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2013年8月18日<偶像礼拝について主がキリスト者に望まれていることの思考>

著者の場合。 主イエス・キリストに出会うまで、あらゆる偶像礼拝を行っていたような者だっ
た。 その著者が、知人から誘われ、初めて教会というところへ行った。 当時、牧師が話され
た内容の一言も覚えていない。 ただ、熱いものが心に触れ何がなんだかわからないが、涙が
出たことだけは覚えている。 キリスト教的に言うなら「聖霊に触れられた」ということである。 
それでも明瞭なキリスト体験をしたわけではなかったので、人目を気にすることの強かった著
者は、キリストを受け入れたからというのではなく、牧師の誘いがあり、牧師たちが誘ってくれ
るのに行かないのは申し訳ないからという理由で日曜礼拝へ時たま出席した。 礼拝でのメッ
セージは、これまた一言も覚えていない。 「偶像を拝んではいけない」などと当初、牧師から
明確に言われた覚えもなく、メッセージで聞いたかどうかも覚えていない。 ただ、聖書を読ん
だり祈ったりするうちに、主が偶像礼拝禁止について著者に迫っておられる感覚は最初から
あった。 30年も前のことだが、その感覚は鮮明に覚えている。 その後、聖霊に導かれて明
確に偶像礼拝から解放された。 
 
その後、主への信仰が深くなっていき、いろいろな不思議な体験や神の恵みを体験した。 田
舎に住んでいるので偶像礼拝の機会が多くあったが、その度、主は不思議な方法で、偶像礼
拝をしなくていいように配慮してくださった。 信仰に固く立たなければならないときは、祈りに
祈ると主は立たせてくださった。 そういうことを繰り返しながら、信仰も霊も少しずつ成長させ
てくださり、数々のキリスト体験も与えられた。 次の世代に「この命がけの信仰を受け継がせ
たい」と心底、願い祈り続けた。 いろいろな行動もしてきた。 そのため、偶像礼拝について
は、主への愛と熱心さのゆえ、子どもたちには強制的になった可能性はあった。 しかし、その
ことを主に何度も祈ったが、主は「良し」としてくださった。 祈りのうちに、著者がそのようにし
てきたこと、失敗などすべて、著者にとっても子どもたちにとっても、主が益にしてくださることを
確信するに至った。
 
ただ、思うに、時代的にも今までは、それでも主は許された。 また著者の信仰も霊も幼なかっ
た。 信仰も霊も成長する。 そして、何よりも時代は終末と言われる二千年代に入った。 だ
からこそ、偶像礼拝についても、聖書からもっとよくよく見てみる必要があるのではないかと思
われる。


めんどり通信/2013年8月18日号へ



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