めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年6月10日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主なる神の側にとどまり続け、「偽善」から遠ざかれ!>



★新約聖書 ヨハネの手紙 第一 3:6 
   だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。・・・
 
★旧約聖書 詩篇 51:6
   ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてくだ
   さい。
 
★旧約聖書 箴言 12:22
   偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。
 
●主イエスは「偽善」を忌み嫌われた。 イエスは、パリサイ人たちや律法学者たちを「偽善」を
行なう「偽善者」だと激しく非難した。 当時、パリサイ人たちや律法学者たちは民衆から尊敬
されていた。 彼らは、聖書を熱心に読み、祈り、断食をし、施しをしていた。 しかし、イエス
は、群集や弟子たちに、彼らの行ないをまねてはならないと忠告した。 彼らのしていることは
みな、人に見せるため、人にほめられるためである。 祈りさえ、見えのためにする。 外側は
人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいであると話した。(マタイ23章、6:2) 
 
「偽善」とは、<うわべをいかにも善人らしく見せかけること。また、そういう行為>と辞書には
書かれている。 または、<善良であると偽ることをいう><善ではないものを善であると偽る
こと>とも書かれている。 「偽り」といえば、悪魔は、「偽り者であり、偽りの父である」(ヨハネ
福8:44)とイエスは言われた。 だから主は「偽善」「偽り」を忌み嫌われる。 
 
ところが、すべての人はみな、この「偽善」を心の底に秘めている可能性がある。 アダムとエ
バが罪を犯し、全人類に罪が入ってきたからである。 「罪」とは、ひと言でいうなら、サタン(悪
魔)の性質と言えよう。 サタンは偽り者だから、光の天使に擬装する 食い尽くすべきも
のを捜し求め、人々をだまして滅びへと誘う。(Uコリント11:14、Tペテロ5:8)
 
<うわべをいかにも善人らしく見せる行為>ということは、社会生活の中で、通常、意識、無意
識に関わらず行なっているということが多々ある。 「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの
栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。(ヨハネ福5:44)」と主イエス
は言われた。 だから、「誉れを求める」ことは決して悪いことではない。 ただ誰からの誉れを
求めているかがその人の位置を決める。 
 
その位置とは、神の側にいるか、人の側、すなわちその背後にあるサタンの側にいるかであ
る。 人は、真の神か、この世の君」であるサタン(悪魔)か、いずれかの支配、影響を受けて
いる。 好む好まざるに関わらず、いずれかの側にいる。 人は、どちらの側にいるかで歩みと
方向が変わってくる。 真の神の側にいるならば、聖霊が導いてくださり、守ってくださり、神が
人に与えようとされる恵み、祝福に預かることができる。 また神の子であるから、当然、自我
が砕かれるため、肉が切り取られるため、神としっかりと繋がり続けるため、訓練試練もある。
(ヘブル12章)
 
一方、サタン(悪魔)、悪霊の側にいるなら、人によっては一時、繁栄を与えられることもある。 
長いルンルンの時を過ごし、ますます自我が強くなる者も多々いる。 また、人の気持ちを思
いやるという麗しいことにおいて、外側は人によく見えても内側は、自己満足で押し付けがまし
かったり、人にはわからないように巧妙に見下げて高ぶるという者も多々いる。 やさしいと人
から誉められたり、表面上麗しい関係があったりなどと、世間で言う「善人」「幸せ者」と言われ
る人も多々ある。 しかし、結局、人生の終わりになって自分の行為の報いを刈り取る、という
ことも多い。 最終的に、サタンは自分の支配下にいる者を一人も失うことなく、道連れにする
であろう。 神に敵対する者どもの行く末は「滅び」である。 その代表がサタン(悪魔)である。
 
人は、アダムとエバ以来、罪人である。 サタンの性質が受け継がれている。 だから、意識、
無意識にかかわらず、自分を守り、自分をかばおうとするところがある。 悲劇のヒロインを装
うこともその中の一つの方法である。 また、何かのことで悩み、人に相談しても結局、自分の
思い通りを選択しようとするところがある。 それはクリスチャンである、ないに関わらず、そう
いうところが出てくる。 それらはすなわち自分が中心、自分が基準である。 一般的には当た
り前のことである。 しかし、サタンの支配下にいるから、サタンの影響を受けているから、そ
のように考え、思い、誘(いざな)われる。 
 
確かに、主イエス・キリストを信じた者は、この世から救い出された。 主の下にとどまり続け
て、主なる神の側、神の下にいるなら、たとえ悪霊の影響なり、攻撃を受けたとしても、主が責
任を取ってくださり、復讐をしてくださる。 むしろ、そういう事柄もすべて益にしてくださる。
ローマ8:28、12:19) しかし、たとえクリスチャンであってもサタン(悪魔)、悪霊の支配下に戻
るなら、悪霊どもの影響を受けて、思いが主なる神から離れ、それに伴い、行ないも主のみこ
ころから離れていく。 「偽善」な言動は当たり前になっていく。 この世では「善人」だと誉めら
れても、神の誉れを受けれなくなる。 主なる神との交わりがなくなっていく。 そうなるなら、父
なる神と主イエス・キリストがおられる天の御国(真の天国)と何の関係もなくなる。 
クリスチャンでない者は通常、神の支配下にはいないが、主は救おうとされているか何かのご
計画のゆえに、その人に対して、様々な方法、形で神のあわれみを提示したり、聖霊の働きを
されたりということがある。 そういうときには、聖霊の働きによって、クリスチャンでなくても主
の支配下にあり、主の影響を受けていることがあり得る。
 
いずれにしても、主の支配の下、主の影響の下に居るということが重要である。 主の支配の
下、主の影響の下に居るなら、神が忌み嫌われる「偽善」の言動はできないはずである。 な
ぜなら、人の心の底にある思い、本音、本心を主が浮き彫りにさせ、いろいろな神の方法で聖
めて作り変えてくださるからである。 
 
我々がすべきことは、主の側にとどまる、すなわち主の支配の下、主の影響の下に自分を置
き続けることである。 そして、心の底から清められ、主のみこころが何かを知って、主に従っ
ていくことである。(ローマ12:2、エペソ5:17) そのためにも日々、絶えず、主イエス・キリスト
から目を離さず、主に尋ねること、いつも祈ること、神に依り頼むことをしていきたいものであ
る。 また、神のことばと信じて聖書を読み、聖霊の流れに乗っていきたいものである。
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 2:1,2
   ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、
   すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕
   い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
 





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