めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年3月13日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
主が定められた幸いな道を歩んで行くために:サウル、イスカリオテのユダ、ザアカイから思考


★新約聖書 ペテロの手紙 第二 1:10
   ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確
   かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
 
★新約聖書 ヨハネの黙示録 22:11
   不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正し
   い者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。
 
●神に選ばれていたが、「神のことば」に背いて、神から離れ、ますます悪に落ちて行く人がい
る。 せっかく主が定められた幸いな道へ導かれていながらも、自ら その道を断ち切ってしま
う人がいる。 神から見られて「否」とされる者たちがいる。 しかし、こういう人たちは、人間の
側から見ると、まさか、あの人は幸せそうなのに、と見られることもある。 だから、外側からの
見た目では判断しづらいことも事実である。 
 
聖書の登場人物から見てみる。 旧約時代の初代イスラエル国のサウル王の場合。 イスラ
エル人が近隣諸国のように王を求めたとき、神がサウルを王として立てられた。 最初は、謙
虚であった。(Tサムエル9:21) その後、アモン人ナハシュとの戦いがあり、イスラエルはサ
ウルのもと、大勝利を収めた。 このとき、サウルが陣頭指揮したので勝利を収めたというの
ではなく、神の霊がサウルの上に激しく下ったので、勝利を収めたということだったが、この大
勝利は、サウルにとってつまずきとなった。
 
ペリシテ軍の脅威にさらされていた時、サウル王は、預言者サムエルに「7日間、ギルガルで
待つように。」とサムエルを通して告げられていた「主の命令」に背き、祭司の務めである「いけ
にえをささげる」という越権行為をした。 しかし、サウル王は悔い改めるでなく、「サムエルの
到着が遅れて、民が自分から離れて行こうとしたから、全焼のいけにえをささげた」と言い訳を
して、自分の行為を正当化した。 
 
このことによって、もともと持っていたと思われる自分に対する好評価を欲する者であること
(見栄、名誉欲)、人目を気にする者であること(自分のメンツを保つ)などの本性をサウル自
身も気づいたのではないかと思われる。 ただ、そのとき、それを認めて神の前にへりくだるこ
とができたなら、砕かれて大いに変わったであろう。 しかし、サウルは心の奥底にある神が
「良し」とされないものに対して、きちんと向き合わなかった。 
 
その後、ペリシテとの戦いで、サウルが敵に復讐するまで食物を食べることを禁じる、という愚
かな命令を出して、傲慢になったり、「アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。」という
神のことば(主の命令)に従わず、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶したりした。 預
言者サムエルに問い詰められても、民のせいにしつつ、私は主の御声に聞き従いました。
(Tサムエル15:20)」と言い張った。(Tサムエル14章15章) 
 
神が「ことば」「命令」をくださること、ある意味、神からの試しでもある。 そして、それは、人
が砕かれるチャンスの時でもある。 サウルにも、このように何度も試され、砕かれるチャンス
をくださったが、サウルは、心の奥底に自ら根付かせた神が「否」とされるものを離さないばか
りか、それらを自分では「否」と認めなかった。 それからのサウルは、ダビデをねたみの目で
見るようになり、執拗にダビデを殺そうと追いかけ回した。 主はサウルを王位から退かせた
後、主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。(Tサムエル16:14,1
8:10,19:9) それでも自分が最優先ということを止めず、サウルの自我は、ますます頑迷に
なった。 悪い霊が入ってくるような「心」になってしまっていたということである。
 
サウルの最期は、敵が自分をなぶり者にしてはいけないからと、「剣を取り、その上にうつぶせ
に倒れた。(Tサムエル31:4)」と書かれている。 自分の面子を最期まで気にしての自殺であ
る。 最期まで見栄を張った。 人目を気にした。 イスラエルの王として雄雄しく戦って死んだ
と言う人もいるが、神の前に最期までへりくだらなかった、すなわち真の悔い改めをしなかった
ことは事実である。 

イスカリオテのユダの場合。 12使徒としてイエスに選ばれた。 イスカリオテのユダは12弟子
の中で唯一ガリラヤ出身の田舎者ではなく、イスラエル南部の地方都市出身の人であった。 
カリオテとは大都会という意味があるという。 かなり優秀で、人からの信頼も得ていた人物
だったといわれている。 当然、弟子団の財務担当を任された。 彼についての記述はきわめ
て少ないが、少ない中にもユダの心の奥底が露呈する言動が書かれている。 イエスは十字
架にかけられる前、やすらぎのひと時をマルタとマリヤの家で過ごされた。 その時、マリヤは
イエスに香油をそそいだ。 ところが、イスカリオテ・ユダが 「なぜ、この香油を三百デナリに
売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言った。 ユダがそのように言ったのは、「彼が貧
しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、
の中に収められたものを、いつも盗んでいたからである」と書かれている。(ヨハネ福12:6)

三百デナリとは、今日でいうなら約3百万円であるという。 相当、高価なものなので、ユダだけ
でなく、他にも無駄遣いだと思った弟子たちがいたと推測できる。 しかし、イエスは、非難した
人たちに「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。・・・
この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたので
す。・・・世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、
この人の記念となるでしょう。(マタイ26:10-13)」とたしなめて言われた。 その中でもヨハネに
よる福音書12章によるなら、イスカリオテのユダに名指しで言われたようである。
 
イエスのことば心の奥底にあったものを露呈させる、しかし、それは変えられるチャンスで
もある。 どのようなことばであれ、主のことば与えられるときこそ、自分の言動の根底にあ
るものを知るチャンスの時であり、それを認めることによって砕かれ、後に聖霊が存分に働か
れる素直で柔らかいに変えられる。 イエスが捕えられたとき、逃げた11弟子であったが、
結局、主のことば従い、聖霊がくだるのを待つことができたのは、イエスと一緒にいたとき、
ペテロだけでなく、他の弟子たちもペテロ同様、失敗したり叱られたりしながら、自分の愚かさ
を少しずつ知っていき、そのような自分を認めて、砕かれながら心が素直な者に整えられて
いったからであろう。
 
ユダにも、砕かれ、清められるチャンスは、ペテロや他の弟子たちと同じようにあったはずであ
る。 しかし、その度、他の弟子たちとは違い、主のことば拒否していったのであろう。 その
頃、ペテロや他の弟子たちは、イエスが語られたことばを本当の意味で理解できる者はいな
かったと思われる。 その点はユダも同じである。 ただ、ユダとペテロとの違いは、自分の弱
さと愚かさに涙してきたかどうかによる。 いわば、サタンが喜ぶ「心」になったか主が喜ばれる
「心」になったかであるとも言えようめんどり通信/2008年6月22日。<ペテロとイスカリオテの
ユダ>参照)
 
ユダは、当時のユダヤ人と同じく、政治的な意味や革命者としてのメシアを期待していたかもし
れない。 イエスが、政治的最高地位に立った時は、自分はイエスの右か左、すなわち参謀役
にでも就きたいと考えていただろうか? その位置であれば、一つの小さな群れの会計だけで
なく国の財務を任される。 そうすると地位とお金が手に入る。 そんなことを夢見ていたのか
もしれない。 しかし、主のことば対して、心の奥底では反抗、反発を繰り返したようである。 
そのことは、「イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。(ルカ22:3)」ということばから
窺(うかが)える。 サタンが入ってくるような「心」になってしまっていたということである。
 
イエスに対して失望し、サタンが入ってくるような「心」になると、銀貨30枚でも欲しくなるようだ。
(マタイ26:15)  出エジプト記21章32節に、奴隷の価値が銀貨30シェケルと書かれているが、
祭司長たちは、イエスを価値のないものと見なしていたから、イエスを引き渡せば、いくらくれる
かというユダの要望に、銀貨30枚を提示したのであろう。 銀貨30枚は、当時の労働者の3カ
月分の労賃と言われている。 
 
イエスに立ち返ることができるように、何度も何度もペテロたちと同じように、イエスはことば
語られた。 しかし、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言いはしたが、イエ
スのところへは返らず、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。 主の前
に最期までへりくだらなかった、すなわち真の悔い改めをしなかったことは事実である。 
 
このように見ていくと、その人に、直接、語られた「主のことば」や牧会者や人を通してその人
に語られた「主のことば」聖書を通してその人に語られた「主のことば」に、反抗すればする
ほど、「心」は悪霊やサタンが住みやすい(入りやすい)状態になっていくということである。 自
分に語られた「主のことば」に対して、最初は、もろに反抗しているとは思っていないかもしれな
い。 自分の思いや感情、考えを優先しただけであって、当の本人は、「主のことば」に反抗し
ているなどとは思っていないかもしれない。 ところが、意識してであろうが無意識であろうが、
自分の思いや感情、考えを優先することは、語られている「主のことば」に反抗するということ
になる。 そして、そうしていくうちに、心の奥底にある神が「否」とされるものを余計、固く握る
ようになっていくようである。 
 
そうなると、サタンや悪しき霊が働きやすい「心」の状態になっているので、主がいろいろな方
法で救いの御手を差し伸べても握ることができなくなる。 悪しき霊がかかわると主が定められ
た幸いな道に戻ることが難しくなるようだ。 神に選ばれる前、人に嫌われるような悪人であっ
ても、サタンや悪しき霊が、かかわっていない、働いていないなら割とすんなりと主の御前に素
直になれる者もいる。 
 
ルカによる福音書19章に登場してくる取税人のかしらで、金持ちのザアカイの場合。 彼の
の奥底にあったものが、救いへの渇望だった。 ザアカイは相当な嫌われ者で、置かれていた
地位を利用して私服を肥やしていたような者であったが、表面上の行動と彼の心の奥底にあ
るものの間には、ギャップがあった。 イエスが「きょうは、あなたの家に泊まることにしてある
から。」ということばに、ザアカイは喜んでイエスを迎え入れたからだ。 そして、イエスが目の
前におられただけで、良心が正常に機能していたからだ。 ザアカイは、日々の生活の中にお
いても、心の奥底では、良心が正常に機能していたと推測できる。 だから、サタンや悪しき霊
が入ってくることはなかった。
 
我々人は、アダムとエバ以来の性質を受け継いでいる部分があるので、最初からすべて清い
という人はいない。 すべての人は、罪を犯した。(ローマ3:23) 一人一人、成長していく内
に、置かれる様々な環境やいろいろな出来事を通して清められる者は清められ、自我を押し
通して清められることを拒否する者は、表面上は、社会や人にあわせても心の奥底には、神
「否」とされるものを潜ませる。 また、心の奥底にあるものが、神に「否」とされるものがあっ
たと知らされた時、それを認めて神の前にへりくだるなら清められるが、ただ、このとき、痛み
を感じる。 自我が砕かれ、肉(生まれながらの性質)が切り取られるからである。 それでも、
主によりすがり、主に頼ろうとする人を、主が見捨てることはない。 サタンや悪しき霊が入る
余地はない。 
 
いずれにしても、我々人は、サタンや悪しき霊につけ込まれないように、イエスから目を離さな
いで主の御前にへりくだって、心の奥底にある主の喜ばれないものを教えていただき、変えて
いただきたいものである。 そのとき、痛みが伴っても逃げることをせず、真剣に取り組んで、
御父と御子イエス・キリストとの交わりをしながら、主が定めておられる細い道を進んでいきた
いものである。
 
★新約聖書 へブル人への手紙 4:12
   神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分
   かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
  




めんどり聖書研究会