めんどり通信/2017年12月3日(日曜日)主は復活され今も生きておられます! <「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」についての思考> |
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★新約聖書 マタイによる福音書 22:14 招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない
★旧約聖書 ゼカリヤ書 13:7 万軍の主は言われる、「つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を 攻めよ。牧者を撃て、その羊は散る。わたしは手をかえして、小さい者どもを攻める。
●ルカによる福音書14章。 ある安息日に、パリサイ派の指導者が食事にイエスを招いたこと が書かれている。 その席で、イエスは水腫をわずらっている人をいやしたり、その場にいた パリサイ人や招待客たちの心を見抜いて、神の国の真理について教えられた。 その語られ た中の一つのたとえについて考えてみた。(ルカ14:15-24)
たとえは、こうである。 ある人が盛大な晩餐会(宴会)を催して、大ぜいの人を招いた。 宴会 の時刻になったので、前もって招いておいた人たちのもとに僕を送って、「さあ、おいでください。 もう準備ができましたから」と言わせた。 ところが、みんな一様に理由を言って断りはじめた。 @土地(畑)を買ったから、言ってみなければならない。 A五対の牛(新共同訳:牛を二頭ず つ五組)を買ったので、調べに行く。 B結婚したので行くことができない。(ルカ14:15-20)
しもべから、このことの報告を受けた主人は、それでもその宴会を取りやめなかった。 しもべ に「いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、 足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい。」、更に「道やかきねのあたりに出て行って、この 家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。」と言いつけた。 そして、 このたとえの中心であり一番重大なことば「招かれた人で、わたしの晩餐(食事)にあずかる 者はひとりもないであろう」をイエスは語られたということである。
また、イエスが、このたとえを語られたきっかけは、「午餐(昼食)または晩餐(夕食)の席を設 ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。 恐らく彼らもあなたを 招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。 むしろ、宴会を催す場合には、貧 しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。 そうすれば、彼ら は返礼ができないから・・・正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。(ルカ 14:12-14)」と自分を招いた人に言われたイエスのことばを聞いた列席者のひとりが、イエス に「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言ったことである。
しかし、この人は素直に、イエスの話しを全部、聞き入れた上での言葉ではない。 ただ、自 分にとって都合のよいところ「正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。」 という言葉だけを受け取っている。 自分たちは律法を守っている「正しい人」「義人」であり、 この食卓に着いている人々はみな、神の国に入ることができると考えていたのだろう。 「宴会 を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよ い。」はパリサイ人や招待客にとっては、受け入れがたい「ことば」だった。 パリサイ人たちは、 病人や貧しい者は、神からさばきを受けた者、神からのろわれた者と考えていたからだ。
さて、このたとえの「ある人」とは「神」であり、「盛大な晩餐会(祝宴、宴会)」とは、「来たるべき 神の国で神の御前での祝宴」。 最初に招待していたのは、パリサイ人たち、その中でも、当 時の霊的指導者たちであったようだ。 「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の 悪い人など」とは、同じユダヤ人であっても一般庶民。 それも正統的ユダヤ人からは蔑(さげ す)まれて、「神の国での食卓」に席がない者とされていた人々のことである。 また、「道やか きねのあたり」とは、異邦人のところに出て行ってということであろう。
このたとえの神の招待を断わった者たちを、今日に当てはめて考えるなら、@の理由で断わ った者は、教会の牧師とか指導者の可能性がある。 たとえとしてみる時、「畑を買った」とは、 みことばが与えられる場所としての「教会を建てた」と言えるかもしれない。 「行って見なけれ ばなりません」とは、教会での行事(日曜礼拝、集会、祈りの会など・・)や運営があるというこ とだろうか。 Aの場合、「五対の牛(新共同訳:牛を二頭ずつ五組)を買いました」「しらべに 行く」とは、伝道して主を信じる者が起こされたから、確認したり導きに行く必要があるというこ とだろうか。 「牛」はクリスチャンにたとえられる。 @Aの者たちはそれらの理由で招待を 断わる時に、「どうぞ、おゆるしください」と言っている。 若干でも、申し訳なさがあるのかもし れない。 それでも、招待を断わった。 自分の欲求の方が強いからだ。 主なる神より、自分 のことを最優先させているからだ。
Bの場合の「結婚したから行けない」とは、他に信じるべきものを得たということだろうか。 と いうことは、招待してくださった神との関係を絶ったということかもしれない。 それは、主が定 められた道とは違う他の道を歩むということである。 だから、@Aの者たちは、「どうぞ、おゆ るしください」と言っているが、この理由の人だけには、この言葉がない。
いずれにしても、@ABは、キリスト者(クリスチャン)である。 教会の牧師、伝道者、聖書教 師、奉仕者、・・・いろいろである。 キリスト教会は、「キリストのため」「主のため」というスロー ガンのもと、長年「教会の建てあげ」「福音宣教(伝道)」「信者を弟子にすること(弟子訓練)」 などに取り組んできた。 その努力には、すばらしいものがある。 キリストを信じている教会 なら、イエスは神の子であり、また旧約聖書が告げていたメシアであり、十字架上の死と復活 によって人類をあがない、かつ人と神との関係を新たにするために、父によって送られた方で ある、ということは変わっていない。
そのことに変わりはなくても、長い年月の中、聖書のことばの解釈、説教など様々なことに人 間の考えが入って来ているように思う。 キリストの昇天から2千年以上経った今こそ、もう一 度、じっくり考えて見なければならないのではないかと思う。 「信仰を吟味せよ」というみこと ばは、平信者や未熟な信者ではなく、むしろ、長年信仰生活をしてきた者や指導者と言われ る者たちこそに与えられていることばではないかと、昨今、つくづく思う。
旧約聖書には、指導者やクリスチャンが裁かれる預言があるからだ。 新約聖書にもある。 長年、キリスト教会が建てあげてきた聖書解釈、教理、神学、説教、・・・などの先入観を捨て て、土台であるキリストのもとで、じっくり主が言わんとされていることを尋ね、祈り求めて聖霊 の流れに乗っていくということが、より必要な時代になったのではないか、と思う。
イエスが、このたとえを話される前、牛餐(昼食)または晩餐(夕食)の席を設ける場合には、 お返しを受けないために、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを 招くがよいと言われた。 @Aの者たちは、「教会を建てた」ことで、「伝道」して成果が上がっ たことで、主にお返しができたと思っているのではないだろうか。 @Aの者は、いずれも、 「主に対して熱心」「伝道に熱心」な者たちである。 それこそ、キリスト教会が立てていた「キリ ストのため」「主のため」というスローガン通りである。 貧しい人、体の不自由な人、足の悪い 人、目の見えない人などは、お返しができないということは、招待してもらった方に、ただただ 感謝し、へりくだって恵みを受けるということだと思われる。
Bの者は論外である。 もはや、自らキリストとの交わりを絶ったと思われるからだ。 @AB の人たちは、招待されていることを知っており、だれから招待されているかも知っている。 し かし、「キリストのこと」「天の御国のこと」「天での神の御前での祝宴のこと」を本当の意味で、 知ってはいなかったということであろう。 結局、一人一人の意思が問われているのである。
今日の教会、キリスト者(クリスチャン)たちの多くは、「神の国での食卓に着くこと」すなわち、 「天の御国へ行くこと」を望んでいる。 いや、それはクリスチャンにとって当然の権利だと思っ ているかもしれない。 しかし、現実、実際は違うということを、このたとえからも知ることができ る。 この地上で、本当の意味での「主なる神と自分の交わり」「キリストと自分の確固たる交 わり」に入っていない者、そのことに取り組んでいない者が、「来たるべき神の国で神の御前 での祝宴」に入ることは難しいのではないだろうか。
とにかく、まずこの地上にいる我々は、「キリストと自分」、「神と自分」、「主と自分」という一対 一の「かかわり」「交わり」が確固たるものとなるように真剣に取り組んでいきたいものである。 そのためには、神の御前に「へりくだる」ことが大切である。 「へりくだる」と口先だけで言うの ではなく、「へりくだる」というわざとらしい態度をとるのでもなく、日常生活の中で、普通の生活 の中で、主の御前に「へりくだる」のである。 神がなさることはみな正しい、神の計画(内容も 時も)こそが最善であると認めて、「主と主のことば」を最優先することが「へりくだる」ことであ る。 神のなさることは、人にはわからないことが多くあるが、神に対して、ただ「はい」と受け 止めることが「へりくだる」ことである。 真に神の御前にへりくだりながら、この地上にいる間、 心の(霊において)貧しい者として歩んで行きたいものである。
★旧約聖書 詩篇 10:12 主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れない でください。
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