めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年3月1日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<葬儀のあり方についての思考>



★新約聖書 ルカによる福音書 9:59、60
   イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。
   「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼
   らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
 
★新約聖書 マタイによる福音書 8:21、22
   また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許
   してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに
   彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」
 
●人間にとって誰もが避けられない事実は、「死」である。 日本においての「葬儀」は、特に仏
教において、地方へ行くほど親族や隣近所との付き合いを考えるあまり、形式に囚われている
ことが多いように思える。 「葬儀」は、人をこの世から送り出す儀式、葬りの儀式である。 
の中で、葬儀について書かれているところと言えば、旧約のヤコブである。 ヤコブは、自分
の遺体を先祖の墓に埋葬してくれるよう遺言をしていた。(創世記49:29-32) ヨセフは、医者
たちに命じて、ヤコブを40日かけてミイラにした。 エジプトは、宰相ヨセフの父ヤコブのために
70日間も喪に服し、喪が明けるとヨセフはパロの許可を受けて、ヤコブの遺体を葬るためにカ
ナンに向かった。 一族全員のほかに、パロのすべての家臣たち、パロの家の長老たち、エジ
プトの国のすべての長老たち、さらに戦車や騎兵も一緒に行き、その一団は非常に大きなも
のであった。 
 
彼らはゴレン・ハアタデというところで、七日間にわたる非常に荘厳な葬儀を行なった。 それ
から、ヤコブの遺言の通りに、カナンの地にある先祖の墓に葬った。(創世記50:1-14) ヤコ
ブの葬儀が、これほどまでに荘厳だったのは、アブラハムに与えられた神の約束のことばが、
アブラハムから息子イサクへ、イサクから息子ヤコブへと受け継がれてきて、この世の旅人、
寄留者として生きた「信仰」が凝縮され、「あかし」としての葬儀だったからだ。 
 
ルカによる福音書9章57節〜62節には、イエスの真の弟子になれない3人の人のことが書かれ
ている。 彼らは、心の底からの備えがなされていなかったのである。 その中の一人にイエス
が語られたことばの中に「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」がある。 このこ
とばは、一見冷たそうに感じるが、そうではない。 「父母を敬え」は、神のことばであり、イエス
は金持ちの青年にもこのことばを教えておられる。(出20:12、マタイ19:19) 「主よ。まず行っ
て、私の父を葬ることを許してください。」と言ったこの人は、主イエス・キリストを信じ受け入れ
ている。 しかし、彼の家族やその周りの人たちは、まだ主を受け入れていないようである。 
そのような人たちを「死人たち(霊的死人)」という。 イエスに「わたしについて来なさい。」と言
われた人がイエスに従って行くことによって、「死人を葬る」ことを行なう彼の家族や親族が、
「死ぬとは、どういうことなのか」「死んだら、どこへ行くのか」など「死」について、きちんと向き
合い「本当の意味で生きる」ということを考える機会となって、「神に立ち返るように」との主の
深い御思いがあったのではないかと思う。
 
さて、著者は「葬儀のあり方」について、以前から思案していた。 著者は、約19年前まで所属
していた教会時代にも、その教会を出てからも、キリスト教式の葬儀に出席したり見たりした経
験がなかった。 ところが、数年前、あるクリスチャンに、未信者の家族の葬儀をキリスト教式
の葬儀でしてほしいとの依頼があった。 その方の家族も親族もみな未信者だった。 準備は
著者が行ない、司式を知人の牧師さんにお願いした。 教会時代も当時も、著者はキリスト教
式の葬儀は、キリストを伝えるための絶好の機会、最大の証しの時になるかもしれないと考え
ていた。 しかし、その後、仏式での舅の葬儀を体験し、キリスト教式の葬儀と比べて、あれこ
れ考えるようになった。 一昨年あたりから、主は、どのような葬儀のあり方を望まれているの
かを頻繁に祈り尋ねていた。
 
その祈りの答えを先月、主からいただいたと思う。 レムナントめんどり教会のある一人のクリ
スチャンの父親が亡くなった。 そのクリスチャンは、高齢になり病気がちな父親が亡くなった
場合、喪主の立場に立つ者として、どうしたらよいのかを祈っていた。 すると、父親が遺言を
残していたことがわかった。 その内容の中の一つに葬儀についても書かれていた。 「坊さん
は呼ばなくていい。 位牌もいらない。 子や孫や近しい親族だけで、自分の好きな歌を歌って
送り出してほしい。 そして、みなで楽しく食事して終わり。」というものだったという。 
 
その遺言状に従い、行動を起こす前に彼はまず祈った。 そして、兄妹や家族、近しい親族に
話した。 彼らはみな未信者だったが、理解してもらったという。 父親が亡くなったとき、部落
の人(代表者)や知人関係の人たちにも、遺言状のことでもって話し、香典を受けないことも話
したという。 葬儀社にも、「お坊さんは呼ばないこと。 祭壇を設けないこと。 家族葬のように
行うこと・・・などを話して相談したという。 
 
亡くなって遺体を家に運び、葬儀社には、献花用の洋花をたくさん用意してもらったという。 
近所の人たちやいろいろな方々が最後の別れに来てくださったという。 来てくださった人たち
のほとんどは仏教徒(?)だったようで、手を合わせて拝んでいたという。 しかし、彼は、その
ことについて主にゆだねていた。 人に宗教を強要することはできないからだ。 年老いた近
所の方の中には、以前、(お香典)をもらっているからと渡そうとしたが、丁寧に断ったという。 
その方も嫌な思いをせず了承してくださり、通夜は終わった。 当日、出棺のときには、大勢の
方々が来てくださって、花でいっぱいにしてくださり斎場へと見送ってくださったという。 
 
斎場の一室を借りて、お棺を囲むようにして、故人に近しい者たちが座った。 彼が、父親のこ
とで思い出話しなどを話し、故人とのエピソードなどがあれば話してくれるように促すと、次々と
話しが出て約1時間ほど経ったという。 それから、故人が好きだった歌をうたい、皆でその斎
場の隣りにある火葬場へと見送ったという。 何のしきたりも取り入れず骨上げをした後、楽し
く食事を取ったという。 これらの葬儀を一部始終見た葬儀社の方が、今までになく感動したと
いう。 
 
クリスチャンからこのことを聞いたとき、このような葬儀を主が「良し」とされ、主の方が望まれ
ているのではないか思った。 「葬儀のあり方」について、キリスト教式であるなら こうすべき 
というようなことに拘(こだわ)らずに、このような葬儀を行なうことも、主が望まれている確信
した。 長年ずっと、葬儀について、何か心に引っ掛かりを感じていたが、そのつっかえが取
れ、心が楽になった。 
 
キリスト教式の葬儀には、決められた形式はないとは言われるが、それでもプロテスタントとカ
トリックなど宗派によって違いがあるとも言われている。 結局、何かしらの形式があるというこ
とだ。 キリスト教の場合、葬儀の目的は「神を礼拝する」「遺体を手厚く葬る」「残された遺族
への慰め」と言われているが、仏式においても「遺体を手厚く葬る」「残された遺族への慰め」
はある。 
 
キリスト教式の葬儀とはいえ、仏式の焼香が献花に代わり、法事が記念会に代わっているの
ではないか。 結局、仏式の形式にキリスト教がある部分、合わせているのではないかと、
ふと思ったりしたことがある。 事実、キリスト教式で葬儀を行っても、仏式のときと遺族の経済
的負担は大きく変わらない。 どの程度の葬儀を執り行うかで違ってくる部分はあるが・・・。
 
クリスチャン人口が未だに1%にも満たない日本で、皆が「神を礼拝する」ということに一致した
葬儀は難しいところがある。 先祖代々仏式で執り行われてきたからとか、意識するしないに
かかわらず、近所親戚の手前を考えて葬儀の準備をしているということが多いように見受けら
れる。 そういう意味で、心から故人を偲びながら、余計な気遣いをしないで、故人を心から送
り出すことは、現在の日本では、結構、難しいことなのかもしれない。 
 
しかし、彼が行なった このような葬儀は、もしたとえ宗教色がなかったとしても、家族や親族
や故人と近しい者たちが、何の形式にも因習にも囚われず、ただ故人のことを偲びながら、こ
の世を生きたしるしの遺体の前で語りあい、そのような中で、「死ぬとは、どういうことなのか」、
「死んだら、どこへ行くのか」など「死」について、きちんと向き合って考え、今後、「本当の意味
で生きるとは どういうことなのか」ということを考える機会となって、やがて訪れる死への正し
い備えをする きっかけになる可能性がある。 神は人の心の奥底を見られている。(Tサム
エル16:7) そのような中から、「神に立ち返る」者が起こされる可能性はある。 ただ、そのよ
うに聖霊が働いて下さるためには、彼のように主に心から従うつもりでの祈りの積み重ねは必
要である。 
 
このように見ていくとき、イエスは、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」と無下
に言われたのではないことを思う。 主の御心は、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔
改めに至ることを望んでおられるのである。(Uペテロ3:9) いずれにしても、我々クリスチャ
ンは、今、生きているときから、しっかりと主なる神イエス・キリストを見続け、つながり続けてい
くことをしていきたいものである。 ここで書いたクリスチャンの家の葬儀の形と、それぞれの
家々によって、形の違いはあるかもしれない。 だから、主が望まれている葬儀を行なったり、
参加できるよう一人一人が祈り、家族や親族、知人が救われることを願っていきたいものであ
る。 そして、何よりも主が喜ばれることを願う。
                                           
★旧約聖書 詩編 23:1〜4
   主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの
   水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道
   に導かれます。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
   あなたが私とともにおられますから。





めんどり聖書研究会