていると思うが、今後はもっともっと
大きな主の祝福を受けると主は著者に不思議な方法で語られた。
 
数年前から、偶像礼拝について、しかも地域の行事や習慣などについて実際、生活の中でど
う対応すべきかを考えるようになった。 秋祭りを機に太鼓台のことで、何が問題なのか、何が
偶像礼拝なのかを考えてみたが、偶像を拝むということから考えると、太鼓台の宮入ではない
かと思う。 しかし、町内を太鼓台を引っ張ったり、練り歩くことは、果たして今日、偶像礼拝と
言えるのかどうか? 今日では、多くの人たちが思っているように、薄くなっている地域の人た
ちのつながりの手段とは考えられないだろうか? 太鼓台を担ぐ人たちの中には、明らかに心
から神事と認識して、お宮の神に奉納している人もいるであろう。 それは主なる神から見られ
たら「偶像礼拝」だと言わざるを得ない。 しかし、純粋に地域の大人、子どもたちが、交流を
深めていくためにと、太鼓台に参加している人も多いのではないかと思う。 
 
だからと言って、キリストを信じていても両手広げて祭りに参加していいんだと安易に思うこと
は、主の御心ではない。 そういう人は、主を愛すること、本当に主の御心を知ることより、人
の目を気にしているからだ。 たとえ、人目を気にするところがあったとしても、主を第一にして
いるかどうか、主を愛しているかどうかが、心の奥底にある「思い」の中で最優先になっている
かどうか重要である。 また、祭り、太鼓台に関して、偶像礼拝の部分と主が許容されてい
る範囲とを見きわめるためには、もう少し主に尋ねていくとことが必要だと感じている。
 
太鼓台について、このように聖書(イスラエル人や異邦人ナアマン)から教えられた結果、それ
では著者が以前、太鼓台のことで何が偶像礼拝なのかを今のように明確になっていなくて、と
にかく神の忌み嫌われる偶像礼拝から離れたらいいのにという思いで牧会、伝道した人たち
のことが気になって主に尋ねた。 すると教えられたことは、祭りのことで以前著者が牧会した
ことば受け入れてキリストのゆえに苦しみ、主から離れなかった人は祝福を受ける(受けた)
だろうということである。 しかし、離れた人たちは どうなのか? それでも その中で本当に主
が救おうと定めておられる人たちは、何らかの形で主が救ってくださるであろうということも語っ
てくださった。 救いは神のもの、主が救われるからである。 ともすれば著者の失敗と思われ
るようなことさえ、失敗とされず、主は「良し」とされたばかりか、著者が伝道、牧会した一人一
人に対して、主が責任を持ってくださることを知って著者は平安を得た。 主に感謝!主を褒め
称える。 主は、このようにあわれみ深いお方である。


めんどり通信/2015年10月18日号へ


めんどり聖書研究会 TOPへ > 証しによるプロフィール一覧