めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年1月5日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<古きが終わり、新しくなる。古きの終わり方は人によって様々である>



★新約聖書  コリント人への手紙 第二  5:17
       だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去っ
   て、見よ、すべてが新しくなりました。
 
★新約聖書 コロサイ人への手紙 3:9,10
   あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新
   しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
 
●2014年に入った。 新しい年に入ったということをきっかけに、気持ちを入れ替え、気分を変
えるという、いわば心機一転の歩みをしていきたいものである。 ただ、そのように心がけ、進も
うとしても、現実は、なかなか難しいものである。 「新しい」ということは、「古い」「古き」が終
わったということであるが、自分のうちに脈々と「古き」が生きて躍動している現実を見ることが
ある。  第二コリント人への手紙5章17節には、キリストを信じてキリストのうちにあるなら、「古
き」は過ぎ去って、すべてが「新しくなった」と書かれているが、この「みことば」の実際をどれほ
どの者が体得しているだろうか。
 
なぜ「古い」「古き」「古きもの」は過ぎ去っていかなければならないのか。 ひと言で言うなら、
「キリストにとどまり続ける」「主に従って行く」、「主に仕える」において「妨げ」となるからだ。 
また、「古い」「古き」が自分の内にあると「新しいもの」を受け入れることを難しくするからだ。 
だから、「妨げ」となる「古い」「古き」「古きもの」は過ぎ去らなければならない。 このことにつ
いて、イエスは、古い着物と真新しい布切れのたとえで語られた。(マタイ9:16、マルコ2:21,2
2) 当時、イエスが公にキリストとして立たれ、「神の国のことば」を語られたが、それは人々が
驚くほどの「権威ある新しい教え」だった。(マルコ1:27) その上、多くのしるしを行なわれた。 
それでもパリサイ人、律法学者たちは、「古い物は良い」と言って、新しいイエスの教えを受け
入れなかった。(ルカ5:39) そればかりか、ねたみからイエスを殺そうと企て、群集を扇動し、
十字架につけた。 
 
パウロは、コリントの人たちに「あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが
肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。(Tコリント3:3)」と言って
いるが、「古い」「古き」とは、肉(生まれながらの性質)からの思い、願い、考えとも言えよう。 
いわば、「肉の人」とは、自分の思いを優先する者、自分中心の生き方をする者、すなわちキ
リストを受け入れる前と同じ原理に従って生きている者である。 いくらイエス・キリストを信じ受
け入れたとしても、自分の思いや願いを遂げようとし、自分の計画を推し進めようとしている者
たちは、「肉の人」であり、「古い人」である。 
 
ローマ人への手紙 8章7節には、「肉の思いは神に対して反抗するもの」と書かれている。 イ
エス・キリストを信じた後でも、「御霊に属する人」「肉に属する人」の2種類のキリスト者(クリ
スチャン)がいるということである。(Tコリント3:1) 肉では、神が与えようと望まれている「神
の恵み」を受け取ることができないばかりか、「わたしは道である(ヨハネ福14:6)」と言われ
「イエス・キリストの道」「真理の道」から外れてしまう可能性がある。 「キリストの道」から外
れては、神のおられる所、天の御国にたどり着くことができない。 ただ、そうは言っても、人と
いうものは、往々にして簡単に「キリストの道」から外れてしまうような、ある意味、弱い者であ
る。 自我や肉は、人によって強い弱いの差はあったとしても、すべての者にある。 イエス・キ
リストを信じ救われて、「古きは過ぎ去った」と聖書には書かれていると言ったとしても、現実
は、日々の生活の中で自我や肉が心の内から台頭してくる。 
 
しかし、それでも「イエス・キリストの道」「主の道」を歩み続けたいと主に拠り頼み、尋ね求め、
祈り求めている者を主は、決してお見捨てにはならない。(詩篇9:10)  主は、求める者に、
どのように具体的に取り組めばよいのかを聖書や出来事、牧会者や人を通して教えてくださる
であろう。 そして、真剣に主に求める者の自我を砕き、肉を切り取って、「主の道」を右にも左
にも曲がらず、まっすぐ進めるように導いてくださるであろう。 ただ、主は、 教えられた人がそ
のことに対して、どう取り組んでいるのかの態度を見ておられるように思われる。
 
また、「古い」「古き」「古きもの」は、肉(生まれながらの性質)からの思い、願い、考えだけでな
く、「キリストにとどまり続ける」「主に従って行く」「主に仕える」において「妨げ」になるという
観点からすると他にもあると思われる。 一人一人にとっての「古き」は違う。  ある者にとって
「妨げ」となる「古き」は、自我であり、肉である。 ある者にとっての「古き」は、病であった
り、悪しき霊であったりなど…いろいろである。  自我が砕かれることも肉が切り取られること
も、一人一人、その度合いや深さは違う。 神が、一人一人に応じて決めておられる砕きや切
り取りがなされたとき、「古きは終わった。すべてが新しくなった。」と感じるであろう。
 
「古き」の終わり方については、みことば通り、キリストによってであるが、実際の終わり方も人
によって様々である。 パウロの場合は、主と不思議な出会いをし、目からうろこのような物が
落ちて、目が見えるようになったとき、「古き」が終わったと思われる。(使徒9章) 救われたと
同時に 「主に仕える」において「妨げ」となっていた「古き」が過ぎ去り、「新しくなった」ことが顕
著にあらわれている。 それまでクリスチャンを激しく迫害していたパウロが、救われるとただ
ちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めたほどに激変した。(使徒9:20) た
だ、多くの場合、救われた後、信仰生活をする過程の中で このことを体験、体得することが多
いと思われる。  
 
エリコの町で物乞いをしていた盲人バルテマイにとっての「古き」は、目が見えなかったことで
ある。 当時、中東では、大気が乾燥し、砂漠特有の砂ぼこりが舞い上がって、目の病気が多
かったという。 バルテマイが生まれつき盲人なのか、生まれた後、病で盲人になったのかは
わからないが、いずれにしても、イエスに癒され見えるようになった。  彼の「古き」は終わっ
たのである。 「新しくなった」バルテマイはイエスに従って行った。(マルコ10:46-52)  マルコ
5章、ルカ8章、マタイ8章に登場してくる墓場に住んでいた男にとっての「古き」は、悪霊につか
れていたことである。 主に悪霊を追い出していただいて、「お供をしたいとしきりに願った」。 
そして、「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせな
さい。」とある意味、主からの務めをいただいた。(めんどり通信/2013年1月27日参照)バル
テマイはいやされて主に従えるようになった。 墓場の男は、悪霊を追い出していただいて、生
き方が顕著に変わった。(マルコ5:1-20) このように、「主に従って行く」「主に仕える」のに
妨げる「古き」は、様々である。
 
盲人バルテマイも墓場に住んでいた男も、彼らにとっての「古き」が終わることによって、彼ら
の自我や、肉が切り取られたのではないかと思われる。 すなわち、目が見えないという病が
いやされたこと、悪霊が追い出されるという奇蹟が起こったことによって、それまで彼らが、も
がき苦しんできた苦しみが彼らの自我を砕き、肉を切り取る要素になったのではないだろう
か。 彼らのようなことはあり得ることだと思われる。  もちろん、彼らが完全に自我が砕か
れ、肉が切り取られて、完全な者となったわけではない。 新しい生き方に進むうち、まだまだ
残っている肉が切り取られていき自我は砕かれていくであろう。
 
人が完全に自我が砕かれ、肉が切り取られるためには、長い期間が必要である。 瞬時に、
「古き」が過ぎ去って「新しくなった」のパウロでさえ、晩年に「わたしがすでにそれを得たと
か、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているので
ある。(ピリピ3:12)」と言っている。 また、イエス・キリストを信じたとき、「私たちの古い人がキ
リストとともに十字架につけられた・・・(ローマ6:6)」のとおり、キリスト者(クリスチャン)は、キ
リストと共に十字架につけられて確かに「古き」は終わったと書かれているが、そのことが実
際、自分のものとして体得しなければ、新しく変わったことを感じることができないだろう。 新
しく変わったならば、新しい「思い」、「考え」となり、新しい生きる目標、すなわち「キリスト・イエ
スにおいて上に召してくださる神の栄冠」を握ることができるであろう。 そして、しっかりとキリ
ストにつながり続けたい、主に仕えたいと日々の生活の目標が変わってくる。 
  
いずれにしても、今年は、「キリストにとどまり続ける」「主に従って行く」「主に仕える」におい
「妨げ」となる「古き」が完全に終わることを願っていきたいものである。 「古き」が終わった
ことを体得している者は、「しっかりと主にとどまり続け」、「堅くキリストにつながり続け」て、
に従い、仕えていきたいものである。 そして、ますますキリストとの交わりを深くしっかりとし
ていき、新しい聖霊の流れに乗って、主の喜ばれる者になりたいものである。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 6:4
   私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
   それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、
   いのちにあって新しい歩みをするためです。
  



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