めんどり通信/2017年11月19日(日曜日)主は復活され今も生きておられます! <主の真の弟子と主イエスが選んだ者の名が天にしるされていることについての思考> |
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★新約聖書 ルカによる福音書 10:20〜22 霊があなたがたに服従することを喜ぶな。 むしろ、あなたがたの名が天にしるされてい ることを喜びなさい」。 21:そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天 地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠し て、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でし た。 22:すべての事は父からわたしに任せられています。 そして、子がだれであるか は、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそ うとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。
●冒頭のルカによる福音書10章20節-22節について考えてみた。 同じみことばが、マタイに よる福音書にも書かれている。 「マタイ11:25そのときイエスは声をあげて言われた、「天地 の主なる父よ。あなたをほめたたえます。 これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼 な子にあらわしてくださいました。11:26父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。11: 27すべての事は父からわたしに任せられています。 そして、子を知る者は父のほかにはなく、 父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。」
両方のみことばとも、「これらの事」を「幼な子」にあらわされたことで、イエスが父なる神をほ めたたえておられる。 この「幼な子」とは、マタイもルカも、ここでは「弟子たち」のこと、「子 (主イエス)が選んだ者」のことを言っていると思われる。 「幼な子」については、他の箇所で も言われている。(マタイ18:3,4) 「天国はこのような者(幼な子)の国である」(マタイ19:14、 マルコ10:14、ルカ18:16)
イエスは、「知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわして」と言われているが、裏を返 せば「幼な子は知恵がなく賢くない者」ということである。 パウロも「知恵ある者をはずかしめ るために、この世の愚かな者を選び」と言っている。(Tコリント1:27) また、「物の考えかた では、子供となってはいけない。・・・考えかたでは、おとなとなりなさい。(Tコリント14:20)」 「幼な子は、義の言葉を味わうことができない。(へブル5:13)」とも言っている。
考えてみれば、実際、「幼な子」「子ども」は、言い出したら聞かない、叱られると思えば逃げ出 す、気に入らないと大声で泣きわめく、自分の欲求通り動く、・・・などなど。 子育て大変、子 育てノイローゼという言葉をよく聞く。 そういうふうに考えてみると、イエスが言われた「幼な 子」とは、「幼な子」「子ども」のすべてではなく、求めること、また、求めることに素直なこと、本 当に叱られた時には、うわべだけではなく、心から謝る(真の悔い改める)者、言われたことを そのまま正直に行ない、その成果が見えた時、素直に喜ぶ者のことを言われているのではな いかと思われる。 この素直というのは、実際の「幼な子」「子ども」を見ればわかるように、静 かに求めるというより「しがみついてでも求める」「まっすぐに求める」という感じだろう。
例えば、異邦人であるカナン人の女が、女の子どもをいやしてくださるようイエスに求めた時、 イエスは始め、ひと言もお答えにならなかった。 しかし、女がしつこく叫び続けて求めると、弟 子たちが、イエスに「この女を追い払ってください。」と言った。 すると、イエスは「わたしは、イ スラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない(マタイ15:24)」と女に言わ れたが、それでも女は、イエスにしがみつくように、ひれ伏してイエスに求めた。 そうすると、 イエスは、カナン人の女の子どもをいやされた。
旧約のヤコブの場合も「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません(創世記 32:26)」と神が遣わされた「(神ご自身のあらわれである)ある人」にしがみついて求めた。 そして、ヤコブは「イスラエル」という新しい名を与えられた。 こうしてみると、あきらめずに、 「しがみついてでも主なる神に求める」という態度を「良し」とされているようだ。 かと言って何 でもかんでも「しがみついて求める」のではなく、「神の国」「主の御心」「主の喜ばれること」を 求めることにおいて、一心になる者。 損得感情、人間関係、その他いろいろ考えての悔い改 めではなく、心底からの悔い改めをする者を、イエスは「幼な子」「子ども」、すなわち、ご自身 の弟子と見られている。
さて、また、「これらの事」とは何を指しているのだろうか。 マタイの方では、マタイ10:1-42で 12弟子を遣わすにあたってイエスの命じがあり、11:1-14は、獄中のヨハネについて。 11: 15-24は、裁きについて。 11:25-27は、イエスの父へのほめたたえという流れがある。 ルカ の方では、10:1-12は、70人をふたりずつ派遣するにあたってイエスの命じがあり、10: 13-16は、不信の町に対する裁きについて語られ、10:17は、70人がイエスに報告。 10: 18,19は、イエスのことば、御父への賛美。 そして、10:20が「あなたがたの名が天にし るされていることを喜びなさい」と言われ、10:21は、イエスは聖霊によって喜びあふれてのこ とば(マタイ11:25と同じことば)という流れである。
マタイ11:25の「これらの事」とは、一般的に言われていることは、天の御国に関すること、福 音に関すること、イエスのメシア性のことなどである。 また、ルカ10:21の「これらの事」とは、 前後のことばから「あなたがたの名が天にしるされていること」である。 遣わされた70人(72 人)が帰ってきてイエスに報告した後にイエスが言われたことばである。 しかも、イエスは弟 子たちの前で「喜びにあふれて言われた」と書かれている。 ということは、この70人はみな 「名が天にしるされている」ということかもしれない。 新改訳や新共同訳のように「イエスはこう言われた」が適切な訳かと思う。
また、マタイ11:25では、12弟子が遣わされるときで、ここでは70人(あるいは72人)のことは書 かれていない。 マタイ11:25では「あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」と は言われなかった。 確かに「これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわ してくださいました。」と言われたが、弟子たちの前で喜びにあふれたとは書かれていない。 同じ内容が書かれているマルコによる福音書6章では、12弟子はイエスに報告した後、イエス は、弟子たちに、「(食事をする暇もなかったから)人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休む がよい。」と言われている。
イエスは、全てのことをご存知であり、神のご計画を知っておられる。 だから、「あなたがたの 名が天にしるされている」ということを、12弟子を遣わされた後ではなく、70人が遣わされた後 に言われたのではないだろうか。 イスカリオテのユダが裏切ることを知っておられたと思わ れるからだ。
こうしてみると、70人のような弟子が「幼な子」であり、「天に名まえが記されている」者である と言えよう。 一番イエスに近かったのは12弟子であったが、その中のイスカリオテのユダは 滅んだ。(ヨハネ福17:12) だから、「弟子」と言われる者であっても、最後(最期)まで、本当 のキリストの弟子であったのかどうかが、わからないということがあり得るということかもしれな い。 確かに、主イエスは「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるので はなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」と言われた。 そ して、主の名によって預言をし、悪霊を追い出し、多くの力あるわざを行った者たちに「あなた がたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。」とはっきり言うと言われた。 この ような者たちは、通常キリスト教会では「主の弟子」と呼ばれているであろう。
重要なのは、「名が天に書き記されていること」である。 すなわち、神の国の民として「いのち の書」に名まえが記されていることである。 我々は、このことに関して、主が望まれる「幼な 子」「子ども」として、しがみつくように、ひれ伏して、一心に求めていきたいものである。
★新約聖書 マタイによる福音書 18:3、4 よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはでき ないであろう。 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 |
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