めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年10月29日(日曜日)主は復活され今も生きておられます!
<「長血の女」から学べること>


★新約聖書 ローマ人への手紙 1556

    どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって同じ思いをいだ

かせ、こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父な

神をあがめさせて下さるように。

 

●「マタイによる福音書920節〜22節」「マルコによる福音書525節〜34節」「ルカによる福
音書843節〜48節」
には、「長血の女」の信仰
がイエスに喜ばれ、いやされたことが書かれて
いる。 この箇所は、よく教会でもメッセージされるところだ。 めんどり通信でも何回か書いた。
 あらすじは、12年間、長血をわずらっていた女が、医者のために自分の身代をみな使い果して
しまったが、だれにもなおしてもらえないどころか、
ますます悪くなる一方で苦しんでいた。 ある時、
女は、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、
せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだ
ろう
と考えて、イエスの着物にさわった。 

 

すると、その途端、女は病気がなおったことを、その身に感じた。 イエスも、すぐに、自分のうち
から力が外に出て行ったことを感じられ
わたしの着物にさわったのはだれか。」と言われた。
隠しきれないと知った女は、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありの
ままを申し上げた。 そこで、イエスは
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った(直した)のです。
安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい
と言われたということである。 

 

ちなみに、長血とは、長期間の出血を伴う婦人病で律法では、長血の者は汚れた者とされており、
他の人に触れると触れた人までが汚れた者とされていた。(レビ記1525) また、治し
てもらえ
原語「救われる」となっているという。(マタイ
921、マルコ528 そして、「さわった」
原語「さわる、つかむ、すがりつく」を意味するという。(マタイ
920、マルコ527

 

「あなたの信仰があなたを救った」というイエスのことばから、落胆の状況の中でも、イエスに

一筋の光を見て、イエスにすがりついた長血の女のような「信仰」を持ちましょうとのメッセージ
をよく聞く。 本当にその通りである。 ただ、著者はこの箇所を読んでいて「人間というもの」
について考えさせられた。 このことについては、一般的にも様々な方向からの見方がある。 

 

人は、「長血の女」のように、病であれば治そうと、いい医者を探して出向いて行く。 その病に、
よく効く薬があると聞けば大枚をはたいてでも手に入れようとする。 病気を治すために、いろい
ろなことを試みる。 そうすることは、身体が治ることだから、いわば当然のことであろう。 ただ、
人によって、それにつぎ込む金額や時間の度合いは違う。 そのことに執着する者もいれば、
そうでない者、一般常識的範囲でつぎ込む者もいる。 人によって、まちまちである。

 

また、多くの人は、とかく富(お金)に頼ろうとする。 現代社会では、お金は必要なものであり、
社会的地位、勢力、仕事の業績の評価にも関連し、人を動かす手段としての働きもあり、不安
や安心感という精神衛生にも結び付くものであるという。 安心感を持つために、老後のため
にとか今後のためという名目をつけて富(お金)を蓄え増やそうとする。 ある意味、必要なこと
ではある。 ただ、そのことに執着することは、人間関係を悪くさせるだけでなく、その人をも
狂わせる場合がある。 

 

人によって、その度合い、金額は違うが、人の根本には同じものがある。 その同じものとは
「罪」である。 聖書は、人が何か罪を犯したから「罪人」というのではなく、アダムとエバ以来、
全ての人は「罪人」であると記されている。(ローマ323 この「罪」原語ハマルティア
「的外れ」という意味である。 また、
「悔い改める」とよく言うが、それは、ただ反省するので
はなく、聖書でいう「悔い改める」とは、原語では「メタノイヤ」という字が使われており、それは
もともとは方向転換、向きを変えるという意味だという。 「罪を悔い改める」ということは、「的」
を神の方向に変える
ということである。 規準を自分から神に変えるということである。

 

さて、この長血の女は、イエスに一筋の光を見るまでの間は、「的」を外していたことになる。 
必死に医者に頼り薬に頼った。 財産もみな、そのことにつぎ込んだ。 しかし、苦しみが増す
ばかりで一向にいやされる気配はなかった。 むしろ、ますます悪くなった。 財産をみな使い
果たす前に、イエスのところへ行こうと思えば行くことができたはずである。 イエスのうわさは
広まっていたからだ。 しかし、多くの医者や薬に頼っていたときには、イエスのうわさは、耳に
は聞こえていただろうが、女の心の中には入って来なかったのだろう。 

 

それが、頼るものがなくなったとき、イエスのうわさは、単に耳に入ってくるだけでなく、女にとって
イエスは「一縷(いちる)の望み」となったと思われる。 イエスに「一縷の望み」をかけたと言った
方がいいかもしれない。(一縷:糸のひとすじを表す語。 一縷の望み:ごく僅かな望み。)
 財産
もみな使い果たし、八方ふさがりの状態になったこの時が、女が「神から与えられる信仰」
受け止めることができる時だったと思われる。 

 

人によって 神に出会う時、救われる時は、みな違う。 もっと早く神に求めていれば、そこまでの
苦しみに合わなかったかもしれない。 しかし、この女にとって、医者に走って行っては効果がなく、
苦しむばかりの過程を通ることは、女の自我が砕かれ肉が切り取られて、神の御前でへりくだる者
にされたと思われる。 最初は、病がなおることに集中していたと思うが、次第に体も心もズタズタ
になり、自分は救われなければならない者であることに気づいたと思われる。 「救われる」は、
治してもらえるより深い求めである。


長血の女に、このような「信仰」を持たせてくださったのは、神であられる。 確かに信じること
は我々人がしなくてはならないものであるが、主イエス・キリストを信じる信仰は、神から与え
られるものである。 たとえ、からし種のように小さい信仰でも、「神から与えられた信仰」であ
るなら大胆な行動をとることができる。 女が群衆に紛れてうしろからであれ、イエスのみ衣に
触れるこは、旧約聖書レビ記1525を知っているユダヤ人にとっては大胆な行動だった。

この長血の女については、女が主イエスに心が向くまで、神の方が忍耐してくださっておられ
たのではないかと思う。 長血の女だけでなく、聖書の登場人物を見ると、つくづく そう思う。 
人が、神に向かなければならなくなった時、頼らなければならなくなった時を、まるで見越して
おられたかのように、主なる神が、その人と出会う機会へと神の方が導いておられたように
思う。 「偶然」はないからだ。 何事においても、いや少なくとも「神と出会う者」「救われる

者」にとっては「偶然」はない。 すべては「神の計らい」である。 「神の計画の中」にある。

 

すべてのものは神の掌中にあるということである。(マタイ1029、ローマ417、コロサイ210 
だから「偶然」の出来事は何もない。 聖書の中には「偶然」のようで「神の必然」という場面が
多々ある。(ヨハネ福44、使徒行伝23章、エステル記) ただ、長血の女にしても、イエスに
「一縷の望み」をかける
までの間、もしかしたら、女が主イエスに頼れるようにとの神の方から
何らかのアプローチがあったかもしれない。 しかし、人は、砕かれなければ、そのこと、
すなわち、神が差し出してくださっている御手に気づかない者なのであろう。 人間というものは、
何と愚かで罪深いものであろうかと自分も含めて、つくづく思う。 そういう者たちに対して、
主なる神は、何と忍耐深く、あわれみ深いお方なのだろうかと、心底思う。 心から感謝する。

 

いずれにしても、長血の女を見ておられた主なる神は、我々人の心(心の奥底)を見ておられる。
(Tサムエル167)  八方ふさがりの状況、にっちもさっちもいかない状況に陥らなければ、
主なる神のところに行かない、というのではなく、もっと早くに主のところへ行き、主のところに
とどまることができるように、日々、主イエス・キリストから目を離さず、直接的なキリストとの
交わりを深くしていきたいものである。

 

★旧約聖書 イザヤ書 49:15
    「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
    たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。

 
 



めんどり聖書研究会