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2015年3月1日葬儀のあり方についての思考

さて、著者は「葬儀のあり方」について、以前から思案していた。 著者は、約19年前まで所属
していた教会時代にも、その教会を出てからも、キリスト教式の葬儀に出席したり見たりした経
験がなかった。 ところが、数年前、あるクリスチャンに、未信者の家族の葬儀をキリスト教式
の葬儀でしてほしいとの依頼があった。 その方の家族も親族もみな未信者だった。 準備は
著者が行ない、司式を知人の牧師さんにお願いした。 教会時代も当時も、著者はキリスト教
式の葬儀は、キリストを伝えるための絶好の機会、最大の証しの時になるかもしれないと考え
ていた。 しかし、その後、仏式での舅の葬儀を体験し、キリスト教式の葬儀と比べて、あれこ
れ考えるようになった。 一昨年あたりから、主は、どのような葬儀のあり方を望まれているの
かを頻繁に祈り尋ねていた。
 
その祈りの答えを先月、主からいただいたと思う。 レムナントめんどり教会のある一人のクリ
スチャンの父親が亡くなった。 そのクリスチャンは、高齢になり病気がちな父親が亡くなった
場合、喪主の立場に立つ者として、どうしたらよいのかを祈っていた。 すると、父親が遺言を
残していたことがわかった。 その内容の中の一つに葬儀についても書かれていた。 「坊さん
は呼ばなくていい。 位牌もいらない。 子や孫や近しい親族だけで、自分の好きな歌を歌って
送り出してほしい。 そして、みなで楽しく食事して終わり。」というものだったという。 
 
その遺言状に従い、行動を起こす前に彼はまず祈った。 そして、兄妹や家族、近しい親族に
話した。 彼らはみな未信者だったが、理解してもらったという。 父親が亡くなったとき、部落
の人(代表者)や知人関係の人たちにも、遺言状のことでもって話し、香典を受けないことも話
したという。 葬儀社にも、「お坊さんは呼ばないこと。 祭壇を設けないこと。 家族葬のように
行うこと・・・などを話して相談したという。 
 
亡くなって遺体を家に運び、葬儀社には、献花用の洋花をたくさん用意してもらったという。 
近所の人たちやいろいろな方々が最後の別れに来てくださったという。 来てくださった人たち
のほとんどは仏教徒(?)だったようで、手を合わせて拝んでいたという。 しかし、彼は、その
ことについて主にゆだねていた。 人に宗教を強要することはできないからだ。 年老いた近
所の方の中には、以前、(お香典)をもらっているからと渡そうとしたが、丁寧に断ったという。 
その方も嫌な思いをせず了承してくださり、通夜は終わった。 当日、出棺のときには、大勢の
方々が来てくださって、花でいっぱいにしてくださり斎場へと見送ってくださったという。 
 
斎場の一室を借りて、お棺を囲むようにして、故人に近しい者たちが座った。 彼が、父親のこ
とで思い出話しなどを話し、故人とのエピソードなどがあれば話してくれるように促すと、次々と
話しが出て約1時間ほど経ったという。 それから、故人が好きだった歌をうたい、皆でその斎
場の隣りにある火葬場へと見送ったという。 何のしきたりも取り入れず骨上げをした後、楽し
く食事を取ったという。 これらの葬儀を一部始終見た葬儀社の方が、今までになく感動したと
いう。 
 
クリスチャンからこのことを聞いたとき、このような葬儀を主が「良し」とされ、主の方が望まれ
ているのではないか思った。 「葬儀のあり方」について、キリスト教式であるなら こうすべき 
というようなことに拘(こだわ)らずに、このような葬儀を行なうことも、主が望まれている確信
した。 長年ずっと、葬儀について、何か心に引っ掛かりを感じていたが、そのつっかえが取
れ、心が楽になった。 
 


めんどり通信/2015年3月1日号へ


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