めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年9月22日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主の良きご計画の中、主の御手の中にある者は幸いである>



★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28
   神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
   のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
 
★旧約聖書 箴言 16:20
 みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。
 
●イエスは、12弟子たちの中で、ペテロと呼ばれるシモンとゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨ
ハネの3人を、重要なときには、ご自分のそばに引き寄せられた。 会堂司ヤイロの娘を生き
返らせたとき(マルコ5:37、ルカ8:51)、ゲツセマネの園での祈りの時も、この三人だけを連れて
行かれた。(マルコ14:33)  また、3人だけを連れて高い山に登られたとき、彼らの目の前で、
御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。(マタイ17:1、2)   イエ
スの神としての本質、栄光が顕現された瞬間を3人は目撃した。 それだけでなく、旧約聖書の
登場人物、律法を代表したモーセと預言者を代表したエリヤも現れて、イエスと語り合っていた
のを見た。 その上、イエスに対する「これは、わたしの愛する子」という、父なる神のみ声を聞
いた。(ルカ9:28-36)
 
イエスは何故、重要な場面になると、この3人だけを連れて行かれたのだろうか?  イエスは12
人をご自身の弟子、使徒として選ばれたが、その顔ぶれは、何の共通点もない種々雑多な人
たちであった。 主が12人を選ばれた理由は、マルコによる福音書3章13節によるなら、「ご自
身がお望みになった」であるが、具体的にはわからない。 深い「主のみこころ」「主のご計画」
があったと思われる。 あえて言うならパウロが言ったように「この世で身分の低い者や軽んじ
られている者、すなわち、無きに等しい者」だから選ばれたのであろう。(Tコリント1:28) い
わば、我々と同じである。 ただ、3人について共通点があるとすれば、漁師だったことである。 
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあ
げよう。」と。(マタイ4:19) 
 
また、もう一つ、共通点は、彼らには主なる神に対しての「へりくだり」が最初からあったことで
ある。 ルカによる福音書5:1-11に書かれている出来事。 イエスはペテロの舟に乗り込ん
で、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。 イエスは、すわって群集を教えられた後、シモンに、
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。 夜通し働いて何一つ獲れな
かったが、イエスのことばに従うと、おびただしい魚で網が破れ沈みそうになった。 助けに来
てもらった舟も同様、沈みかけそうになった。 この大漁を見たシモン・ペテロは、イエスの足も
とにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と
言った。 ルカ5章10節に 「シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであっ
た。」とこの場面で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の名前が書かれている。 このように聖書
は、この3人については、他の弟子たちのことより、ある程度詳しく書かれている。 
 
ペテロについては先週の「めんどり通信/2013年9月15日」に記されている。 12弟子の筆頭、
多くの失敗を見事に、主によって「益」にしていただいた者、「あなたは、生ける神の御子キリス
トです。(マタイ16:16)」と言える神の示しをいただいた者、土壇場のとき、主を「知らない」と主
を裏切った者、純粋、素直、リーダー的存在、・・・などである。 ヤコブとヨハネについては、イ
エスがこの二人に「雷の子」と名をつけられた。(マルコ3:17) 天に上げられる日が近づいて
来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、・・進んでおられたの
で、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。 そのとき、ヤコブとヨハネが、「主よ。私たちが
天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言ったことから、一般的に彼らは、気
性が激しいと言われている。 彼らは本当は気が弱いので、強がりを言ったのかもしれない
が、いずれにしても、ある面、性格の激しさがあるのだろう。 
 
このとき「イエスは振り向いて、彼らを戒められた」とあるが、この「戒められた」という言葉の
「叱りつける、叱責する」である。 かなり厳しい言い方をされたようである。 また、ヤコブ
とヨハネは、イエスに「栄光の座で、ひとりを主の右に、ひとりを左にすわらせてほしい」と願うこ
とにより、彼らがイエスの救いを地上的名誉レベルとしてしか受け取っていない軽さが見える。 
 
このような彼ら三人は、主イエスにより、叱責されたり、戒められたり・・など訓練を受けて、自
我が砕かれ、肉が切り取られて、変えられ整えられていった。 ペテロが、主を三度「知らな
い」と言って、主を裏切ったが、他の弟子たちも同様である。 イエスを捕らえに来たとき、弟子
たちみながイエスを見捨てて、逃げてしまったからである。(マルコ14:50) ヨハネは、「はだか
で逃げた」と記されている。 しかし、そのような彼らは、主イエスが昇天された後、聖霊が来ら
れてからも、ますます変えられながら主に用いられた。 そして彼らの最期は、主が「良し」とさ
れるものであった。 主のご計画通りだったのかもしれない。 ペテロは逆さ十字架で殉教し、
ヤコブは、12使徒の中では最初の殉教者となった。 ヨハネは、12使徒の中で唯一殉教せず、
終末にかかわる「ヨハネの黙示録」を書き、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」も書いた。
 
代表格3人だけでなく、他の弟子たちも、すでに人生の最期を迎えた人たちなので、最期まで
主の望まれる信仰を全うしたという結果から、「主の良きご計画の中にあった」「主の御手の中
にあった」ことを知ることができるが、人生の途上である我々は、どのようにして自分が、主の
良きご計画の中、主の御手の中にあること、聖霊の流れに乗っていること知ることができる
のだろうか? 
 
12人は直接、イエスが選ばれた。 ペテロとアンデレは、イエスから「わたしについて来なさい。
あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と「ことば」を頂いたが、弟子たちは、時々に
応じて「主のことば」の語りかけを受けた。 すなわち、今日の我々は、@直接なり、人を通して
なり、聖書なりを通して、「主のことば」が与えられること、与えられた「主のことば」をしっかり
握って離さないこと、が指標の一つとしてあげられるかもしれない。 また、弟子たちは、主イエ
スが昇天した後、いろいろな困難や苦難に遭遇したが、冷静に聖霊の導きを待つことができ
た。 すなわち、今日の我々は、A表面上、実際上はいろいろな困難、苦難を伴う出来事が起
きても、それらの渦に巻き込まれて、あたふたしたとしても、その時が過ぎれば、心の奥が落
ち着いていることに気づく。 表面上、実際上の嵐のような出来事が続き終わっていなくても、
「何とかなるさ」と浮き足立ったものではなく、明確に霊が落ち着いて主に信頼しきっているこ
と、も指標の一つとしてあげられるだろう。 
 
いずれにしても、、B自分は今、主の良きご計画の中、主の御手の中にあるかを、主に尋ね、
祈りを真剣に行なうことが重要である。 主は何らかの答えを、わかるように教えてくださるは
ずである。 そのことも、指標の一つとしてあげられる。 ただ、「主のことば」は与えられた、心
の奥、霊は落ち着いている、と律法学者やパリサイ人たちのように、安易に、思い込まないよ
うに気をつけることである。 吟味は必要である。
 
確かに、最期が来れば、主の良きご計画の中、主の御手の中にあったかどうか、聖霊の流れ
に乗っていたかどうかが、ある程度判明する。 しかし、最期の瞬間が来たときでは、人生の
やり直しはきかない。 しかし、今、生きている我々は、やり直しがきく。 ただ、「主の良きご計
画の中」、「主の御手の中にある」、「聖霊の流れに乗っている」やり直しでなければ、無駄にな
る恐れがある。 人は、罪を持ったままでは、真の幸せに導く真理の道には至れないからだ。 
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:37)」という聖
書の「ことば」は、クリスチャンであろうがなかろうが、この「主のことば」を信じようが信じまいが
関係ない。 すべての人が、避けて通れない事実、実際、体験することである。 だからこそ、
確実に「主の良きご計画の中」、「主の御手の中にある」、「聖霊の流れに乗っている」生き方
をしたいものである。 
 
とにかく、聖霊の川の流れに乗るために、また乗り続けるために、ペテロやヤコブ、ヨハネたち
が常に「キリスト」に焦点を定めて歩んだように、我々も日々絶えず、主イエス・キリストから目
を離さないで歩んでいきたいものである。 そして、十字架のもとに自分を置くという、へりくだり
を徹底していきたいものである。 主に尋ね、主の御心を知って祈り続けること、神に依り頼む
ことをしていきたいものである。 
 
★旧約聖書 エレミヤ書 29:11
   わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。
   ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与
   えるためのものだ。
 
★旧約聖書 詩篇 31:15
   私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出して
   ください。



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