めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年1月12日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<いのちの日の限り、しっかり主にとどまり続ける、堅く主につながり続ける>



★旧約聖書 詩篇 27:4
   私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家
   に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:4,5
   わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木につ
   いていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしに
   とどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
   わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の
   中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたが
   たは何もすることができないからです。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:23
   イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そ
   うすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人ととも
   に住みます。
 
聖書のテーマは、旧約から新約まで、すべて一貫している。ひとことで言うなら「イエス・キリ
スト」のことが書かれている。 旧約聖書には、キリストに関する預言と、神と神の民イスラエル
が結んだ契約やイスラエルの民の歴史などが書かれている。 新約聖書には、旧約で預言さ
れていた「イエス・キリスト」がこの地上に人を救うために来られ、キリストの語られた「ことば」、
「教え」、「十字架の死と復活」、初代教会の記録、使徒たちの手紙などが書かれている。
 
旧約のポイントは、モーセの律法を欠けなく守るならば、永遠のいのちを受け継ぐという神と人
(イスラエル人)の契約である。 しかし、旧約時代、誰もこの律法を欠けなく守れた者はいな
かった。 それでイエス・キリストがこの地上に「人を購う」ため、「人を救う」ために来て下さっ
た。 そして、新約のポイントは、イエスが言われた「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ
…」である。(ヨハネ福3:36)
 
旧約時代、イスラエル人たちが取り組まなければならなかったことは、神の戒めを守り行うこと
だった。 そもそも律法が与えられたのは、神が人に望まれている基準を示すため、人が自分
の力では律法を守れない罪人であることを自覚させるためだった。 律法は私たちをキリスト
へ導くための私たちの養育係である。(ガラテヤ人3:24)  だから養育係に心から従おうとする
態度が大切だったが、イスラエルの民の律法を守ることへの取り組みは、甘く、単なる失敗を
繰り返したというのではなく、反逆の繰り返しだった。 そこがイスラエルの問題である。
 
イスラエル人ができなかったことをイエス・キリストは成し遂げてくださった。 「わたしが来たの
は律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就する
ために来たのです。(マタイ5:17)」と言われた。
 
そして新約時代、イエスは公生涯で弟子たちに特に言われたボイントは、「キリストにとどまる
こと」、それも「とどまり続けること」である。 「キリストにとどまる」ためには、まずイエス・キリス
トを信じ受け入れる必要がある。 「…御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の
いのちを持つためである。(ヨハネ福3:16)」と主は言われたが、この「信じる」は、一部分を信
じるとか自分が納得できる範囲を信じる、というのではない。 「キリストの肉を食べ、キリスト
の血を飲む」という「信じる」である。(ヨハネ福6章〉 すなわち、全面的に信じ受け入れる。 
自分の意見、考え、思いより「主のみこころ」を優先する。 自分のいのちまで捨てるほどの
「信じる」である。 「自分のいのちを捨てる」というとき、それは自分の計画やプライド、自分
が決めている目標、生き方などの大きなことから、日々の生活の小さなことにおいてまで、
全て主に介入していただき、「主と主のことば」を最優先するということである。
 
さて、イエスが強調して言われたことは「主にとどまり続けること」「主につながり続けること」
であったが、それは「主にとどまり続ける者」「主につながり続ける者」こそが、真に主に従う
ことができるからだ。 そして、そのような者が、深い「主のみこころ」を知ることができるから
だ。 だから、そのことを「妨げる」、その人にとっての「古き」が実際に終わるということは、とて
も大切なことである。(めんどり通信/2014年1月5日参照) イエスは、七十人の者たちを遣わ
されたとき、帰って来た七十人が、御名によって、悪霊どもを服従させるという働きをして喜ん
でいると、「霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたが
たの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」と言われた。(ルカ10章) 
 
主は「主の働き」よりも主にとどまり続けていたか」「主につながり続けていたか」を重要
視される。 「主にとどまり続けている者」「主につながり続けている者」が、天に名が書きしる
される。 また、主イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国には
いるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」と言われ
た。(マタイ7:21) この「主よ、主よ。」と言った者たちは、主の御名によって預言をし、御名に
よって悪霊を追い出し、御名によって奇跡を多く行なった者たちである。 一般的に教会でいう
「主の働き」をしている者達である。 それも結構、大きな働きをしている者たちである。 
 
しかし、主は、この大ぜいの者たちに「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ど
も。わたしから離れて行け。」と宣告されると言われた。(マタイ7:23) 通常、教会やキリスト者
(クリスチャン)が認める「主の働き」をしたという結果オーライではいけないようである。 「主に
とどまり続けること」「主につながり続けること」が、いかに重要であるかがわかる。 「主にと
どまり続けること」「主につながり続けること」は、いわばダビデが熱望したいのちの日の限
り、主と共に住む」「主の家に住む」ことである。詩篇27:4)
 
どこかの教会に所属しているから、教会できちんと奉仕しているから、日曜礼拝を休まず守っ
ているから、聖書を持って読んでいるから、キリストにつながっているとは言えない。 もちろ
ん、これらのことは大切なことではあるが、それでも 「主にとどまっている」「主につながって
いる」ことの保証にはならない。 主は、我々に、外側の形ではなく主のみこころ」「主のお
気持ち」を知ってほしいと願っておられる。
 
いずれにしても、主が重要視されたこと。 すなわち、しっかり「主にとどまり続けること」「主
につながり続けること」を、我々も重要視していきたいものである。 そのためにも、日々、信仰
の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、十字架のもとに自分を置き、神に
依り頼むことをしていきたいものである。 「主と主のことば」の御前にへりくだること、絶えず主
に祈ることに取り組み、キリストとの交わりを深くしていき、「主のお気持ち」、「主のみこころ」
がわかる者になり、主の喜ばれる者になりたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 84:1-4
   万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭
   を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌いま
   す。・・・万軍の主。私の王、私の神よ。なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人た
   ちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。
 



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