めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年12月24日(日曜日)主は復活され今も生きておられます!
<「いつまでも存続するもので、最も大いなるものは、愛である」ことについての思考


★新約聖書 マタイによる福音書 2237(旧約聖書 申命記 65

イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛

せよ』。

 

★新約聖書 コリント人への第一の手紙 

たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、

また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

 

★新約聖書 コリント人への第一の手紙 1313

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで

最も大いなるものは、愛である。

 

●聖書の中心は、「キリストの十字架の死と復活」であるが、それは「神の愛」の現われである。 

キリストの弟子であったヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し

て下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。こ

こに愛がある。」と言っている。(Tヨハネ410 確かに、神の方が我々人を愛してくださった。 

だからこそ、最も重要な戒めは「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なる

あなたの神を愛せよ(マルコ1230他)」であるとイエスは仰せられたのだと思う。 ただ、この

ことは、人の力では無理であることは、旧約の歴史を見れば一目瞭然である。 神である「主

の恵み」「主のあわれみ」「主の導き」によって、心底、主を知り始めたときから、「心をつくし、

精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛する」ことができるようになっ

てくる。 主が望まれているレベルで、主を愛することが始まる。

 

「人は外の顔かたち(うわべ、目に映ること)を見、主は心を見る。(Tサムエル167)」と書か

れているが、「主は心を見る」の「心」、「心の奥」にある人の本当の思い、願い、考え、気持

ちなどのすべてを見ておられるということであろう。 その中でも人の「心の奥」に、「神への愛」

があるのかどうか、もしくは「神への愛」が与えられた時、受け留めることができる「心」かどう

かを見ておられると思われる。

 

人は、どうしても外側のこと(うわべ)を見て判断してしまいがちである。 自分の「心」のことさ

え、表面上にある思い、願い、考え、気持ちなどを見てしまいがちである。 そして、それが、

自分の本音、本心だと思いがちである。 しかし、人には、自分でも知り得ない、気付いていな

い心の奥の深いところに「あるもの」がある。 そこを神である主は見ておられるように思う。

 

さて、イエスの筆頭弟子ペテロは、血気盛ん、臆病、それでいて自信過剰。 熱心で生一本な

性質。 言い方を替えれば、いい意味での単純、素直。 田舎ガリラヤ地方出身者。 一介の

漁師、無学な普通の人(使徒4:13。 失敗が多く、イエスによく叱られた人。 そして、主と共

に死ぬこともいとわない、と豪語したその舌の根の乾かぬうちに「そんな人は知らない」3

言ってイエスを裏切った。 ただ、その裏切りは、イエスを敵に売り渡すというのではなく、ペテ

ロの弱さゆえ、自分を守るためだった。 だから、ペテロは、主を裏切ったとき、自分の愚かさ

を嫌というほど知って、激しく泣いた。

 

また、12弟子の一人であったイスカリオテのユダは、ユダヤ地方にあるカリオテ、都会出身者。

かなり優秀で、人からの信頼も得ており、主イエスの群れの会計を任されていた。 ペテロの

ように、あからさまな失敗はなかったのかもしれない。 イエスに指摘されないために、自分の

考えや、思い、感情、批判など本音を巧妙に心の奥底に隠していたのかもしれない。 ユダは、

自分の保身というより、主イエスを敵のサタン側である律法学者やパリサイ人たちに、当時の

奴隷一人の相場である銀貨30枚で売るという裏切りをした。 ユダは、主を敵に売ったことを

後悔したが、イエスのところへ行かず自殺した。 悔い改めず、滅んだ。(ヨハネ福1712

 

「最後の晩餐」といわれる「過越の食事」のとき、イエスはあなたがたのうちのひとりが、わた

しを裏切ろうとしていると意味深なことを言われた。(ヨハネ福1321、マルコ1418、マタイ

2621 弟子たちは顔を見合わせたり、だれかと互いに議論したり、かわるがわる「まさか、

わたしではないでしょう。」と言い始めたりしていた。(ヨハネ福1322、ルカ2223、マタイ2622

イエスは、明確に「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。

(マタイ2623、マルコ1420)」と言われたが、11弟子たちは、それに気づいていない。 その

上、ユダが「先生。まさか私のことではないでしょう。(マタイ2625)」と言うと、イエスは、「いや、

あなただ。(マタイ2625)」と答えられた。 「しようとしていることを、今すぐするがよい。(ヨハ

ネ福1327)」とイエスが言われると、ユダは、すぐに出て行ったが、11弟子たちは、気付いて

いない。 

 

ちなみに、11弟子は「主よ。まさか私のことではないでしょう。」と言っているが、ユダは、「先生。

まさか私のことではないでしょう。」である。 イエスを「主」ではなく「先生」と呼んでいる。 この

ことからでも、裏切者は誰かということがわかりそうなものだが、弟子たちは気付いていない。 

 

その理由として考えられることは、ルカ2224-30に書かれている。 イエスが十字架にかけら

れる前、苦しみの前、弟子たちとの過越の食事を切に望んでいたと言われ、裏切る者がいる

と言われ、「主イエスの厳粛なことばと態度」に、その場は和やかというより、張り詰めた空気

が漂い緊張感があったはずである。 にも関わらず、弟子たちは、自分たちが一番関心を持っ

ていたこと、「誰が一番偉いのか」という話題にすり替えて議論していたという。 弟子たちの

「心の最優先」は、目の前におられる「主イエス」ではなく、「自分」であったということだ。


こうしてみると、11弟子の性質もイスカリオテのユダの性質も大差はない。 ただ、決定的な違

いは、「主イエスへの愛」があったかどうかである。 これが、決定的な違い、運命の分かれ道

である。 復活されたイエスは、自分に失望していたペテロにわたしを愛するか3度言わ

れた。 この「愛するか」というイエスの問いかけは、原語では見返りを求めない愛を意味する

という。 主イエス・キリストが、我々人に対して「神の愛」を現わしてくださったが、主の方も人

に対して、見返りのない愛で「わたしを愛するかと問われているのだと思う。 「主イエス・キ

リストに愛されている」「主イエス・キリストを愛する」。 言い替えるなら、それは「主と自分の

愛の交わり」がなされること、「主なる神と自分の一対一の関わり」が持たれることである。

 

ところで、この「神への愛」は、人が最初から持っているわけではない。 「神への愛」は与えら

れるものである。(ローマ55  人の心の奥底に、「神への愛」が与えられるのである。 

えられるという言い方の方がふさわしいかもしれない。 「神への愛」が人の心の奥底に据え

られることは、信仰歴が長いとか聖書の知識を多く知っているとか教会での奉仕、キリストの

ための奉仕を多くしているとか奇跡を体験したとかは目安にならない。 信仰歴が短くても聖

書の知識をあまり知らなくても奇跡を体験したことがなくても心の奥底に、「神への愛」が据え

られている者もいる。

 

本当に主を愛しているなら 自分を捨てる。 しかし、そうは言っても、このことは難しいもので

ある。 しかし、神の方が、その人に「神への愛」を持たせようと、「神への愛」をその人の心の

奥底に刻み込まれる。 「神への愛」が据えられている者の特長は、一人一人に応じた神から

の訓練試練、試しによって自我が砕かれ肉が切り取られる過程を通る通っているということで

ある。 その過程を通ることは、苦しみ痛み傷つく。 それは、自分を捨て、自分の十字架を負

うているということである。 

 

しかし、案外、その過程を通っている者は、「自分を捨てている」とは認識していないかもしれ

ない。 苦しみがあまりにも大きいので、そのように思う余裕すらない場合もある。 そのような、

いわば、心がある種の瀕死になったとき、自分には「神への愛」が与えられていることを見い

出すことができる者もいる。 悪い状況、悪い状態、最悪の現状の中であっても「自分は本当

に主を愛しているんだ」と気づく者もいる。 しかし、それもつかの間、試練の渦に呑み込まれ

て、またもがき苦しむ。 ただ、それにも期限があり、後に、その人を用いようとされる主のご

計画があるからだ。 

 

ペテロもユダも当時のユダヤ人のメシア(キリスト=救い主)待望と同じく、政治的な意味や革

命者としてのメシアを期待していた。 しかし、イエスの言われることは、彼らユダヤ人の期待

とは違っていた。 ペテロは、イエスに叱られながら、多くの失敗をしながら、そのような考え、

思いを捨てていき、深く深く「主イエス・キリスト」を知り、「主を愛する者」へと変えられていった。

しかし、ユダは、彼の考えを固持していった。 ユダには、「神への愛」を受け留める「心」がな

かった。

 

「神への愛」なくしては、「キリストにとどまる」こと、「主につながり続ける」こと、「主に従って行

く」こと、「主のみこころを行なう」ことはできないものである。 神である主を愛するからこそ、神

のことを最優先できるのである。 とにかく、最も大いなるものであり、最も大きいものである

「神への愛」に焦点を定めて、揺るがない「神への愛」心の奥底に土台とし、基底として据え

ていただくことを求めていきたいものである。 、そのためにも、絶えず「信仰の創始者であり、

完成者であるイエスから目を離さないで」「キリストと自分」、「神と自分」、「主と自分」という

一対一の愛の交わり」が確固たるものになることに取り組んでいきたいものである。

 

★新約聖書 テサロニケ人への第二の手紙 35

どうか主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように。

 

 



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