めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年8月18日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<偶像礼拝について主がキリスト者に望まれていることの思考>



★旧約聖書 ヨエル書 2:13
   あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返
   れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直して
   くださるからだ。
 
★旧約聖書 申命記 5:8,9
   あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあ
   るものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。 それらを
   拝んではならない。それらに仕えてはならない。・・・
 
●聖書には偶像礼拝を禁止する神のことばが多く記されている。 モーセの十戒をはじめ、
約聖書でも「偶像を避けなさい」、「・・偶像を礼拝する者、・・神の国を相続することができませ
ん。」などと記されている。(Tヨハネ5:21、Tコリント6:9,10) パウロはアテネの町が偶像で
いっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。 そして、アテネの人たちに、「この世界とその中にあ
るすべてのものを お造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住み
になりません。」と言った。(使徒17:16、17:24)
 
しかし、日本では昔から、偶像礼拝をする機会が多くある。 日本には、お盆、お彼岸、節分、
初詣、お祭り、七五三、仏式葬儀、法事…などなど多々ある。 確かに聖書によるなら、人間
に、目に見える偶像を造らせてそれを拝ませたり、目に見えなくても崇拝の対象となるもの(偶
像)に心を向けるように仕向けたのは、悪魔(サタン)である。 目に見える見えないにかかわ
らず、偶像の背後にはサタンが存在する。 悪魔(サタン)は、自分が神に取ってかわって、礼
拝されたいと願っている。 そして、人を神から引き離し、地獄への道連れにしようと躍起に
なっている。(Tペテロ5:8) そういう事実はあっても、そのことは明確に目で見えるものではな
いので、主なる神を信じていない者にとっては、とうてい理解できないことであり、関心もないこ
とであろう。 
 
クリスチャンと呼ばれる人でさえも、そのことを理解できている、わかっている者は少ないと思
われる。 通常、主イエス・キリストを信じた者は教会や集会へと導かれる。 牧師や伝道師な
どから、我々の罪のために主イエス・キリストが十字架で死なれたこと、主は3日目に復活され
今も生きておられることなど、いろいろな神の愛を聞かされる。 そのとき、神の愛や神のみわ
ざを明確に体験していない多くの者は、「キリスト教に入ったら、お宮やお寺に行ってはいけな
いのですか? 行って拝んだらいけないのですか? 祭りに出たらいけないのですか?」など
の質問が出てくる。 教会によって牧師によって答え方は様々であろうが、大方の質問者はそ
の答えに納得していないと思われる。 
 
牧師などは、聖書の「ことば」を話されると思われるが、決して、今から救われようとしている人
に、「主を信じたら、決して偶像礼拝をしてはいけません」と強制などしないはずである。 しか
し、聖書の「ことば」は伝える。 聖書に、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも
鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごと
を判別することができます。(ヘブル4:12)」と書かれているとおり、神体験をしていない者に
とっては、指導者が、「みことば」について、いろいろな表現で優しく話しても、明瞭な救いを受
けていない心に「みことば」が鋭くささることがある。 すると、「恵みのことば」が、いつの間に
か、「律法的なことば」に変わってしまうことがある。 それでも、自力で「みことば」を行う、すな
わち偶像礼拝を避けれる人もいる。 しかし、聖霊に導かれて、キリストによって偶像礼拝を避
けたのではなく、また、キリストへの信仰によって偶像礼拝を避けたのでもなく、自分の生まれ
ながらの肉(性質)、自我によって、すなわち自力によって偶像礼拝を避けた場合は、結果
オーライではなく、むしろ、ますます自我や肉が強くなる場合がある。 そういうとき、みことばを
肉で解釈して行い、自分は主のみことばを行っている、従っていると思い込む可能性がある。 
イエスを十字架につけた律法学者やパリサイ人たちのように。 
 
また、自力で偶像礼拝を避けられない人にとっては、聖書の神は恐ろしい、あわれみのない神
と思ってしまいがちである。 「偶像礼拝を避けなければならない」という思いの中に、「急いで
避けなければならない。 決して拝んではいけない」というあせりが、余計に冷たく厳しい神と思
わせる。 そして、主イエス・キリストから離れて行ってしまう人も多い。 信教の自由が認めら
れている日本に、一向にキリスト者(クリスチャン)が増えない理由の中の一つに以上のような
ことも考えられる。 
 
しかし、聖書に見る神、主は、情け深く、あわれみ深い方である。 慈愛と忍耐と寛容の神であ
る。(ローマ2:4) 旧約時代、ヤコブたちが故郷への帰還のため、伯父ラバンの家から離れよ
うとしたとき、ヤコブの妻ラケルは父の所有のテラフィムを盗み出した。(創世記31:19) この
テラフィムは、当時、家族神の偶像のことであり、相続権に重要な役割を担っていたという。 
この偶像は、その後、ヤコブによって、ヤコブ一族の天幕にあった他の偶像と一緒にシェケ
ムの近くにある樫の木の下に埋められるまでの長い期間、ヤコブの天幕にあった。(創世記3
5:4) しかし、神は、テラフィムのことでラケルをとがめず、イスラエルの偶像礼拝にも長い期
間、忍耐と寛容を示された。 
 
また、ヤコブの子ヨセフは、重要な役割を神から与えられ、主を愛し主に愛されて、その務め
を全うした人物であるが、ヨセフは異教国エジプトで、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテ
結婚した。 宰相(首相)というヨセフの立場から考えるなら、エジプト王が異教の神々を礼拝す
るさい、ヨセフは同行したであろう。 それでも主なる神は、怒られず、ヨセフを愛され、用いら
れた。 ヨセフも自分の信仰のあらわれとして長男にマナセ(神が私のすべての労苦と私の父
の全家とを忘れさせた)、次男にエフライム(神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた)
と名づけた。 まことに主なる神は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまこと
に富んでおられる方である。(詩篇 145:8) 
 
ところが、主なる神は、イスラエル人をエジプトから脱出させ、エジプトの奴隷から解放し、モー
セの十戒を与えられた後は、偶像礼拝に対して厳格な神となられたように見受けられる。 出
エジプトしたイスラエル人たちは、明瞭な神の顕現を体験し、数多くの奇跡、すなわち神のみわ
ざを体験し、奴隷の位置から解放され、自由の位置に立ったところで、十戒を与えられた。 そ
れほどの恵みと奇跡を体験をした者たちだからこそ、主なる神のほかに、なにものをも神とし
てはならない、すなわち偶像礼拝をしてはならない、偶像を造ってはならない、それらを拝んで
はならない、それらに仕えてはならない、と命じられたのである。(出エジプト20:4、5) しかし、
いろいろな主の導きがあったにもかかわらず、イスラエル人たちは、荒野の生活の中で、偶像
礼拝から離れることをせず、むしろ自ら求めていった。 それで、神は怒られ、神の約束のカナ
ンの地には、カレブとヨシュア以外の二十歳以上の者は入ることができなかった。 
 
著者の場合。 主イエス・キリストに出会うまで、あらゆる偶像礼拝を行っていたような者だっ
た。 その著者が、知人から誘われ、初めて教会というところへ行った。 当時、牧師が話され
た内容の一言も覚えていない。 ただ、熱いものが心に触れ何がなんだかわからないが、涙が
出たことだけは覚えている。 キリスト教的に言うなら「聖霊に触れられた」ということである。 
それでも明瞭なキリスト体験をしたわけではなかったので、人目を気にすることの強かった著
者は、キリストを受け入れたからというのではなく、牧師の誘いがあり、牧師たちが誘ってくれ
るのに行かないのは申し訳ないからという理由で日曜礼拝へ時たま出席した。 礼拝でのメッ
セージは、これまた一言も覚えていない。 「偶像を拝んではいけない」などと当初、牧師から
明確に言われた覚えもなく、メッセージで聞いたかどうかも覚えていない。 ただ、聖書を読ん
だり祈ったりするうちに、主が偶像礼拝禁止について著者に迫っておられる感覚は最初から
あった。 30年も前のことだが、その感覚は鮮明に覚えている。 その後、聖霊に導かれて明
確に偶像礼拝から解放された。 
 
その後、主への信仰が深くなっていき、いろいろな不思議な体験や神の恵みを体験した。 田
舎に住んでいるので偶像礼拝の機会が多くあったが、その度、主は不思議な方法で、偶像礼
拝をしなくていいように配慮してくださった。 信仰に固く立たなければならないときは、祈りに
祈ると主は立たせてくださった。 そういうことを繰り返しながら、信仰も霊も少しずつ成長させ
てくださり、数々のキリスト体験も与えられた。 次の世代に「この命がけの信仰を受け継がせ
たい」と心底、願い祈り続けた。 いろいろな行動もしてきた。 そのため、偶像礼拝について
は、主への愛と熱心さのゆえ、子どもたちには強制的になった可能性はあった。 しかし、その
ことを主に何度も祈ったが、主は「良し」としてくださった。 祈りのうちに、著者がそのようにし
てきたこと、失敗などすべて、著者にとっても子どもたちにとっても、主が益にしてくださることを
確信するに至った。
 
ただ、思うに、時代的にも今までは、それでも主は許された。 また著者の信仰も霊も幼なかっ
た。 信仰も霊も成長する。 そして、何よりも時代は終末と言われる二千年代に入った。 だ
からこそ、偶像礼拝についても、聖書からもっとよくよく見てみる必要があるのではないかと思
われる。 ある意味、「十戒」は、「出エジプト」という神のあわれみ、恵み、みわざを明確に体
験したイスラエル人たちに命令されている。 彼らは、神が選ばれ、神の不思議なみわざ、驚く
べき奇蹟を神によって体験させてもらった者たちである。 だからこそ、神は互いの愛と信頼を
「十戒」によって、あらわし、神とイスラエルの人たちが婚姻関係のような特別な関係になること
の規定をされた。 「十戒」を語られる前、主なる神は、まず「わたしは、あなたをエジプトの国、
奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。(出20:2)」と宣言されている。 
 
新約時代の今はどうかと言えば、やはり旧約のイスラエル人たちと同様、キリストと教会、キリ
スト者(クリスチャン)との関係がどうかということである。 花嫁なる教会、クリスチャンは花婿
なるキリストと婚姻関係を結んでいる。 婚姻関係が破綻されず、キリストとつながり続けること
ができるなら、主が望まれる実を結ぶことができる。 愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠
実、柔和、自制という実である。(ガラテヤ5:19,20) また、「実を結ぶものはみな、もっと多く実
を結ぶために、刈り込みをなさ」ると書かれているように、主の訓練、試練により鍛えられる。 
 
ただ、主イエス・キリストを信じ受け入れても、最初はキリストとの婚姻関係が、まだまだ弱いも
のである。 信仰にしっかり立つということは難しいことである。 出エジプトしたときに神体験を
したイスラエル人ほどでなくても、主イエス・キリストのあがない、恵み、あわれみ、みわざなど、
いわゆる神体験、キリスト体験をすることは、しっかり信仰に立つためには結構、大切なことで
ある。 神体験、キリスト体験をした者は、一人一人に応じて聖霊に導かれることを体得し始め
る。 そうすると、「みことば」を聖霊に導かれながら、少しずつできるようになる。 「偶像を拝
んではならない」という「みことば」も、聖霊に導かれて守ることができるだろう。 「みことば」
守ることによって、周囲に悪影響を与えてしまったと思っても、例えば「クリスチャンは仏さんも
拝まない。クリスチャンにはなりたくない。」という人があらわれても、主が責任を持ってくださ
る。 なお、妨げの風が吹いても倒れない、しっかり立てる信仰になるためには、主からの訓
練、試練は不可欠である。
 
「神のことば」は真実で変わらないから、「偶像を拝んではならない」という「聖書のことば」は原
則である。 だから「自分は偶像礼拝をしない」を基本、原則に持っておくことは、「みことば」
をそのまま受け取ることでもある。 しかし、つくづく思う。 先に救われた我々クリスチャンは、
本当に神の愛を正しく伝えてきただろうか?と。 口では、神の愛、忍耐を話しながら、心は
「偶像礼拝をしてはならない」という思い、決心が固くしっかり座って、それが神の愛よりも上に
立っていたのではないだろうか?と。 自分は、聖霊に導かれて、偶像礼拝を避けさせてもらっ
たが、人に話すときには、そのことを強調していなかったのではないだろうか?と。 著者はこ
のことで何回となく祈った。 そして、このことを主に委ねた。 すると、すべてのことは神の支
配の下であったことであり、著者のすべて(心の奥底、本音、本心)をご存知の主が、全てを著
者だけでなく、著者がかかわってきた一人一人にとっても「益」にかえてくださることを確信し
た。 どのようなかたちの「益」かはわからないが。 主がご存知であり、主が「良し」とされるな
らそれで良い。 
 
とにかく、キリストとしっかり繋がってこそ、主の御心がわかりだすというものだ。 かつての殉
教者たちは聖霊に導かれていた。 聖書の知識を多く知らなくてもキリストを知っていた。 自
力で殉教した人はいない。  我々クリスチャンは、過去の教会から伝えられてきたこと、その
歴史などに尊敬の念を持つが、もう一度、聖霊の導きによって、祈りつつ聖書に照らし合わせ
て、主に尋ねながら吟味することが必要な時が来たのかもしれない。 終末であるからだ。 
いずれにしても、真にキリストにつながる、とどまるということをしていきたいものである。 
 
★新約聖書(口語訳) ヨハネによる福音書 15:4
   わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝が
   ぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あな
   たがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
 


めんどり聖書研究会