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2012年3月4日<神の領域、死後>

著者も病気をしたわけでもなく苦難や困難があったわけではないが、学生時代から、
「死んだらどうなるのか?どこへ行くのか?」ということが気になり、真剣にその答えを求めて
仏教修行じみたことをしたり、講和を聞いたり、本を読んだり・・・など時間とお金をかけた。 
しかし、明確な答えは得られなかった。 

そんなとき、キリストに出会った。 そして初めて、「死の恐怖」から解放された。 30年前のことである。 
そして、信仰を成長させていただき、成長すればするほど、ますます「天国」と「地獄」が
「本当にあるんだ!」と心底、そう思えるようになった。 聖書に登場してくるアブラハム、
イサク、ヤコブ、ヨセフ、ダビデ他多くの神を真に信じる者たちは、この地上で生きる上での
本当の目的地は、後の世界と心が定まっていたが、著者も同様である。(ヘブル11章)

20年以上も前のこと。 伝道した若い女性が「私のやさしかった兄は死んだ。そのとき神はい
ないと思った。 今、キリストを受け入れて、自分だけ救われて・・・そんなことはできない。
兄はどうなったのか、答えてほしい」と言った。 当時、著者は「わたしを愛し、わたしの
戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。(出20:6)というみことばがある。
「千代」は子孫だけでなく先祖も入っている。だからまずあなたが救われることが肝心・・・・」
などと話したと思うが、それらのことばが相手の心に入っていかなかった。 そのことがずっと
気になっていた。

著者がなぜ、その女性の心に福音のことばを受け取らせることができなかったのかの原因、
理由は明確には分からない。 その人は主が救おうとしておられる人ではなかった?、その人
にとってその時が救われる「時」でなかった?、・・・などの可能性はあるが、救われ信仰に堅く
立って間もない頃だった著者自身の問題もあったかと思う。 その後、主からの様々な経験、
体験による訓練、試練を通って自我が砕かれ、肉が切り取られ、死後のことについても「分か
らないことは分からない」「確信を持っていることはキリストにあって確信を持つ」と自分の信仰の
スタンスを明確に持ち出した。 もしかしたら今の著者が、語っていたならば無下に拒否されることは
なかったのかもしれない。 彼女は求めていた部分があったので何か違っていたかもしれない。 
しかし、そのような著者の伝道のまずささえ主は許してくださったと思う。 「語る者」がどうなのか、
どういう者が語るのか、ということが結構、重要であることを痛感し、いよいよ清めを祈ったものだ。 
数年前、思い出したので、その人のことを主にゆだねた。 

最近、思う。 「死と死後」の問題は、非常に厳粛なことがらである。 「死と死後」に関することの多くは
神の領域ではないだろうかと。 人は神から個人的に知らされたなら、恐れをもって受けたらよいが、
推測や思い込み、考え、肉の感情などで神の領域を超えることがないように気をつけなければならない
のではないだろうかと。 わからないことは分からないで置いておき、主にゆだねて主が教えてくださるまで
待つべきではないだろうかと・・・などと思う。


めんどり通信/2012年3月4日号へ



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