めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年12月10日(日曜日)主は復活され今も生きておられます!
マタイによる福音書12章43節-45節についての思考


★新約聖書 マタイによる福音書 124345

汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。 

そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがして

ある上、飾りつけがしてあった。 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を

一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は

初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。

 

★旧約聖書 詩篇 112

   悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさ

   いわいである。 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

 

●冒頭のみことば(マタイ1243-45について、いろいろ考えてみた。 この箇所の解釈には

いろいろあるようだ。 汚れた霊が家から追い出された=イスラエルは、長年の偶像礼拝の結

果、バビロン捕囚となった。 その後、人々は偶像礼拝を徹底して拒むようになり、律法に生き

ようとしていった。 そうじをして、整えられていったということであろう。 しかし、イスラエルは、

モーセの律法を厳格に守ろうとして、「先祖たちの言い伝え」「口伝律法」なる人間の考えによ

る教えを重視するようになり、律法学者やパリサイ人たちは、メシアであるイエスを拒んだ。 

そして、彼らは群衆を扇動し、イエスを十字架につけた。 そうして、イスラエルは紀元後70

、ローマ軍によってエルサレムと神殿は破壊され、その後は、イスラエルという国名は消え、

ユダヤ人は世界各地に離散した。 初めよりも更に悪くなったという解釈。

 

また、主イエスが来られて、多くの悪霊が追い出された。 神のみわざを体験したり、目の当

たりに見たイスラエル人たちは、驚き感謝した。 ある意味、家はそうじされた。 しかし、その

ことは、ほんのひと時であり、パリサイ人や律法学者たちの扇動のもと、イスラエル人は、当

時イスラエルを支配していたローマ国家に頼ってイエスを十字架につけた。 悪霊に惑わされ

たのである。 その結果、イスラエルは紀元70年に、ローマ軍によってエルサレムと神殿は破

壊され、もっと悪くなったという解釈。 ただ、このこと(マタイ1243-45は、この時代で終わっ

たことではない。 そして、こういうことは、国単位だけでなく、個人単位でも起こり得ることだ。

 

聖書を読むと弟子と群集という区分があるが、いつも弟子は少数で群集は多勢である。 「群

集心理」という言葉があるが、群集が示す特殊な心理状態。 一般に判断力が低下し、興奮

性が強くなり、衝動的・無責任的な言動をとる傾向になる」と辞書には書いてあった。(大辞林 

第三版より) 普段は理性の有る行動をする個人であっても、群集の中に置かれると、他人の

行動にひきずられて、1人の時には出来ないような過激な事をしやすくなるということは、歴史

でもよく見る光景だ。 「イエスを十字架につけよ」と激しく叫んだ群集も、そのひとつである。 

しかし、多勢派の判断が必ずしも神の前に正しいとは限らない。 

 

当時、イスラエルには、救い主キリストが来られた。 イエスは、神の国を宣べ伝えられ、イス

ラエルの多くの人々から悪霊を追い出された。 汚い部屋が片づけられ、空っぽになった状態

である。 しかし、その部屋に救い主をお迎えしなければ、再び悪霊が押し寄せてくる。 

 

群集が惑わされたのは、祭司長や長老、律法学者、パリサイ人たちだけが悪いわけではない。 

ここに至るまでに群集はイエスの説教を聞いていたのだが、群集は真の救いの「霊的な救い」

ではなく、この世における「ローマ帝国からの解放」の救い主を求めていた、という心のあり方

が問題だったと思われる。 

 

また、せっかく悪霊を追い出されたり、病が癒されたり、奇跡や不思議を見て神をあがめたり、

イエスの教えに驚いたりと部屋がそうじされるようなことを体験しても、心の奥にまでイエスを

お迎えしていないことが問題だった。 心の奥にまでキリストをお迎えしていないと、あっさり扇

動に乗ってしまうからだ。 また、心の奥にまでキリストをお迎えできないのは、キリストへの態

度が中途半端であるからだ。 それは、自分の願いや思いを押し通そうとする自我が強く、肉

が強いからだ。 だから、悔い改めも中途半端になり、言動もどっちつかずで、結局、人の影

響を受けキリストから離れてしまい、悪い状態になる。

 

我々もともすれば人の言葉や行動に影響を受け、それも悪い影響を受けて、罪を犯してしまう

可能性は十分にある。 悪魔は、とにかく人をキリストとは違う道へ行かせようと躍起(やっき)

になっている。 たとえ「キリスト」という御名を呼んでいたとしても違う道に行くなら、悪魔、悪

霊は、その人に罪を犯させることは簡単であり、地獄への道連れとする方向へ誘うことは簡単

である。 「キリスト」を心の奥にまでお迎えしている者でさえ、サタンは何とかして道を間違わ

せようとして働く。 神がみこころ通りにご計画を進められるのを阻止しようとする。 だから、

実に巧みに情報や言葉、偶然を装ったような出来事、表面だけの善と見える行動などを用い

て、キリストとは関係のない道へ行かせようとする。 人に罪を犯させようとする。 そのことを、

よくよく知っておくべきである。 

 

他人の(悪い)影響を受けるということで、注視しなければならないのは、悪い霊の影響を受け

るということである。 律法学者やパリサイ人たちは、彼らを支配していた悪しき霊の影響を受

けていた。 そのようなことを群衆は見抜いていたわけではないが、イエスと彼らとのやり取り

を聞いて判断する機会は与えられていた。 しかし、そうじされた部屋に、キリストも主のこと

ばも座られていなかった。 だから、イエスが十字架にかけられる前、エルサレムに入城され

たとき、「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。」と喜んでイエスをお迎えした群衆

は、その舌の根の乾かぬうちに、「十字架につけろ。」と叫んだ。 言うなれば、悪しき霊は、あ

っという間に戻ってくるということなのかもしれない。

 

こうしてみると、「霊を見破る」「霊を見分ける」ことが必要だと思われる。 我々が表面的なこ

とば、行動にだまされて、道を間違えることがないためである。 ただ、「霊を見破る」「霊を見

分ける」ことについては、主による様々な経験を通しての訓練が必須であるようだ。 しかし、

心の奥までキリストに満たされている者、満たされようと取り組んでいる者には、主が、そうい

う訓練を受けた者に引き合わせてくださるか、何らかのかたちで教えてくださるであろう。

 

いずれにしても、我々は、自分の都合のいい方になびくのではなく、心の奥底までキリストに

満たされて、悪しき霊に付け入る隙を与えないようにしたいものである。 そのためにも、日々、

絶えず「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」主の御前にへりくだっ

て、「キリストと自分」が確実に「一対一の関係」、「一対一の交わり」が、自分の足場となるよ

うに真剣に取り組んでいきたいものである。

 

新約聖書 テモテへの第一の手紙 41

   しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教

   とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。





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