めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年11月26日(日曜日)主は復活され今も生きておられます!
イエスがパリサイ人の家で食事の前に手も全身も洗われなかったことについての思考>


★新約聖書 ルカによる福音書 113741

  イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきた

     いと申し出たので、はいって食卓につかれた。 38ところが、食前にまず洗うこ

  とをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。 39そこで主

  は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめる

  が、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。 40愚かな者たちよ、外側

  を造ったかたは、また内側も造られたではないか。 41ただ、内側にあるものを

  きよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。

 

ルカによる福音書1137節〜44のところで、いろいろ考えてみた。 福音書の中には、主

イエスが食事をしている場面がよく出てくる。 今回のこの箇所でも、あるパリサイ人から食事

の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。 そのとき、イエスが食事の前

に手を洗わなかったので、招待したパリサイ人は不審に思ったと書かれている。(新改訳:驚

いた。口語訳:不思議に思った) 「手を洗わない」ことは、単に衛生的な清潔さの問題ではな

く、律法を熱心に行ない、厳格に守ろうとするパリサイ人にとって宗教的な問題だった。 新改

新共同訳、前田訳では「身を清める」と訳している。 

 

口語訳食前にまず洗うと手を洗うように訳している。 ただ「手を洗う」ときには普通、「ニ

プトー」という言葉が使われるらしいが、1138「洗う」は、原語では「バプティゾー」が使われ

ており、これはバプテスマの語源である「全身を水に浸す」という単語、すなわち「洗礼(バプテ

スマ)」を意味する言葉だという。 

 

しかし、イエスは、手も全身も洗われなかった。 「食事の前に手を洗う」とか「市場から帰った

ら身を清める」(マルコ74というのは、モーセの律法では定められていないが、パリサイ派は

レビ記207に根拠を求めて「しきたり」としていた。 神を愛するが故の「しきたり」だとして

も、人間的なものは一旦崩される必要があったと思われる。 「しきたり」は、形だけの「習慣」

になる危険性があるからだ。

 

また、イエスは招待したパリサイ人だけでなく、パリサイ派を厳しく批判された。 主イエスは、

パリサイ人たちの内面的な本質を問われ、表面的な宗教行為を批判されたと思われる。 た

だ、イエスは、ただ単に強烈な叱責をされたのではないと思われる。 あなた方パリサイ人は、

わざわいである(口語訳)」「忌まわしいものだ(新改訳)」「不幸だ(新共同訳)」は、NKJV

woeが使われており悲痛,苦悩,悲嘆をあらわしている。 また、原語でも悲嘆、悲痛

をあらわし、何と悲しいことか、あなたがたのことを考えると私の胸は張り裂ける!という意味

になるというからだ。 

 

もちろん第一には、イエスが父なる神に対しての愛ゆえに胸が張り裂けんばかりの苦悩をも

って「わざわいである」と言われていると思う。 神のみこころは、人が悔い改めて神と和解す

ることである。 その人間(パリサイ人、律法学者)が、神のひとり子を激しく妬み、敵意を持ち、

殺そうとしていたのだ。 また、彼らが受ける厳しい神の裁きを考えると胸が張り裂けるという

意味でもあるかもしれない。

 

いずれにしても、主イエスは、外側の生活と内側の心が一致していないパリサイ人たちを「偽

善者」と呼んだ。(マタイ23章) 偽善者という言葉はNKJVではhypocriteとなっているが、

ギリシャ語では「役者」という意味もあるらしい。 パリサイ人の生活は演技であって、真実なも

のではないと、主は言われたのである。

 

人はうすうす気づいている本質を指摘されると怒る傾向がある。 人は痛いところを衝かれる
と一番腹が立つものである。 それは、パリサイ人のようにうまく「役」を演じていたのに、真実

なものでないことがバレるからだ。 隠していたものが、露わにされるからだ。 しかし、一旦、

主がその人を変えるために、言われる場合は、その言葉をもって悔い改め、砕かれる者は幸

いである。 その人にとって痛いことば、厳しいことばであっても、素直に受け入れるなら神の

恵みを受ける。 聖霊がその人のうちで働かれ、自我が砕かれ、肉が切り取られて心の思い

が清められ、変えられる。

 

外側だけをきよく保つことは、「クリスチャンだから・・してはならない」「クリスチャンだから・・・し

なければならない」と自分の(聖書)知識と解釈で行ない、主に尋ねることをせず、自分の判断

のみで行なう者であるとも言える。 そういう意味では、パリサイ人と似ているところがある。 

我々は、主イエスが言われるように、内側のことに目を向けるべきであろう。 

 

この箇所では、内側も外側もきよめられることの重要性が教会で語られていると思われるが、

イエスが、招待されたパリサイ人の家の食卓で、手も全身も洗われなかった」ことも、主が

我々に語られたかったことではないだろうか。 教会で長年行なわれてきた「バプテスマ(洗

礼)」についてもイエスは何か我々に教えられているのかもしれない。 

 

教会で行なわれる「バプテスマ(洗礼)」「聖餐式」などいろいろな儀式が、外側の形だけに

なっている可能性が大いにあるからだ。 キリスト教会ではバプテスマ(洗礼)をしないと

主の晩餐にあずかれないとされているようだが、この箇所のイエスの言動から、パリサイ人

だけではなく、今日の教会、クリスチャン(キリスト者)に対しての皮肉、いや忠告かもしれない。 

もしかしたら、警告かもしれない。 

 

我々クリスチャンは、いつの間にか、外側の形を守ることに囚われている可能性大である。 

内側のこと、特に「神への愛」について取り組むべきであろうと思う。 なぜなら、「神は愛であ

る」からだ。 具体的には、やはり、「キリストと自分」、「神と自分」、「主と自分」という一対一の

「かかわり」「交わり」が確固たるものとなることであろう。 とにかく、我々は、そのことに真剣

に取り組み、「神の御前に歩む」こと、「キリストから目を離さない」ことを、実行しつつ「主なる

神を信頼する」日常生活を送っていきたいものである。

(バプテスマ(洗礼)について参照箇所:めんどり通信/2017514<バプテスマ(洗礼)

について思考してみる>/2016522<聖霊が注がれ、聖霊の中にどっぷり浸される

ために取り組むべきこと>)

 

★旧約聖書 詩篇 262

 主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心の思いとを練りきよめてください。



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