めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年4月24日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主イエス・キリストが嫌われること:偽善と悲劇のヒロイン>


★旧約聖書 詩篇 51:6
   ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてくだ
   さい。
 
★旧約聖書 箴言 12:22
   偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。
 
福音書を読みながらイエス・キリストが忌み嫌われるのは、どういうことであるのかを、いろ
いろ思考してみた。 明確にわかることは、イエスが言われた、「忌わしいものだ。偽善の律法
学者、パリサイ人たち。(マタイ23章)」のことばから、律法学者やパリサイ人たちのようなこと
をする者は嫌われるということである。 口語訳では、彼らに対して はっきりと「わざわいであ
る。」と書かれている。 
 
イエスが厳しく糾弾されたことは、@彼らは人々から天の御国をさえぎっている。A見えのため
に長い祈りをする。 B伝道には熱心だが、せっかくの改宗者を自分より倍も悪い地獄の子に
してしまう。 C十分の一のささげ物(十一献金)をしても律法の中ではるかに重要な正義もあ
われみも誠実もおろそかにしている。D外側の言動はきよめるが、内側(心の中)は貪欲と放
縦とで満ちている。E外側は人に正しいと見えても、内側(心の中)は偽善と不法でいっぱいで
ある。 F外側の言動を敬虔そうに見せて、その心は先祖と同じように反逆に満ちている、と
いうことである。 だから、イエスは彼らに「わざわいだ。忌まわしい。偽善者。」と言われた。
 
パリサイ人たちは、旧約聖書の律法ではなく、世代から世代へ、口で伝承されてきた掟の「口
伝律法」を重点的に厳格に守ることを主張していた。 聖書を研究する人たちや専門家であっ
た律法学者は、モーセの律法に自分たちが考えた細則(口伝律法)を多く追加し、表面的にだ
け律法を行なっていた。 だから、イエスがなさった多くの奇跡を見ても、彼らはイエスに真っ向
から反対し、敵意をむき出しにした。 そればかりか、人々が「わたしが道であり、真理であり、
いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
(ヨハネ福14:6)」と言われたイエス・キリストを信じようとすることも妨害していた。 
 
イエスが忌み嫌われた「偽善」という言葉は、ギリシア語の原意では「劇である役割を演じ
る」ことであるという。 そこから実際にもたない感情や徳などをもっているふりをする倫理的
に悪い態度を言っているのだという。 うわべをいかにも善人らしく見せかけること。 また、そ
ういう行為、うわべだけの善行ということだ。 結局、主イエス・キリストは、外側ではなく、内
側、すなわち心の中、特に心の奥底を見ておられるということだ。 外側の言動にしても、心の
奥底から出てくる言動を見ておられる。 「人はうわべを見るが、主は心を見る。(Tサムエル1
6:7)」ということである。
 
パリサイ人たちは、律法(モーセの律法、口伝律法)の両方について、文字どおり従うように
と、厳しく人々を戒める律法主義者だった。 だから安息日にイエスにいやされた人を責め、厳
しくとがめた。 イエスは、この律法主義と対決された。 しかし、律法を廃棄されたのではな
く、イエスが律法を完成された。(マタイ5:17) そして、イエスが十字架で死んでくださったの
で、我々は律法から解放されたのである。(ローマ7:6) 
 
ところが、今日、キリストを信じる者たちが、律法主義的な考えが充満して「聖書のことば」を、
「これこれは、神の御心だから、・・してはいけない、・・しなければならない」などと、主のみこと
を杓子定規に解釈したり、キリスト教式という形式や外面にこだわった受け取り方をしたりし
て、かた苦しくなっていることが多いのも事実である。 その上、聖書が教えていないような掟
「神のことば」と思い込んで、それに縛られ、楽しんだり喜んだりすることを極端に禁じるよう
な生き方をしているクリスチャンが多いのも事実である。 もし主が、「楽しんだり喜んだりして
はならない。」と言われたのなら、当然、その主のことば従うべきであるが、往々にして人の
考え、判断で禁じている場合が多い。 せっかくの「神の恵み」律法主義へと後戻りさせてい
る。 律法主義に束縛されると、パリサイ人たちのように「偽善」な言動になる危険性がある。
 
また、「偽善」の律法学者、パリサイ人たちは、あからさまにイエスを非難し、攻撃していたが、
この「偽善」コインの表、外側とするなら、コインの裏、内側「悲劇のヒロイン」ではないだろ
うか。 「悲劇のヒロイン」的になることは、律法学者、パリサイ人たちのように、あからさまに
「悪」「反発」「攻撃」が表われてはいないが、こっそり、人に知られないようなかたちで巧妙に人
「反発」「攻撃」してくる。 
 
主なる神が嫌われることは、神に信頼しないとか、傲慢、高ぶるとか、不品行、汚れ、好色、偶
像礼拝、魔術、敵意、・・・(ガラテヤ5:19-21)など、いろいろ聖書に書かれている。 しかし、そ
れ以上に、主が嫌われることは、律法学者、パリサイ人たちのように、「偽善」的で、自分たち
の気に入らない者、憎む者を「責めること」「攻撃すること」、「悲劇のヒロイン」的になって、自
分が嫌いな者、憎む者に巧妙に「反発すること」「攻撃すること」であり、そのような者を神は忌
み嫌われる。
 
福音書の中で、イエスを裏切った者と言えば、イスカリオテのユダが挙げられるが、ユダが裏
切ることをイエスはご存知だった。 しかし、ユダに対して、律法学者、パリサイ人たちのように
厳しく非難されなかった。 むしろ、最後の晩餐のとき、ユダをイエスの左隣に座らせ、悔い改
めを促しておられたように感じる。 あの筆頭弟子のペテロでさえ、イエスの右隣に座っていた
ヨハネから少し離れた席に着いていた。 当時、主賓の左隣は、主賓に対して、次席の位置
で、非常に名誉な席であった。 イエスが、「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そう
いう人は生まれなかったほうがよかったのです。(マタイ26:24)」と言われたが、イエスの心が
張り裂けるような深い痛みを感じる。
 
確かに、イエスは、パリサイ人と律法学者たちを、「忌まわしい」「わざわいである(口語訳)」
痛烈に非難されたが、このことばの原語のギリシャ語は「ウーアイ」で、これは、悲しみ、悲痛
を表す発声「ああ」とか、「悲しいかな」、「わざわいなるかな」との意味であるという。 そのこと
からも、彼らに対する悲しみを秘めておられるように感じられる。
 
彼らは、露(あら)わに「悪」「反発」「攻撃」をさらけ出している部分があるからかもしれない。 
もちろん、露わであろうと密かにであろうと、主に反発すること、主と主を信じる者、また、人を
攻撃することは、間違っているし、主が嫌われることである。 
 
しかし、「悲劇のヒロイン」的になることの方が、もっと主に嫌われることかもしれない。 なぜな
ら、「悲劇のヒロイン」的になることは、巧妙に自分の本心を隠しながら、自分の憎む者、気に
入らない者に巧妙に反発し、その人を責め、攻撃するからである。 いわば、隠れたところで
「悪」を行なう、巧妙に自分の我を押し通す。 それを主は最も忌み嫌われると思われる。 そ
ういうことは、サタンの常套手段(じょうとうしゅだん)だからかもしれない。 
 
人は、時には「悲劇のヒロイン」的になり、人を責めず、攻撃もせず、ただ自分を守ろうとするこ
とがあるかもしれない。 中には心の病気から、そのような言動をする人もいるかもしれない。 
そのような人を主は責められない。 しかし、 そのような性質は、変えられなければならない
し、病であるなら治ることを願う。 とにかく、パリサイ人たちのように あからさまな「偽善」の言
動を行ないながら人を責めることも嫌われるが、悲劇のヒロインになって、人に自分は悪くな
い、悪いのは・・だ、というように巧妙に見せながら人を責めるということを、主は忌み嫌われ
る。  そのように言動する者には、一点の悔い改めの心も心底からの反省も見られない。 そ
心の奥底には、傲慢、高ぶりがある。 
 
いずれにしても、我々は、コインの表裏、すなわち偽善」と「悲劇のヒロイン」から遠ざかり、
しっかり「主にとどまり続けること」、「主につながり続けること」を、重要視していきたいものであ
る。 主にとどまり続けるなら、我々心の深層部に隠れているかもしれない主の喜ばれない「思
い」や「願い」に気づかせてくださり、自我を砕き、肉を切り取ってくださって、清めてくださるで
あろう。 ますます、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって
祈り、神に依り頼んでいきたいものである。 そして、キリストとの交わりを深くしっかりとしてい
き、主の喜ばれる者になりたいものである。
 
※めんどり通信/2012年6月10日参照<主なる神の側にとどまり続け「偽善」から遠ざかれ>
 
★新約聖書 へブル人への手紙 4:13
   造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であ
   り、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
 
★旧約聖書 詩篇 40:4
   幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その
   人は。
 
 



めんどり聖書研究会