めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年2月1日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<山あり谷ありの「谷の時」の歩みについて:アブラハムの13年間から思考 >



★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28〜30
   神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
   のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
   なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ
   定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
   神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々
   にはさらに栄光をお与えになりました。
 
旧約聖書に登場してくる神が「良し」とされた多くの人物は山あり谷あり」の歩みをしてい
る。 人によっては、「波乱万丈」というほど厳しい歩みを体験している者もいる。 今日、真に
主を信じる者たちが歩む道も、やはり「山あり谷あり」がある。 その「山あり谷あり」の波のパ
ターンは人によって、まちまちである。 大きい「山あり谷あり」が一度だけの者から、小さい
「山あり谷あり」を何回か繰り返す者、大きい「山あり谷あり」が何度かある者と様々である。 
また、「山の時」「谷の時」の期間の長さも人によって、まちまちである。 神が、一人一人に
応じて決めておられるようである。 
 
その中で、我々人、ことにクリスチャンにとって苦しむのは「谷の時」である。 「山の時」にも苦
しみはあったとしても、普通に生活する上での、いわば霊的なことに関係なく、差支えもない苦
しみであることが多い。 しかし、「谷の時」の苦しみは、「自我」の砕き、「肉」生まれながらの
性質)の切り取られという、「霊」「信仰」の成長にかかわることがほとんどで、その苦しみは
「言葉」ではうまく表現できないようなものも多い。 いずれにしても「谷の時」に、どのように歩
んだらよいのかを聖書から、知っていくことは重要なことであるので、旧約のアブラハムから少
し思考してみる。 
 
アブラハムの場合、神からの一方的な神の恵みである「主のことば」をいただいていた。 アブ
ラハムは、アブラハムに土地が与えられること、子孫が祝福されること、アブラハムを通して万
民が祝福されることの「ことば」を神から語られていた。 「ことば」が語られてから10年ほど
経っても一向に「ことば」通りにならないので、いつの間にか、高齢のサライには、子を産むこと
は無理だという、肉的な「思い」「考え」が彼らの心に据えられていたと考えられる。 このとき、
アブラム85歳、サライ75歳であった。 「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継
がなければならない。(創世記14:4)」と主はアブラハムに語られていたが、アブラハムは、サ
ライの意向もあって、若い女奴隷ハガルによって子ども(イシュマエル)を儲けてしまった。 
「主のことば」に対する「純粋な信仰」とは言えない。 
 
神はそのときから約13年間、アブラハムに現われておられないようである。 この13年間はア
ブラハムにとって「谷の時」になったと思うが、この期間のことについて、聖書には何も書かれ
ていない。 推測ではあるが、もし神がアブラハムに何か語られていたとしても、神のご計画
中の重要なこと、取り立てて聖書に記述されるような出来事や「主のことば」へ直接つながるこ
とは何も語られなかったのかもしれない。 また、もしかしたら、この期間は、アブラハムは神と
の親しい交わりがなされていなかったということもあり得るかもしれない。 いずれにしても前後
聖書のみことばにより、アブラハムが、どのように過ごし歩んだかを推測できる。 案外、そ
の期間のことは、主を信じる我々の今後の歩みにとって学ぶことがあるのではないだろうか。
 
また、「谷の時」になるのは、何がきっかけになるのかは人によって、また、その時その時に
よって皆違う。 ただ、わかることは、主を真に信じる者にとっては、神のご計画の中にあるか
「谷の時」を体験するということである。 アブラハムの場合は、「神のことば」をいただいた
が、現状、状況を見て、肉の判断で「神のことば」の成就を手助けしようとしたことである。
 
いずれにしても、この13年間は、アブラハムにとって「谷の時」の一つであったと思われるが、
この期間に、アブラハムは神から与えられた「ことば」を見つめ、同時に自分を見つめるという
静かな生活をしていた可能性がある。 そのような生活の中で、「自我」が砕かれ、「肉」が切り
取られて、整えられていったのではないだろうか。 アブラハムは、「主のことば」広さ、長さ、
高さ、深さがどれほどであるか悟ったのではないだろうか。 アブラハムが「信仰の父」と呼
ばれるために、神が求めておられることは、「全面的に主に信頼する」ことである。 
 
そのことは、13年経ったときにアブラハムに見受けられるようになったと推測できる。 なぜな
ら、13年後のアブラムが99歳、サライが89歳のとき、再び神がアブラムに現われ最初に語られ
たことばが、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。(創世記
17:1)」だったからである。 「全き者」とは、「神を信頼することにおいて完全であれ」「神に信
頼しきれ」、ということである。 「神を信頼することにおいて完全である」ことができない者に、
このような「ことば」語られないだろう。 13年間で、アブラハムは神から見られると、「神に信
頼しきる」ことができる者に変えられたということである。 自分の大失敗からの「谷の時」
あっても、神はその時さえ、見捨てず懲らしめを与えられたと思われる。 アブラハムは、神の
懲らしめをないがしろにしなかったということであろう。(箴言3:11) だから、13年経った後、神
は、アブラムという名前を、「アブラハム(多くの人々の父)サライという名前を「サラ(王女)」
に変えるよう命じられたのだと思われる。
 
こうしてみると、聖書に何の記述もない13年間も、主はアブラハムとともにおられたと思われ
る。 アブラハムをじっと見守っておられたと思われる。 アブラハムも一旦語られた「主のこと
ば」が成就されることをあきらめることなく、絶えず「ことば」に返っていたと推測できる。 聖書
に記述されるような何の目立った働き「信仰」のあらわれもなく皆と変わらない普通の生活を
しながら、心は絶えず「主と主のことば」に焦点を合わせていたと思われる。 自分の愚かさを
悔い改め、悔い改めた後は、いつまでも、クヨクヨせず、思い詰めて自分だけを見るのではな
く、主なる神を見ながら、主が動かれるときを待っていたのではないだろうか。 そのような者
であることを神はご存知だったから、アブラハムを選ばれたのだろう。 このことは、聖書に登
場してくる神が「良し」とされる者たちに共通するところである。 主すべての人の心を知って
おられるからである。(使徒1:24、詩編139:2)
 
アブラハムは、この13年間という「谷の時」があったからこそ、その後にきた最大の試練、すな
わち、与えられた約束の子「イサクを全焼のいけにえとして神にささげよ」という「神のことば」
素直に応答することができたと思われる。 聖書に記述されていない13年間さえ、神は無駄に
しておられなかったということである。  
 
それでは、我々はどうなのか、というとき、結局、神は人の心の奥を見られているということで
ある。 今、自分は神に対して、どうであるのか、すなわち正しい位置にいるのかどうかを落ち
着いて祈りつつ吟味してみることは大切なことである。 我々真に主を信じる者たちの中で「谷
の時」を歩んでいる者たち、「山の時」を歩んでいる者たち、それらの中間の平穏な時を歩んで
いる者たちは、何気ない日々の生活の中での「自分」を吟味してみることは必要なことであろ
う。(Uコリント13:5) 神は、我々の大きいことから小さいことまで、大きな出来事から小さな日
常のことまで何一つ無下にされない。 人は、どのような時でも何かしらを考え思っているもの
である。 その一つ一つの「思い」「考え」が主に喜ばれるようになりたいものである。 そして、
「主が我々とともにおられるように」またそのことに日々の生活の中で気づくようにと願う。
 
★新約聖書(口語訳) コリント人への手紙 第二 5:9
   そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主
   に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
 
★新約聖書 テモテの手紙 第二 4:22
   主があなたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように。
 





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