めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年9月20日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<聖書が語る「悪者」、その悪者に対して「腹を立てるな。主にゆだねよ。主に信頼せよ。」>


★旧約聖書 詩篇 56:3,4
   恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。 神にあって、私はみことばを、ほめたたえ
   ます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。
 
★旧約聖書 詩篇 37:1〜7           
   悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。 彼らは
   草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。 主に信頼して善を行なえ。地に
   住み、誠実を養え。 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださ
   る。 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。 主は、あな
   たの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。 主の前に静まり、耐え
   忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹
   を立てるな。
 
●今日の世の中は、矛盾かつ不公平であると感じている人も多いことであろう。 中には、こ
の世で大々的に要領よく(世渡り上手に)人生を謳歌している人もいるが、そのような人は少な
いかもしれない。 しかし、細々とであっても、それなりに要領よく(世渡り上手に)人生を謳歌し
ている人も含めれば決して少ないとは言えないかもしれない。 それでも、今日の世は「正直が
馬鹿を見る」状態と思っている人が多いのではないだろうか。 我々主イエス・キリストを信じる
者たちが見るべきこと、知るべきことは、主なる神がどう見ておられるのか主なる神がどう思
われているのかである。 また、この世では「いい嘘」「悪い嘘」と人は自分の基準によって使
い分けをしているが、我々キリストを信じる者は、主なる神がどう判断されているか悟って自
分の意思で判断すべきである。 ちなみに、世渡り上手は、クリスチャンを惑わす者として「天
路歴程」に登場してくる。<めんどり通信/2008年10月19日。めんどり通信/2012年5月13日
めんどり通信/2014年12月28日参照>
 
「正直で他人を信頼しやすく、普段は温厚な人ほど、不公平に憤って結果的に損をしやすい」と
いうことが、放射線医学総合研究所の高橋英彦客員研究員(京都大准教授)の実験で確認さ
れたというが、たとえ、悪者が栄え、楽しんでいるのを見たとしても、たとえ、キリスト者が損をし
たとしても、主が「正直であれ」と言われる時には「嘘」をついてはならない。 しかし、このこと
も律法的にならず、この世的に見るなら、たとえ「嘘」であっても、主が「良し」とされるなら、
「嘘」にはなり得ない。 ただ、この境目の判断、すなわち神の判断を知ることは、本当に難し
いものである。 人が自分の思い込みを神の判断と見なして「良し」とする場合が結構、多い。 
それでも、キリストに、しっかり繋がり続けている者には、聖霊が働かれて、その人がわかるよ
うに教えて下さるものである。 もしたとえ、人が下した判断が神の判断と違い、その人が神の
道から逸れそうになるときには必ず教えてくださり、正してくださることも事実である。
 
さて、なぜ悪者が栄えるのか、なぜ悪者が生きながらえ、年をとっても、なお力を増すのか、と
それぞれアサフは詩篇73篇で、ヨブはヨブ記21章で言っている。 アサフは、悪者のともしびが
消え、最終的に彼らにわざわいが来るのを神の聖所に入って悟った。 ヨブは、そのことを
知っていたようである。 ちなみに「悪者」とは、一般的には、自分の利益のためなら、人を踏
み台にして人が不幸になることをもためらわない人。 意地悪で利己的。 人のことを配慮せ
ず、むしろ妨害する人。 良心が正常に働いていない人のことを言う。 しかし、聖書が語る
「悪者」とは、神から離れて自分勝手に生きて、神に逆らう人のことを指す。 
 
確かに、アサフやヨブが言う悪者は、本来なら速やかに除き去られなければならない存在であ
る。 それでも、神が なかなか裁かれないという場合がある。 そして、アサフが主張するよう
に、神からの訓練試練を受けている者の方が苦しんでいることがある。
 
ただ、悪者の この地上での繁栄は、一時的である場合があり、一生涯、平和で苦しむことな
く死ぬ場合がありと、いろいろであるが、最終的な悪者の運命聖書に書かれているように滅
びである。(詩篇92:7、箴言21:12、24:20) しかし、神の御心は、一人も滅びることなく、すべ
ての者が悔い改めに至り、救われることを望んでおられる。(Uペテロ3:3) また、悪者の死を
喜ばれず、むしろ彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばれる。(エゼキエル
18:23) だからと言って、主なる神は、主の救い、主の恵み、主のあわれみ拒否する者の首
根っこをつかんで無理強いされることはない。
 
ダビデもまた、悪者について詩篇37篇で語っている。 詩篇37篇は、ダビデが晩年のときの作
であるというが、ダビデが人生を振り返って自ら体験したことからの教訓である。 ダビデは、
羊飼いの少年であった時、預言者サムエルを通してイスラエルの王となるべく油をそそがれた
が、その後は、一向に「王」とされる気配はなく、むしろ反対方向に進んでいるかのようだった。 
神のことばと現実が正反対のような状況が長く続いた。 サウルに命を狙われ執拗に追われ、
ついにはイスラエルの敵であるペリシテへ逃れようとしたが、そこでも命を狙われ、四面楚歌
の状況に追い込まれた。 
 
その後も様々な出来事(Tサムエル記21章〜27章)があり、イスラエルの王として即位してか
らも、息子アブシャロムの謀反、アドニヤの謀反・・・。 アブシャロムの謀反のときには、ダビ
デはエルサレムを追われた。 いずれにしてもダビデは、敵の強大さに悪者どもは栄えている
ように見えたことであろう。 様々な困難苦難にあい、命を狙われることも多々あったが、どん
底の状態、状況のときでも、ダビデは主と主のことばに信頼した。 そのような経験をしたダビ
デが悟ったことは、悪者に対して「腹を立てるな。主にゆだねよ。主に信頼せよ。」ということで
ある。(詩篇37篇) 
 
黙示録22章11節には「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義
なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ(口語訳)」と書かれ
ている。 主が定めておられる「終わりの時」が近づいてくると、人はますます、その人の本心
(心の奥にあるもの)が現れてくるということだ。 心の奥底あるものが、あからさまに出てく
るということであろう。 心の奥底から変えられた者は、ますます義に生きる、すなわち神が定
められた道を歩んで行く。 その道は、神を愛する道でもある。 不義とは、義と反対で、一言
でいえば神から離れた道を歩む者、神を愛さない道と言えよう。 
 
また、レビ記11章44節「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身
を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」というみことばがある。 それゆえ、
聖なる神と関わっていく、すなわち「主と自分との一対一の交わり」を続けていくことによって、
人は「神の聖」に与(あずか)っていく(レビ記11:44) 汚れたこととは、聖と反対である。 い
ずれにしても、主なる神は、義か不義か、聖なることを行なうか汚れたことを行なう、どちら
を選択するかを、人に任されている。 選択というとき、狭い門(狭い道)か広い門(広い道)
か、良い実を結ぶか悪い実を結ぶか、岩の上に家を建てようとするのか砂の上に家を建てよ
うとするのか(マタイ7章)いのちか死か、祝福か呪いか(申命記30章)を選択することも人に
任されている。 
 
狭い門をくぐること(狭い道を歩むこと)、良い実を結ぶこと、岩の上に自分の家を建てること、
いのち、祝福を選ぶことは、キリストにつながり続けていなければ、実際がそのとおりにならな
いことである。(ヨハネ福15:4) このようにしてみると、本当に、「今」という時、真剣に自分の
内面のことに取り組むことが大切であるとつくづく思う。 とにかく日々絶えず、主イエス・キリス
トから目を離さず、主の御前にへりくだって、「真の主の交わり」をしていきたいものである。 
日々の生活で、絶えず祈り、主が望まれる祈りができるようになって、ますます深く、主と交
わって主の喜ばれる者にしていただきたいものである。 
 
★旧約聖書(口語訳) 詩篇 19:12、13
   だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き
   放ってください。 また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配
   されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大
   いなるとがを免れることができるでしょう。
 
★旧約聖書 詩篇 37:23、24
   人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。 その人は倒れても
   まっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。
 
 



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