めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年2月8日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<谷の時から山の時が来るのは、突然に来るということは、往々にしてあることだ >



★新約聖書    ヨハネによる福音書  6:63
   いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに
   話したことばは、霊であり、またいのちです。
 
★新約聖書    ヨハネによる福音書  3:27
        ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはでき
   ません。  
 
★新約聖書    ヨハネによる福音書 3:10、12、13 
   あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。...あなた
   がたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、
   どうして信じるでしょう。 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいま
   す。すなわち人の子です。
 
●主を信じ、主に喜ばれる者になりたいと願う者、主に従っていきたいと望む者一人一人に
は、神の方が、ご自身の「子」として取り扱われるために、「山あり谷あり」を通ること、特に「谷
の時」を通ることを先週、先々週の「めんどり通信」で書いてきたが、「谷の時」から「山の時」
の移行について思考してみる。 
 
ヨセフの場合、「谷の時」聖書に明確に書かれているので、見直してみる。 17歳のとき、2つ
の夢を見た。 ヨセフの麦束の回りに兄たちの麦の束が来て、おじぎをしたという夢。 太陽と
月と十一の星がヨセフを拝んでいるという夢。 ヨセフが兄たちを支配し、両親も兄たちもヨセ
フにひれ伏すという意味のこの夢は、「神の啓示」すなわち「神のことば」だった。 ヨセフは、
そのように受け取っていたと思われる。 しかし、ヨセフは、それらの夢を聞いた兄たちの反感
を買い、兄たちによって奴隷として売られ、エジプトへ連れて行かれた。  ヨセフの「谷の時」
の始まりである。 
 
「谷の時」であったが、「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり」エジプト人の
主人の信頼を得て、主人の全財産を管理するようになり、奴隷としては待遇が良かったようで
ある。(創世記39:2) しかし、それでも、やはりエジプトの奴隷は奴隷である。 自由の身とは
違う。 数年経った頃、主人ポティファルの妻がヨセフを何度も誘惑し、その度ヨセフが拒むと
遂にヨセフを強姦未遂で訴え、釈明する機会も与えられず無実の罪で投獄された。 「谷の
時」は続く。  
 
監獄の中でも、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされ
た。 ここでも奴隷にしては待遇がよい。 それでも、やはり奴隷は奴隷である。 自由の身と
は違う。 その後、パロのもとに仕えていた献酌官と調理官がヨセフと同じ監獄に入ってきた。 
ヨセフは彼らの付き人にされたことによって、彼らがそれぞれ見た夢の解き明かしをすること
になった。 そして、夢の通りになり、解放され、もとの務めに戻された献酌官に、自分のことを
パロに話して、解放されるようにと頼んだが、献酌官はヨセフのことを忘れてしまった。 2年後
に監獄から出ることができ、パロが見た夢の解き明かしをしてエジプトの大臣になった。 この
時、「谷の時」を脱した。 30歳であった。
 
17歳で夢によって「神のことば」を与えられ、13年経った。 13年間の「谷の時」脱出は、「谷
底」から「山の時」に向かって、徐々に上っていったわけではない。 主のあわれみにより、奴
隷にしては待遇がよかったとはいえ、ヨセフにとっては、不自由な奴隷生活には変わりはな
かった。 「ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」という言葉から伺え
る。(創世記40:15) 主人に信頼されて、不自由ながらも何とか「主のことば」に向かって進み
だしたと思っていただろうに、監獄に入ってしまった。 その上、夢の解き明かしをして、その通
りになり、もうすぐ解放されると期待していだろうに、2年間も忘れられていたのである。 「谷の
時」というより「谷底」の気分だったかもしれない。 
 
しかし、「谷の時」「谷底」から、一気に浮上するときが来た。 「主の時」が来たからである。 
パロが夢を見たことも、だれもその夢の解き明かしができなかったことも偶然ではない。 ま
た、献酌官長が、そのとき、ヨセフに夢の解き明かしをしてもらって、その通りになったことを思
い出したことも偶然ではない。 すべて、主がご計画されていたことであり、「主が定めておられ
た時」が来たゆえに、主が目に見えるように動かれたということである。 現状が、「主のこと
ば」の完了に向かって進んでいるとは思われず、むしろ後退しているようであったとしても、「主
の時」が来れば、逆転するのである。 
 
13年間と言えば、アブラハムが「神のことば」を肉からの行いで手助けしたという大失敗をして
以降、神が顕現されず、再び神が顕現されるまでの期間、聖書にアブラハムの様子が書かれ
ていない期間と同じである。(めんどり通信/2015年2月1日参照) また、その期間は、アブラハ
ムとサラが、肉の子イシュマエルを育てる期間でもあった。 アブラハムは、肉の子イシュマエ
ルを育てていけばいくほど、「神のことば」に対する自分の愚かさを思い知ったかもしれない。 
そのようなことが、普通の生活をしながらも、アブラハムの自我が砕かれ、が切り取られるこ
とにつながっていったと思われる。 アブラハム自身は、決して現状的には進んだと思っていな
かったかもしれない。 しかしアブラハムは「神のことば」を真摯に受け取っていたと思われる。 
 
神がそれらのことを、すべてご存知だったので、主がご計画されていた「主の時」に、主はアブ
ラハムに顕現された。 そして、それまで名乗っていた名まえアブラムを「アブラハム(多くの
人々の父)」に、サライを「サラ(王女)」に改名するように命じられたのだと思われる。 また、
肉のものは、神のご計画とは何の関係もないことを13年間のことを記述していないことで我々
に教えてくださっているのかもしれない。 ちなみに、ユダヤでは男の子は13歳で大人の仲間
入りをする。 そのように見ると、神はイシュマエルに対してもあわれみを施してくださっている
ようである。 
 
ヨセフもアブラハムも、苦しい「谷の時」を通ることで、自我は砕かれ、が切り落とされたと、
彼ら自身は、そのようには思っていなかったかもしれない。 また、現状は、何ら変化もなく進
んだように見受けられなくて、むしろ「神のことば」からは遠ざかっているように思えたかもしれ
ない。 だととしても、「霊の世界」では、彼らは大いに変えられている。 だから、ある意味、表
面的には突然、「谷の時」から引き上げられたように見えても、実は「霊」「霊の世界」では、
着実に準備されていたということである。 だから、突然、「山の時」に移行されるようになって
も、高ぶることなく、有頂天になることもなく、へりくだることができたのだと思われる。
 
このように見てみると、表面上、何の変化も動きもなく、「谷の時」の状態が続いているように見
えていても、「霊の世界」では大いに進んでいたということがあるということだ。 「霊の世界」
起きたことは 「主の時」が来れば、我々が目に見える現実という形で必ずあらわれる。 イエ
スは「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ福6:63)」と言
われ、「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。(ヨハネ福3:6)」と言われ
た。 主が語られる「ことば」すなわち「霊のことば」「いのちのことば」を心の奥底、我々の
心の深いところ、すなわち「霊」の中に受け入れることができるなら、そのときには「自我」が砕
かれ、「肉」が切り取られて、前進しているであろう。 
 
なぜなら、自分の思い、考え、感情、・・自分を捨てなければ、主が語られる「霊のことば」「い
のちのことば」を受け入れることなどできないからだ。 そして、「霊のことば」「いのちのこと
ば」を受け入れた者は、必ず、「主の時」が来れば、現実にその実際を見ることができる。 だ
から、たとえ今、「谷の時」それも「谷底」を歩んでいて、一向に事体はよくならない、「主のこ
とば」「主のみこころ」と正反対のような現状が続いている、むしろ「主のことば」が反故にされ
たかのような状態になっていたとしても、あきらめるのではない。 表面上だけではわからない
からだ。 心から主の御前にへりくだって、主が語られる「霊のことば」「いのちのことば」にへ
りくだり、「自分」より、「主と主のことば」を選んで受け入れようとしている者たちのために、主
は今もなお働いておられる。(ヨハネ福5:17) 主が定められた日が来れば逆転劇が起きる! 
主が定められた日が来れば、突然に事態が変わる、一気に浮上する。 いずれにしても、そ
のような「主の時」はよいものである。 その「主の時」が速やかに来るように祈りつつ待ちたい
ものである。 
 
★新約聖書 テサロニケ人への手紙 3:5
   どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいます
   ように。
 





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