めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年10月8日(日曜日)主は復活され今も生きておられます!
<弟子には奥義、群衆にはたとえ:ルカによる福音書5章31節から思考


★新約聖書 ルカによる福音書 8:10
   そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの
   人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 13:11
   そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されてい
   るが、彼らには許されていない。
 
ルカによる福音書5章31節「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。 わたし
がきたのは、義人(正しい人)を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
について考えてみた。 このみことばの重要な部分は「わたしがきたのは、義人(正しい人)を
招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」である。 主イエスがこの地上に
来られた目的であるからだ。 
 
そのように見る時、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である」は、「たとえ」「わた
しがきたのは、義人(正しい人)を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」
は、「奥義」と考えられるかもしれない。 イエスは、12使徒を選ばれ、彼らと一緒に山を下られ
たが、そこに大群衆が来ていた。 イエスは彼らの病気や汚れた霊に悩まされているのをいや
された。 
 
その後、イエスは弟子たちを見て言われたのは、マタイによる福音書「山上の垂訓(説教)」
と似ている部分(さいわいな者たち)と、マタイには書かれていない部分(あわれな者たち)につ
いてである。 ルカによる福音書の方は「平地の説教」と呼ばれている。(マタイ5章-7章、ルカ
6:20-40) ただ、どちらも、イエスは、直接的には弟子たちに語られている。 「山上の垂訓」
のときは、「・・・弟子たちがみもとに近寄ってきた。 そこで、イエスは口を開き、彼らに教え
て言われた。(マタイ5:1,2)」と書かれており、「平地の説教」のときは、「そのとき、イエスは目
をあげ、弟子たちを見て言われた(ルカ6:20)」と書かれている。
 
このように見る時、大群衆のいやしは、「たとえ」「山上の垂訓」「平地の説教」は、「奥義」
も考えられるかもしれない。 「山上の垂訓(説教)」「平地の説教」は群衆も聞いていたと思
われるが、イエスは、直接的には弟子たちに語られている。 主が、人をいやされるのは、「い
と高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いから」ということもあるが、ある意味、主イ
エスが、「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。(Tテモテ
2:4)」、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる。
(ルカ6:35、Uペテロ3:9)」という父の御心と一つであるからと言えるのではないだろうか。
 
そのように見ると いやされたからと言って真に「救われる」、真に「悔い改める」「悔い改めた」
とは限らないということだ。 もちろん、いやしの中には、罪の結果として病がもたらされた可能
性のある中風をわずらっているの人のいやしのように、「罪が赦されているから、いやしがあら
われた」という場合もある。 「救われる」ことと「罪の赦し」は切り離せない。 大事なこと、焦点
をあてるべきことは、キリストによる「神の救い」である。 
 
さて、「わたしがきたのは、義人(正しい人)を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせる
ためである」「義人(正しい人)」とは、どういう人のことだろうか。 イエスが、このことばを言
われたのは、直接的には、パリサイ人や律法学者のことをさしている。 しかし、彼らはイエス
の目から見たら、決して「義人(正しい人)」ではないことは明らかである。 また、聖書にも「こ
の地上には、罪を犯さない正しい人はいない」と書かれている。(伝道の書7:20) だから、主
イエスが、我々に語っておられる「義人(正しい人)」とは、口先では、へりくだっているようでも
心の中では「自分が正しい人と思い込んで自称している人、世間に、そのように思わせている
人、もしくは世間が、あの人は義人(正しい人)だと考えている人」ということになり、主イエス
は、そういう「義人(正しい人)」を招くためにきたのではないということである。 
 
また、「罪人を招いて悔い改めさせるため」「罪人」とは、単に罪を犯している人というわけで
はない。 「自分は罪人であることに気づき、その罪に悲しんでいる人、自分の罪に気づいて、
なんとかしてその罪から逃れなければならないと奮闘するも、それができずに苦しんでいる人
のことである。 ということは、そのような人は、「群衆」ではないということだ。 むしろ、「真の
主の弟子」であるか、主が「主の弟子」と選んでいる者である。 人は案外、「自分自身」のこと
で苦しみ悲しむ者が少ないと思われる。 「自分」について苦しみ悲しむときは、病があってつ
らい、苦しいという場合。 意気消沈するようなことが起きたなど・・いろいろあるが、確かにそ
のようなことは、悲しむべきことではある。 
 
また、「・・・のことが腹の底では憎い、許せない、嫌い、うっとしい、ストレスになる・・・」などとい
うことで苦しんでいる者も多い。 要は「相手やその出来事」が目の前からなくなれば解決する
ことが多い。 しかし、「自分自身」のこと、すなわち「自分の罪」、「自分の内面」、「自分の人
格」のことで苦しみ悲しむ者は、本当に少ないのかもしれない。 
 
当時、そのような者にイエスは声をかけられた。 収税所にすわっていたレビに、「わたしに
従ってきなさい」とイエスは言われた。 すると彼は立ちあがって、イエスに従ったと書かれてい
る。 ユダヤ人のレビの心は空虚な状態だったのではないだろうか。 取税人というローマ政
府に委託された仕事をしていたのである。 当時、取税人たちは、実際より多くの税金を徴収
するなど、不正な利益を得て金持ちだったが、同胞ユダヤ人から軽蔑され、忌み嫌われてい
た。 レビの心には葛藤があったと推測できる。 レビは、収税所にすわっていたというのは、
虚しい心境をあらわしているかのようだ。 そのようなとき、イエスからの「ことば」である。 
「真の主の弟子」は、天国の奥義を知ることが許されている。」 
 
著者は主イエス・キリストを信じてから、主のことを知りたいと求めていた。 そうすると、様々な
体験を通し、主の御心を知り、主を知リ始めた。 体験的にキリストを体験すればするほど、主
を知りたいと思うようになった。 それと同時に、心の奥底に主への「愛」が植えられているのを
感じた。 時々、言葉で言い表せないほどの主への感謝の気持ちが湧き上がってくる。 この
地上にいる間に、著者が知ることを主が「良し」とされている分だけ、主を知りたいと願い今も
尚、求めている。 「天国の奥義」を知ることは、ある意味、「主ご自身を知ること」である。
 
このようにいろいろ考えてみると、主イエスに直接、招かれる真の主の弟子」は少ないのかも
しれない。 イエスは、「狭い戸口(狭い門:新改訳)からはいるように努めなさい(努力して:新
改訳)。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。(ルカ13:24)」と言われ、「・・
命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(マタイ7:14)」と言
われた。(めんどり通信/2017年6月11日。<『天路歴程』とビジョンから「狭い門」「狭い道」を思
考する>参照) 
 
キリストと深くつながり、「キリストと自分」、「主なる神と自分」が確実に「一対一の関係」にな
り、「一対一の交わり」をするためには、「真の主の弟子」であることが必要であると思われる。 
「狭い門」、「命にいたる門」から入っていく必要があると思われる。 それは、決して簡単なこと
ではないが、主なる神ご自身の方が、我々一人ひとりと、「一対一の親密な関係」を築きたいと
願ってくださっておられるからこそ、我々は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目
を離さないで、いつも主を仰ぎ見て、「神と共に歩む」ことに全身全霊を尽くして取り組んでいき
たいものである。
 
★旧約聖書(新共同訳) 詩篇 25:14
   主を畏れる人に/主は契約の奥義を悟らせてくださる。
 
 
 



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