めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年5月14日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<バプテスマ(洗礼)について思考してみる>


★旧約聖書(新共同訳) サムエル記 第一 15:22
   サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むし
   ろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾
   けることは雄羊の脂肪にまさる。
 
★旧約聖書 ミカ書 6:8
   人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求めら
   れることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むこ
   とではないか。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 16:18
   そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわ
   たしの教会を建てよう。
 
●教会の建て上げやバプテスマ(洗礼)について、20年以上前まで所属していた単立の教会で
教えられたことや自分の体験や教会を出てからの学びから、いろいろ思考している。 これら
のことについては、長い間、祈りつつ考えてきているが、主の御心を簡単に知ることは、なかな
か難しい。 もっとも、これら多くのことは、教会によって教えが違い洗礼においても基準も違う
が、それらは教会教派教団ごとにきちんと定着して、それぞれの教えの通り実行されている。 
 
バプテスマ(洗礼)の捉え方は、@洗礼を受けたら「罪の赦しの救い」が得られるという。・・・結
構多いようである。 Aクリスチャンになるときに授けられる大事な儀式だという。 マルコ1
6:16から洗礼を受けたかどうかは、その人がクリスチャンであるかどうかという判断にもなると
いう。 B無教会主義のように、洗礼は否定しないが、形式儀式にこだわらず、聖書のみに立
ち、信仰によって救われるという教会集会もあるようだ。 その他、教会によって決まった聖書
の勉強が終わって、信じている証しを書けたら、洗礼を受けることができ、そうでなければ受け
られないとか、イエス・キリストを信じたら、すぐにでも洗礼を受けれるとか・・・いろいろある。 
 
また、バプテスマ(洗礼)の方法は、浸礼といって、全身水に浸かる方法。 川や池、海などに
浸かったり、教会によっては小さいプールや浴槽のような浸礼ができるものを用意していると
いう。 また、頭に水を注ぐ灌水礼(かんすいれい)、濡れた手で頭を押さえて、水に沈めるよう
なしぐさをする滴礼がある。 洗礼は一生にただ1度だけであるからと、多くのプロテスタント教
会は、どの教会で行なった洗礼も認めているが、カトリック教会、聖公会やプロテスタントのバ
プテスト教会は、それぞれ以外の洗礼を認めていないようだ。 
 
何事も聖書を基準にすべきであろうが、その聖書の解釈も教会や教派や教団、一人一人のキ
リスト者たちによって違いがあるのも事実である。 数多くの教会があり、教派教団がある。 
それだけ解釈がある。 もちろん、どの教会も教団もキリスト者たちも、それらが主の御心と思
うから、主にあって決めたと言うであろう。 確かに、その通りであろう。 しかし、だからと言っ
て、それらがみな主の御心かと言えば、そうではないということも多いのではないだろうか。 
 
使徒行伝時代の初代教会のあり方、建て上げ方と現在の教会のあり方、建て上げ方には、2
千年という長い年月の中で違ってきている部分が多々であろう。 また、国ごとによっても教会
の姿は少しずつ違っている。 しかし、時代は違っても多くの教会は、使徒時代の初期の教会
のようにあろうと心がけているということを聞いたことがある。 様々な違いはあってもキリスト
教会は長い間、消滅せずに続いてきた。 そのことについては、当然ながら、主なる神ご自身
が守って来られたからという理由が最大であるが、多くのキリスト者たちの血と涙の祈りも存続
してきた要因のひとつであると思われる。 
 
ただ、洗礼、献堂式、聖任や祝福、病人へのいやしの祈り、教会員としての確認、聖霊の授与
など神権の儀式のときの按手などが教会で行なわれていることにしても、主はどのように見て
おられるのだろうか。 どう思っておられるのだろうか、と考え込む。 主イエス・キリストが我々
に望まれているのは、どうすることであろうか。 イエスが教会について語られたのは、「わたし
は、わたしの教会を建てる」(マタイ16:18)である。 だから教会は、「イエスこそ生ける神の子
キリスト(マタイ16:16)」という告白の上に、キリストによって建て上げられ、キリストによって運
営される。 キリストの所有物であるからだ。 多くの教会は、そのように言うが、実際、そのこ
とば通りになっているだろうか、とまた考え込む。 多くの教会を見て来て、そう考え込む。  
 
さて、著者の場合。 約20年以上前まで所属していた教会の牧師は、ある教団に属していた
が、主から「その教団は間違っているから、出なさい」と言われ、主のことばに従い出て、単立
の教会を建てられた。 だから、どこの教派教団にも属していない単立の教会だった。 著者
が、イエス・キリストを信じ受け入れてから、もう35年以上になる。 信仰にしっかり立ったのが
約30歳の時。 その頃から、多くの人に伝道し、次々と信仰が明確になる人が起こされ、その
人たちを牧師のところへ連れて行った。 それが当時の教会の方針だった。 その人たちが、
次々と水のバプテスマ(洗礼)を受けることになった。 その時、著者は、「自分は、水のバプテ
スマ(洗礼)をいつ受けたのだろうか?」という思いが脳裏をかすめた。 一緒に教会に通って
いたもう一人の人は、「自分はまだ受けていない。 家族が救われてから、夫婦一緒に受け
る。」とはっきり宣言していたと思う。牧師もそのことを了解していた。
 
ところが著者は記憶が曖昧だった。 牧師に「自分は受けていないように思います。だから、皆
と一緒に受けます。」と言った。 すると、牧師があわてたのを覚えている。 そばにいた婦人
牧師が、洗礼証明書(?)を持ってきて、「受けてるよ」と言われた。 そういえば、頭に牧師が
水を振りかけていたこと、両手をあげて異言を語りだしたこと、・・・など思い出したが、それら
は、2つの体験が一つになって思い出されたのか、水のバプテスマ(洗礼)と聖霊のバプテスマ
を両方1度に受けたのか、思い出せなかった。 水のバプテスマ(洗礼)と聖霊のバプテスマの
教えについても、聖書のことばの教えも解釈も あまり知らず、わかっていない未熟な時に受
けたと思った。 
 
ただ、信仰に固く立ったのは30歳だったが、それ以前から、よく祈っていた。 「自分のことを神
が一番よく知っておられる。 自分の内から出てくるものには、ロクなものがない。 神が定め
られた通りが一番良いし、自分にとって一番幸せなはず。」と本当に心底、思っていたからだ。 
その教会を約21年前に出てから、聖書のことば、キリスト教会のこと、儀式のことなど、いろい
ろ調べ考え、祈って、今日に至っている。 特に、7年前から教会の建て上げや教会のあり方
について祈り考え、ここ数年は、主に尋ねている。 
 
「わたしは、わたしの教会を建てる」と主が仰せられた。 だから、主が望まれている教会のあ
り方、バプテスマ、按手、信仰、儀式、・・・など一つ一つ、主に尋ねていくべきであると思ってい
る。 キリスト教会で制度化されたものであっても、キリスト教会で定着している聖書の解釈、
教えであっても、一つ一つ、主に尋ねていくべきであると思っている。 主は、尋ね求めている
一つ一つについて、教えてくださることを期待している。 一つ一つ、主が必要とされる時、主
が行なわせようとされる時が来たら、わかるように導いてくださると思っている。 教えられた
時、導かれた時、教え導かれた者が、それを実行すべきことなら、従ったらよいのだ。 
 
そのためにも、我々は結局、まず、一人一人がキリストと一対一で親しく深く繋がること取り
組んでいくべきであり、キリストにとどまり続けることである。 主と親しく交わりを持つことであ
る。 「主なる神と自分」が完全に「一対一の関係」になること最優先しながら、尋ね求めてい
きたいものである。
 
★旧約聖書 イザヤ書 43:19
   見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。
   わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。
 




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