めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年4月2日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブの妻ラケルについての思考>


★旧約聖書 エレミヤ書 10:23
   主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを/
   自分で決めることのできないことを。
 
★旧約聖書 詩篇 51:10
   神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
 
旧約聖書に登場する人物たちの日々の生活の中での出来事や歩み方によって、主なる神
と彼らとの個人的な関わりの仕方などを学ぶことができる。 彼らは、今の我々と同様「弱さ」
があり、その「弱さ」「自我」「肉」が浮き彫りにされ、神の介入によって事態も人物自身も変
わっていく様が書かれている。 また、人間的に見るなら悪いことのようであっても、それらさ
え、大きな神のご計画の中にあって、「こと」が進んで行く様子も見受けられる。 聖書に登場
するのは、男性がほとんどであるが、数少ない女性からも学ぶことができる。 これまでの「め
んどり通信」でも女性のことに関して、いろいろ思考してきたが、今回、アブラハムの子イサク、
イサクの子ヤコブの妻ラケルについて、いろいろ思考してみた。 
 
ラケルについては、創世記29章〜35章に書かれている。 ヤコブの妻は、レアとラケルの2人
である。 ヤコブ自身は、妹ラケルを愛し、ラケルと結婚しようとしたが、彼女たちの父ラバン
(リベカの兄で伯父でもある)の計略により、レアとラケルの姉妹と結婚することになった。(創
世記29章) 結果的には、ヤコブの子どもたち12人が、イスラエルの12部族となり、主の救い
の歴史の担い手となった。 
 
ラケルとレアのことが書かれているところを読むと、夫ヤコブの愛をめぐって姉妹間で抗争が
繰り広げられている。 「妬み」という肉の働きが全開している。 ラケルとレアの、それぞれの
女奴隷を使ってまで子どもを儲けようとしている。 しかし、神は、そのような一見、愚かと見な
されるようなことで生まれた子どもたちを主の救いの歴史の担い手とされたのである。 神がご
計画されていることは、我々人には、とうてい想像もつかず、我々人の思いや考えをはるかに
超えている。 人は、神の救いのご計画は、「清(聖)い」「善」なる人だけが用いられると考えが
ちだが、そうではない。 神がなさることを誰が前もってわかり得よう。 神のなさることは、人
には「予測不可能」なことである。
 
さて、一か所、ラケルの行動について思考してみる。 創世記31章。 ヤコブは、伯父のラバン
の顔が以前とは変わったのを見て、危険を察した頃、主が故郷であるカナンの地に帰るように
告げられたので、ラケルとレアに、彼女たちの父ラバンの不当な仕打ちについてのこと、ヤコ
ブの家畜は、神が与えられたものであること、神がこの地を出て故郷に帰れと言われたことを
話した。 ラケルとレアに、父の家か、自分(ヤコブ)とヤコブの神のどちらを選択するのかを求
めた。 ラケルとレアは、ヤコブとヤコブの神を選んだので、ヤコブは、妻や子供たちを連れて
故郷に向かった。 ちなみに、創世記31:22には、ヤコブは「逃げた」「逃げ去った」と書かれて
いるが、原語では「ヴァラフ」となっており、「危険を察して姿を隠す」という意味だという。 
 
また、創世記31:19、20「その時ラバンは羊の毛を切るために出ていたので、ラケルは父の
所有のテラピムを盗み出した。 またヤコブはアラムびとラバンを欺き、自分の逃げ去るのを
彼に告げなかった。」の箇所は、ヘブライ語原典では「ラバンは、彼の羊の群れの毛を刈るた
めに行った。 そしてラケルは、彼女の父のものであるテラフィムを盗んだ。 そしてヤコブは、
アラム人ラバンの心を盗んだ。 ヤコブが逃げることをラバンに告げないということで。」となっ
ているという。 「盗んだ」と訳されているヘブライ語のイグノヴには、「欺く」という意味もある
いう。
 
ヤコブが、危険を察して姿を隠した3日後、ラバンはヤコブたちを追いかけて行った。 しかし、
ヤコブたちに接近したその夜、神がラバンの夢の中で、ラバンに「あなたは心してヤコブに、よ
しあしを言ってはなりません。」と言われた。(創世記31:24) この箇所も、ヘブライ語原典
は、「あなたはヤコブと共に善から悪まで話さないように気を付けよ。」ということだ。 ラバン
は、「善」「悪」を巧みに使い分け、「善」「悪」と言い、「悪」「善」と言って、口先でまるめこ
み、人を自分の思い通りに従わせて、とにかく自分の思いを押し通そうとする人間なので、主
がラバンの心に釘を刺しておいたということであろう。 
 
ラバンがギレアデの山でヤコブに追いついたとき、ラバンは、自分を欺いた、娘たちを捕えて
連れ去った、逃げ去った(隠れた)、盗んだとヤコブを責めた。(創世記31:26-30) ラバンの
言葉は相変わらず口先だけで、ラバンこそ長年ヤコブに対して偽善の言動を行なってきたこと
は、ラケルもレアも知っていた。 ラバンが神に告げられたとヤコブに言った「おまえは心して、
ヤコブによしあしを言うな(創世記31:29)」は、ヘブライ語原典では、「善から悪まで話すことを
気を付けよ」となっているという。 「話さないように気を付けよ」「話すことを気を付けよ」
は、全く意味が違ってくる。 「話してはいけない」「気を付けて話す」とは違う。 結局、ラバン
は巧妙に自分の言いたいことを言い、自分の思いを押し通そうとしていたのであろう。
 
ラバンが一番気にしていたこと、欲しかったものは、「わたしの神(守り神、テラフィム)」であっ
た。 このテラフィムは、ラケルが盗み出していた。 そのことをヤコブは知らなかった。 な
ぜ、ラケルが偶像テラフィムを盗んだのかについては、いろいろ解釈があるようだ。 当時、メ
ソポタミアのハムラビ法典では、偶像テラフィムを有する者が財産の相続権を絶対的に有する
ことになっていた。 だから、ラケルは、偶像テラフィムを盗むことによって、ヤコブがラバンの
財産について特定の相続権を主張できると考えたからだとか、ラケルはラバンの財産を後に
主張するために、このテラフィムを持ち出したのだというような解釈があるという。
 
確かに、ラバンは、躍起になってヤコブの周りから偶像テラフィムを探し出そうとしたのは、
後々になって、ヤコブがテラフィムを持って来て、自分こそ財産の相続者だと主張するのを恐
れたからであろう。 しかし、ヤコブの持ち物すべては神から与えられたものである。 ラバン
の物は何一つない。 まして、ヤコブは神に頼っている。 そのことをラケルは、ヤコブから聞
いていたし、そういうヤコブを見てきた。 レアと子どものことで対立しながらも、神のみわざを
見てきた経緯がある。 だからこそ、父ラバンを選ばず、きっぱりとヤコブを選んだラケルであ
る。 それは、ある意味、ヤコブの信じる神を自分も受け入れたということではないだろうか。 
たとえ、「信仰」が弱くても、肝心な時には、神の側、すなわち、ヤコブについた。
 
ラケルは、偶像テラフィムを盗んだからと言って、決して偶像崇拝者ではない。 ラバンと同じ
ように偶像テラフィムに拠り頼む偶像崇拝者であるなら、テラフィムを尻に敷くことなどしなかっ
たであろう。 ラケルは父ラバンが「富」に執着しているだけでなく、狡猾な人であることを知っ
ていた。 ラケルとレアが、「わたしたちは父に他人のように思われているではありませんか。
彼はわたしたちを売ったばかりでなく、わたしたちのその金をさえ使い果したのです。(創世記3
1:15 )」とヤコブに言ったが、この「他人」は、原語では、「他人」「外国人」だけでなく、女性に
関しては「姦婦」や「売春婦」をも意味するという。 要は、ラケルやレアの結婚に対する父ラバ
ンの態度が反映されているのだという。 ラバンは、ヤコブが作り出した富をラケルやレアに花
嫁持参金として還元せず、実の娘ではなく、まるで他人を売り払うような扱い方をしたのであ
る。 そのような利己的な父ラバンの行動の根拠となったのが偶像テラフィムだったのである。
 
もし、ラケルが、偶像テラフィムを盗み出さなかったなら、ラバンは、自分がテラフィムを所有し
ているのだから、自分の家で得たヤコブの財産すべては、自分のものだと主張したのではな
いかと推測できる。 言うなれば、ラケルの行動は、それを阻止するためだったと思われる。 
ラケルのこの行動も、神は「良し」とされている。 ともすれば、人から非難されそうな行動で
あっても、神である主が「良し」とされたら「良い」のである。 主が「否」とされたら「否」である。 
 
ラケルは美人だが、したたかで計算高い女性と思われているかもしれないが、案外そうでもな
いかもしれない。 夫ヤコブの愛をめぐって姉レアを「妬み」、姉妹間での抗争が目立っている
が、ラケルの心の奥底を主は見ておられたのではないかと思われる。 尚、ヤコブとラケルと
の出会いが、リベカとアブラハムのしもべとの出会いに若干、似ているようにも思える。 (「井
戸のそば」:創世記24:15-21、創世記29:2-12) 両方とも、水の井戸のそばでの出会いがス
タートとなっている。(創世記24:15-21、創世記29:2-12) 
 
また、「ヤコブは、アラム人ラバンの心を盗んだ。 ヤコブが逃げることをラバンに告げないと
いうことで。(創世記31:20)」という原語から、ヤコブの側から見れば、本来ヤコブのものであっ
たのをヤコブが盗む必要はない。 しかし、「ラバンの心を盗んだ」ということは、ラバンの側か
ら見れば、「盗まれた」であるから、ラバンが、ヤコブのものの すべてを自分のものと思ってい
たということであろう。 それで、ヤコブは、ラバンに告げずに、ヤコブ自身のもののすべてを
持って出立したことで、すべて自分(ラバン)のものと思い込んでいた「ラバンの心を盗んだ」
いうことになるのだろう。 だから、本当は、何一つラバンのものを盗んでいないが、「ラバンの
心を盗んだ」と書かれているのだと思われる。 
 
このようにして見ると、アブラハムの妻サラ、アブラハムの子イサクの妻リベカ、そして、イサク
の子ヤコブの妻ラケルが、それぞれ人からは非難されるようなことであっても、実は、神が「良
し」とされていることであり、神の見方と人の見かたは大きく違うということではないだろうか。 
 
ちなみにアブラハムの妻サラの場合。 サラが、ハガルとイシュマエルを追い出したことは、人
の側から見れば、理不尽で冷たいことと思われがちだが、神がサラの言動を容認された。(創
世記21章、21:12めんどり通信/2017年1月22日参照) サラは、「神と神のことば」よりも「世
の常識」「自分の考え」の方を信じ、優先し、愚かな行動を取ったりと失敗もあったが、そうし
ながらも、神が「サライ」を「サラ」と改名されたように、主がサラを整え、神の御前を歩む者とし
てくださっためんどり通信/2017年1月29日参照)
 
アブラハムの子イサクの妻リベカの場合。 リベカがより愛していたヤコブをエサウに扮装させ
て、アブラハムと契約した子々孫々にわたる祝福を受け継ぐ「長子相続権」をエサウから奪い
取ったと非難されがちだが、主なる神は、リベカとヤコブを責めるどころか、その方法が成功
することを「良し」とされている。(めんどり通信/2017年3月12日参照)
 
我々は、出来事、言動の表面だけを見て、主のみこころかどうかを判断をしないように気を付
けなければならない。 人間の尺度で出来事、言動、物事を見るのではなく、キリストの見方が
できるように取り組みたいものである。 
 
★旧約聖書 詩篇 119:66
   わたしに良い判断と知識とを教えてください。わたしはあなたの戒めを信じるからです。
 




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