めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年8月30日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「ソロモンは悔い改めたのか」についての思考>


★旧約聖書 ミカ書 6:8
   主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられる
   のか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと
   ではないか。
 
●一般的にもよく知られているソロモン王について、いろいろ思考してみた。 ソロモンについ
ては、旧約聖書列王記歴代誌に書かれている。 簡単にまとめてみる。 ソロモンは、ダ
ビデ王の10番目の子。 妻は、ダビデが姦淫の罪を犯した相手バテ・シェバ。 ソロモンは彼
女との間に生まれた子である。 もちろん、ダビデが悔い改めて神に許された後であり、結婚し
てからの子どもである。 ソロモンが王に就任するまでの聖書の記述はない。 就任後は、神
が夢に現われ、「何でも願え。」と言われた。 ソロモンは大勢の神の民を治めるために、「知
恵と知識(=識別力)」を求めた。(T列王記3:5-10、U歴代誌1:7-10) ソロモンは与えられ
た知恵によって優れた裁判を行なった。(T列王記3:16-28)  
 
また神は、自分のために富や誉れを求めなかったことを「良し」とされ、知恵以外にも富と誉れ
を与えられた。 宮殿にあった器物もすべて純金であって、銀の物はなかった。 ソロモンの財
宝は目を見張るものであった。 当初のソロモンの主に対する信仰と従順は父ダビデと同じで
あった。 結果、イスラエルは平和と繁栄を謳歌した。
 
ソロモンは、主の宮の健造に7年、自分の宮殿に13年、合計20年かかって宮殿全部を完成し
た。  その他、町々を建て直し、他の地域には倉庫の町々、また防備の町々も建てた。(U
歴代誌8章) ソロモンは、外交関係を良くするために、エジプト王パロと契約を結び、パロの娘
をめとった。 そして、パロの娘のためにも別に宮殿を建てた。 諸外国との貿易などでも莫大
な富を得ていた。 何もかも順調に見えたが、崩壊は始まっていた。
 
繁栄とは裏腹に、イスラエル人たちは、ソロモンの王妃七百人、そばめ三百人の維持費、王
宮の経費のため、ソロモンの出身部族ユダ族以外の11部族には税が課せられ、民たちに不
満がたまってきた。 また、多くの外国の女性を王妃としての妻やそばめとして迎えていたこと
から、ソロモンは外国人の妻たちが持ち込んだ異教の神々を礼拝し始めた。 ソロモンの40年
の治世の後の17年は、偶像礼拝のため崩壊が始まった。 そのようなソロモンに対して、主は
怒りを発せられ、王国は二つに分裂されたが、ダビデのゆえに、ソロモンは生きている間、王
として留まった。(T王記11:9-13)
 
以上がソロモンの終わりまでの簡単な経緯である。 ソロモンはイスラエルを繁栄させ、荘厳な
宮殿を建てたが、神に対しての愛は、父ダビデほどではなかったと思われる。 それは、主の
神殿建築は7年だが、自分の宮殿には13年もかけていることにもあらわれている。 確かにソ
ロモンはダビデが建てることができなかった神殿を建てたが、主の宮に住む(常に主と共に歩
)ということには心が向いていなかったようだ。 要は、「主を愛する」ことではなく、「建てる」
という自分の行動が第一になっていたようである。 しかしダビデは、ただ一つの願い、それは
「主の家に住む」こと、すなわちそれは、主と交わり主と共に歩むことであると言っている。
(詩編27:4) ダビデにとって「主を愛する」ことが第一であったから、そのような願いを持った
のであろう。 重要なことは、「主と自分の一対一で交わる関係」(すなわち、主とつながり続け
こと)であり、「主と共に歩む」こと、すなわち「主を愛する」ことである。
 
さて、ソロモンは最期、悔い改めたのだろうか? ダビデは預言者ナタンによって罪を指摘され
たとき 深く悔い改めた。(Uサムエル12章) その悔い改めの深さは詩編にも多く書かれてい
る。 神は「ダビデに免じて」「ダビデのゆえに」などと それほどダビデを高くあげ、ダビデを愛
された。 ダビデは、主にも、人にも愛された。(Tサムエル2:26) ところが、ソロモンが偶像
礼拝に陥った時、主は預言者など人を遣わしたのではなく、主ご自身が二度も彼に現われた
にもかかわらず、ソロモンは主の命令を守らなかった。 「ソロモンが年をとったとき、彼の心
は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。」と記されている。
(T列王記11:4) 
 
後のユダ国王の中でも最悪の王といわれるマナセでさえ、U歴代誌33章13節には「神に祈っ
たので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に
戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」と書かれている。 主を知る前、
マナセは罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたゆえ、「主はその罪
を赦そうとはされなかった。(U列王記24:4)」と書かれている。 しかし、主を知ってから、マナ
セは主の宮から外国の神々と偶像を取り除き、主の祭壇を築いて、和解のいけにえと感謝の
いけにえをささげ、ユダに命じてイスラエルの神、主に仕えさせたりした。 これらのことから、
マナセは悔い改めたと思われる。(U歴代誌33:14-16) しかし、ソロモンが悔い改めたとは聖
書のどこにも書かれていないので、ソロモンは悔い改めていない、ゆえにソロモンは救われて
いない、滅びたという人たちもいる。 本当に そうなのだろうか?
 
著者は、ソロモンは最期には悔い改めたのではないかと考えている。 ソロモンが産まれたと
きダビデは、ソロモン(平和、平安という意味)と名づけたが、主はその子を愛されたので、
言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。(Uサムエル12:
24,25) エディデヤとはヘブル語(主に愛された者)の意味があるという。 ちなみに、旧約
において、神ご自身が預言者を通して直に「主に愛された者」と呼んだのは、ベニヤミン部族と
ダビデとソロモンに対してのみだという。 忍耐の主は、ソロモンを見捨てていなかったのでは
ないだろうか?
 
また、旧約聖書「雅歌」「箴言」「伝道者の書」はソロモンの作であるとされているが、特に「伝
道者の書」は老後に書かれたと言われている。 この書は、王に就任して後、特に神に背いた
経験を経たソロモンが、すべての人間は、「結局のところ、もうすべてが聞かされていること
だ、神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者の書12:13)」
いう結論になるべきであるように導くことを目的として書いたと推測できる。 伝道者の書の中
には「空」他、むなしさを表わすことばが多く使われているという。 富、地位、名誉、知恵、知
識、この世のあらゆる快楽を手に入れ栄華を極めたソロモンであったが、「空の空」と虚無感
以上の空しさを自分の生涯に感じたものと思われる。 「神を恐れよ。神の命令を守れ。これ
が人間にとってすべてである。」のことばは、心の表面上の言葉ではなく、実際、相当な虚無感
を体験し続けてきた者が行き着いたところからの心の奥からの叫びにも似たことばであると感
じるのだが、どうだろうか。 
 
著者が以前(約19年ほど前)、所属していた教会の夜の集会でメッセージをするように牧師か
ら言われたことがあった。 しかし、当時、牧師の言われること教えられることに一生懸命、従
おうとするのだが、牧師から見ると従っていないとのことで、叱られるばかりだった。 著者を浮
上させるためにいろいろ教えてくださっておられたと思うが、著者は、ますます沈むばかりだっ
た。 それで、メッセージは無理だと思ったが、牧師が語る命令は絶対に従わなければならな
かったので、著者は、牧師に言った。 「まだ、抜けきっていないこの状態では、天路歴程で語
ろうと思っても結論を語れません。 どうしたらよいのか わかりません。」と。 すると、牧師は
「私のようになってはいけません、と語ったらいいではないか。 教えることがあるではない
か。」と言われた。 
 
牧師はやはり、その言葉で著者を浮上させようとされたとは思うが、著者は浮上できなかっ
た。 それで祈りつつメッセージを語ることになった。 天路歴程の内容に沿って語りだしたが、
怪人”絶望”に捕まり深い穴に閉じ込められたところにきた。 ここでは、話しの内容は、”希
望”とクリスチャンという2人は穴の中で悔い改め祈り、「神が助けてくださるに違いない。」と信
仰に堅く立ち、牢から逃げ出し、怪人が追いかけてきても逃げ切ったということである。(めん
どり通信/2008年10月19日。<天路歴程(てんろれきてい)>参照) 
 
しかし、著者は、ここを語ることができなかった。 自分は深い穴に閉じ込められ、何か縛られ
ている状態だったからだ。 牧師は「悔い改め祈れ」と言っておられるのだが、著者は、「悔い
改める」という視点ではないと思っていた。 今、振り返るなら、それは「霊」の問題だったと思
う。 結局、「怪人”絶望”に捕まり深い穴に閉じ込められた私のようにはならないでください。」
とメッセージを締めくくった。 集会の後、牧師から「良いメッセージだった。」とほめられたが、
ますます落ち込んだのを覚えている。 自分の体験を天路歴程に照らし合わせて語っていた
ので、「穴の中で悔い改め祈り、牢から脱出して怪人から逃げ切り、次に歓喜の山に到着し
た」とは言えなかった。 もし、そのように語れば口先だけのメッセージになると思った。 
 
このような経験からソロモンが虚無感以上の空しさを語った後、「神を恐れよ。神の命令を守
れ。これが人間にとってすべてである。」と言ったのは、心の底からの体験の結果の言葉であ
ると思われた。 以上のことから、ソロモンは最期には悔い改めたと推測している。
 
これらのことから学べることは、ソロモンは「建てる」という外側の行ないを重点においたという
こと。 内側のことには無頓着だったということである。 それは神からの訓練試練を受けてい
ないので、自我が砕かれておらず、肉(生まれながらの性質)が切り取られていなかったから
だと思われる。 だから、主は、ソロモンが成功しても「虚しさ空しさ」を痛感して、神に頼らざる
を得ないこと、本当の平安は主である神にあること、・・・などを痛感させるため、あえて主はソ
ロモンが思うままにすることを許されたのではないだろうか。 二度の主の警告(命令)に従っ
ていたなら、その時点でソロモンの自我は砕かれ、ある意味、肉は切り取られたであろう。 
 
しかし、ソロモンは神の命令を守らなかった。 だから、ますますソロモンの内側、心の奥底で
は、虚しさを味わい悩み苦しんだのであろうと思われる。 主は、そのことを神の壮大なご計画
の中に組み込んでくださっていたのではないだろうか。 ソロモンほどではなくても我々において
も、主の方が忍耐をしてくださり、恵みによって、救いのご計画の中に入れてくださっておられ
るから、主イエス・キリストを心の深くにお迎えすることができるのだと思う。 神のあわれみは
深い。
 
また、神からの賜物は、神に頼りながら使うのでなければ、傲慢になる可能性が多大というこ
と。 ソロモンは知恵や知識の賜物、また富を使うのに神からの訓練試練を受けずに使ってい
るから肉の考え思いが先行する結果となった。 結果、妻たちの影響を受けて神の道から逸
れていった。 人が、神からの訓練試練を受けることは重要であることを見ることができる。 
すなわち、自我が砕かれ、肉が切り取られていくことは必須だということである。 
 
主がソロモンの名まえをエディデヤ(主に愛された者)と自らつけられた。 それなのに、ソロモ
ンの愚かさ、不義をあえて聖書に載せることを許されたのは、今日の我々が「主と自分の一対
一で交わる関係」(すなわち、主とつながり続けること)「主と共に歩む」こと、「主を愛する」
とができるようになるための我々に対する教えとするためではないだろうか。 そこに神のあわ
れみを感じる。 このあわれみ深い神の恵みを無駄にすることがないようにしたいものである。 
そのためにも信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、主の御前にへり
くだって祈り、キリストとの交わりを深くしていきたいものである。(へブル12:2)
 
★旧約聖書 イザヤ書 66:2
   これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御
   告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく
   者だ。
 



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