めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年1月13日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<神を「恐れる」ことについて>



★新約聖書 ルカによる福音書 12:4、5
   そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何
   もできない人間たちを恐れてはいけません。 恐れなければならない方を、あなたがたに
   教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさ
   い。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
 
★旧約聖書 箴言 9:10
   主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。
 
旧約聖書 箴言 11:2
   高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。
 
●「恐れる」というこばには、2つの意味あいがある。 一つは「危害が及ぶことを心配してびく
びくする。よくないことが起こるのではないかとこわがる気持ち。恐怖。不安。」ということ、もう
一つは「畏れ(おそれ)。おそれかしこまること。敬い、かしこまる気持ち。」である。 人が神に
対して「恐れる」ことは、この2つのどちらも持ち合わせておくことが必要であろうと思われる。 
聖書のなかで、この両方を持ち合わせた人がいる。 アブラハム、モーセ、ヨブ、ダビデ、・・・な
ど多々。 彼らは、「神を畏れる」だけでなく、神の力、最高の権威に対して、「恐ろしい」と感じ
ていたと思われる。 モーセは「神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。(出3:6)」とある。 ま
た、神ご自身が、人が神に対して「恐ろしい」と感じることを良しとしておられる。(出エジプト記2
0:20) ただ、片方だけでは、人が神から離れてしまう可能性が多いと思われる。
 
その例として、出エジプトしたイスラエルの民である。 出エジプト記19章に記されているが、モ
ーセは神から律法を与えられた。 そして、モーセはイスラエルの民の長老たちを呼び寄せ、
主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。 すると民はみな口をそろえて答え
た。 「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」と。出エジプト記19:7、8) それか
ら、イスラエルの民は、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃すると、たじろぎ、遠く離れ
て立った。 そしてモーセに「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、
神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」と言った。(出エジプ
ト記20:18、19) イスラエルの民は、十戒を聞き、暗黒の中からのその御声を聞き、またその
山が火で燃えていたとき、明らかに神を恐れた。(申命記5:23) それは恐怖といえる「恐れ」で
あったと思われる。 もちろん、この「こわがる」「恐ろしい」という心を主は「良し」とされていたこ
とが、モーセが民に、「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなの
です。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」というこ
とばから伺える。(出エジプト記20:20)
 
ただ、このイスラエルの民には、神に対して畏敬の念からの「恐れ」は薄いか、もしくはなかっ
たように思われる。 なぜなら、出エジプト記などで、イスラエルの民の言動をみると、神に対
して「畏敬の念」を抱いていないと思われる場面が多いからだ。 イスラエルの民は、エジプトへ
の裁きの中で、彼らは守られたり、紅海を渡ったりなど、あれほどの奇蹟を見ても、体験しても
自分たちの気分、都合で、すぐに偶像礼拝に走った。 また、「・・まことにわたしの声に聞き従
い、わたしの契約を守るなら、・・・」という語りかけに対して、「聞き従います。」と答えるべきで
あるところを、「・・みな行ないます。」と言ったところからも伺える。 出エジプトしたイスラエル
人たちが偶像礼拝に走っていった原因の大きな一つに、「神を畏怖する」心がなかったからで
あると言えよう。 
 
また、主を裏切った新約のイスラエルの民、群衆の場合、主イエスがみわざを現されるたび、
彼らはイスラエルの神をあがめた。 ルカによる福音書7:16には、「人々は恐れを抱き、「大預
言者が私たちのうちに現われた。」とか、「神がその民を顧みてくださった。」などと言って、神
をあがめた。」と書かれている。 軽い次元にせよ、神に対する「畏れ」はあったように思われ
る。 しかし、福音書を見ると、彼らには、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる神に対する
「恐れ」、「こわがる気持ち」が薄かったのではないだろうか。 だから、パリサイ人や律法学者
のたくらみに、ほいほいと乗ってしまい、「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。」
と言ったのもつかの間、イエスを「十字架につけよ。」と激しく叫び、主を裏切ったのではないだ
ろうか。
 
このように、片方だけであるなら、何かあったとき、ともすれば、人はすぐに主なる神から離れ
る可能性がある。 また、この2つの面を両方ともバランスよく持ち合わせることについては、い
ろいろな過程、方法があると思われる。 それは、神のご計画により、神のあわれみがその人
に示されて持ち合わせることができたり、自我が砕かれることにより、持ち合わせることができ
るということもある。 一人一人に応じて、主が取り扱ってくださると思われる。 いずれにして
も、我々は「神を恐れる」というとき、この2つの面をしっかりと持ち合わせていることが、「主を
恐れる」「神を恐れる」ことになり、神の御前に「へりくだる」ことになる。 そうすると、何があっ
ても、主なる神から離れることがないであろう。 
 
著者の体験。 主イエス・キリストを信じてそれほど時間がたっていなかった頃、約30年前のこ
と。 ある日、夢を見た。 著者は今まで、夢で主から何かを教えられるということは後にも先
にもこの時のみである。 その夢は芥川龍之介の「蜘蛛(くも)の糸」という話しに似ていた。 
著者がどこかの穴に落ち込んでいた。 ふとまわりを見ると壁一面、蛆虫(うじむし)が、うごめ
いていた。 ヒエーと途端に気持ち悪さと恐ろしさでパニックになった。 すると、細い1本の糸
が垂れてきた。 必死にその糸にしがみついた。 周りに人の気配はなかった。 ただ一人、
必死にその糸にしがみついてもがくように上ろうとした。 しかし、一向に上れない。 恐怖だ
けがこれでもか、というほど襲ってきたところで、目が覚めた。 汗びっしょりだった。 そのとき
思った。 「これはいかん。神はおられる。地獄へ行かすこともそこから引き上げることもできる
のは、神だけだ。」 このとき、著者の心の奥深くに、主の方が、主に対する両方の「恐れ」を刻
み込んでくださったと、だいぶ後になってわかり、主をほめたたえ感謝したことがある。
 
それから15,6年経って、その教会を離れたとき、いろいろなことがあって、著者はクリスチャン
不信、教会不信、人間不信になっていた。 ある日、内面の奥に働く思い、自分の思いではな
く、明らかに悪しき霊からの語りかけのような思いが出てきた。 「おまえは生きるに値しない
者だ。滅んで当然の者だ。キリストに嫌われている。(以前に所属していた教会の牧師に教会
を離れる前に言われたことばをつかってきたようだった。) そのとき、著者も納得しそうになっ
た。 しかし、思いが闇の方へ引っ張られるような感じが強かったが、その思いを振り切り、
「私が滅びることは主の御心ではない。」と口で叫んだ。 著者が二つに引き千切られるのでは
ないかと思えるほど激しかったのを今でも鮮明に覚えている。 そのとき、誰かが、著者の口
のことばを握って引き上げてくださったように感じた。 それは主であったとすぐにわかり感謝し
たことを覚えている。 
 
最近、そのことを思い出しながらつくづく想った。 あのとき、著者の信仰や霊が強かったわけ
ではない。 著者が、主なる神に対して「畏れる。おそれかしこまること」と「こわがる」「恐ろし
い」という両方の神を「恐れる」という面を主の方が、著者の中に刻み込んでくださっていたか
ら、あのような状態の中でも、「私が滅びることは主の御心ではない。」と言えたんだと。 もし、
その告白ができていなかったなら、自殺こそしなかったと思うが、主から離れて他の道を歩ん
でいたと思う。 その後も、何があっても この主なる神イエス・キリストから離れることがなく今
日に至っている。 ますます、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、
主を「畏れ、恐れ」ていく歩みをしていきたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 33:18
   見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。
 



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