めんどり通信/2017年10月1日(日曜日)主は復活され今も生きておられます! <ザカリヤの信仰から学べることのひとつ> |
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★新約聖書 エペソ人への手紙 1:4、5
みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたし
たちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御
旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
●ルカによる福音書1章に、アビヤ組の祭司でザカリアという者の不信仰とイエスの母マリヤ
の信仰が対比されるように書かれている。 ザカリヤは、バプテスマのヨハネの父親である。
ただ、さすがマリヤの信仰はすばらしい、ザカリヤの信仰は、あと一歩だという単純なものでは
ない。 祭司ザカリヤについて思考してみる。
ザカリヤは祭司階級からなるユダヤ教の一派であるサドカイ派に属していた。 イエスが生ま
れる当時のイスラエルは、ローマに支配されていた。 ただ、ローマ政府は、ユダヤの国にあ
る程度の自由(自治権)を与えていた。 それで、ユダヤ人たちは、自分たちで選んだ議員に
よって裁判や国の方針を決めることができた。 サンヘドリン(最高議会)の71名の議員は、ほ
とんどが、パリサイ派とサドカイ派の人々で占められていた。 サドカイ派はパリサイ派と肩を
並べる勢力だった。
パリサイ派は反ローマの立場だったが、サドカイ派(祭司階級)は、親ローマの立場を取り、平
和を保つことに努めていた。 だから、祭司たちはローマ政府から特別に優遇され、サドカイ人
(サドカイ派)は、当時、上流社会の人々(貴族)で裕福だった。 彼らは、祭司長や大祭司を
含める権力のある地位を占めていた。 大祭司は、当時のローマ帝国に対してのユダヤの代
表者だった。
また、サドカイ派の人々は、死後の世界を信じなかったので、死後の世界に対する信仰はな
かった。 それで、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しない、と言っていた。(使徒23:
8) 彼らは、書かれたみことば、特にモーセ五書(創世記から申命記まで)の権威を保存した
が、彼らの考えは、本質的には合理主義的、現世主義的であった。 以上が、ザカリヤが所属
していたサドカイ派についての簡単な説明である。
このように見ると、確かに新約聖書で書かれている「祭司」は、印象がよくないのもうなずける。
しかし、豊かな生活の中でも、ザカリヤと妻エリサベツのように神の御前に正しく、主の戒めと
定めとを、みな落度なく行っていた者もいた。(ルカ1:6) ふたりとも既に年をとっていたが、子
どもがいなかった。 子どもがいないということは、当時では、彼らの代で家系が断絶すること
になるので、「恥」であるとされていた。 深刻な問題を抱えていた夫婦だったのである。
さて、そのザカリヤが、主の聖所にはいって香をたくことになった。 すると、主の御使いが現
れて、香壇の右に立った。 「復活も天使も霊もない」と信じていたであろうザカリヤはこれを見
て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。 その上、その御使いが、ザカリヤに「ことば」を語られ
たのである。 「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサ
ベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。・・・(ルカ1:13-17)」と。
ただ、サドカイ派のザカリヤは、それまでは「御使い(天使)」を信じていなかったと思われる
が、目の前に現れた主の御使いを拒否することはなかった。 ザカリヤは、ずっと子どもを授
かることを願い祈っていた。 それでも、御使いの「ことば」は、にわかには信じられなかった。
それで、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻
も年をとっています。」と言った。 一般的な解釈では、その言葉が「不信仰」と見なされ、期間
限定でものが言えなくなってしまったということだ。
ザカリヤは、自分たち夫婦は現実的には子どもを持てない、子どもを産むことは不可能である
ことを重々知っていたと思われる。 しかし、アブラハムとサラのことも伝え聞いていたはずで
ある。 アブラハム百歳、サラ90歳のとき、神の約束のことば通りイサクが生まれたことを、
知っていたはずである。 ユダヤ人にとって自分たちは、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの
子孫だという誇りがあったはずである。
結局、ザカリヤが属していたサドカイ派の教えや信仰のあり方、現実主義的な考えなどの影響
によって、旧約時代に実際あった神のみわざを過去のものと考えていたのかもしれない。 敬
虔に生きてきたザカリヤでも、サドカイ派に長い間、属していたのでサドカイ派の影響を受けて
いたと思われる。 ずっと子どもを授かることを願い祈ってきたことが、今まさに成就するという
時に、それまでの祈ってきた自分と「神のことば」を聞いて応答している自分は、矛盾している
ということに戸惑いはなかったのだろうか? また、「産まれる子をヨハネと名づけなさい」とい
うことも、ザカリヤには考えられないことであったようだ。 イスラエルでは生まれてくる男の子
には8日目に割礼を授けることが慣わしとなっていたが、この日は子どもに、父親か親類一族
の名まえをとって付ける日でもあったようだ。
ものが言えなくなったザカリヤは、聖所から出て民衆を祝福することもできず、務めの期日が
終わったので、家に帰った。 それから、ヨハネと命名するまでの期間(約1年未満くらい)、ザ
カリヤはものが言えなかった。 そして、子どもが産まれて8日目、幼な子に割礼をするために
人々がきて、父の名にちなんでザカリヤという名にしようとした時、エリサベツは、「いいえ、ヨ
ハネという名にしなくてはいけません」と言い、ザカリヤは書板を持ってこさせて、それに「その
名はヨハネ」と書いた。(ルカ1:63) その時、立ちどころにザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、
語り出して神をほめたたえた。 ザカリヤが、「その名はヨハネ」と書いたこの時が、御使いが
言われた「この事の起こった時」である。
さて、ザカリヤが、ものが言えなくなったことは、一般的には「裁き」と解釈されていることが多
いが、本当は「神のあわれみ」、「神の恵み」による「神の訓練試練」の期間だったのではない
だろうか。 サドカイ派の教えや信仰のあり方、現実主義的思考などが取り除かれなければ、
真の「神のことば」を受け入れることは難しいからだ。 ものが言えなくなった期間、ザカリヤは
苦しみ、戸惑い、考え、そして、祈ったであろう。 そうして、それまで影響されていたサドカイ派
のものは取り除かれたと思われる。 だから、何の戸惑いも迷いもなく毅然と書板に「その名
はヨハネ」と書くことができたのであろう。
教会においても所属している組織、団体、・・・などの影響を受けるということは往往にしてある
ものだ。 受けている影響がその人の内側から取り除かれなければ、主が与えようとされてい
る新しい教えが入らないということも往往にしてあることだ。 その受けている影響が深ければ
深いほど、取り除かれるのに、結構大変な場合もあり得る。 心の奥底、霊までにも影響を受
けて、たとえ「真理」であっても、入らないということがあるからだ。 だからこそ、「神からの訓
練試練の時を通る」ということが、人には必要であるということだ。 外側から見れば、「裁き」と
思われるようなことでも、実は、そのことは「神の恵み」「神の慈しみ」であり、「神のご計画の
中」に入れられているということがある。
いずれにしても、神は、人が信じようが信じまいが、「神ご自身のことば」を必ず実現される。
ザカリヤが、ものが言えなくなったことは、「神の恵み」「神のあわれみ」からの「神の訓練試
練」であることがわかるのは、御使いの「・・私のことばは、その時が来れば実現します(ルカ
1:20)」ということばから窺い知ることができる。 このように見ると、ザカリヤのように、神から
の一方的な神の恵みである「主のことば」、「主からの語りかけ」をいただくことは、幸いなこと
であるということだ。 それは、「神の計画(神の定まったみこころ)」の中にあるからだ。 だか
ら、一旦語られた「主のことば」は、主なる神のご責任において、必ずその通りになるのだ。(イ
ザヤ14:24) たとえ、邪魔や妨げがあったとしても、神は必ず、「ことば」通りになさる。 ただ、
そのような「主のことば」を語られた者は、主からの訓練試練を受ける。 ことばの内容の大き
さによっての訓練試練がある。 しかし、それは何度も繰り返すが、「神の恵み」「神の恩寵(お
んちょう)」であり、「神のご計画の中」に入れられているということである。
とにかく、我々は組織や団体、素晴らしいと思われるキリスト者や教会でさえも影響を受けるこ
とは、果たして正しいことなのかと問わなければならない。 この部分だけは、良い影響を受け
て、この部分は、あまり芳しくないから影響を受けないようになどと、自分で選別することは難し
いものである。 聖書が語っていることは、主イエス・キリストを信じた者は、キリストからの影
響を受けるべきであるということだ。 結局のところ、一人一人が「キリストと一対一で親しく
深く繋がること」に取り組んでいくべきであり、「キリストにとどまり続けること」、「主と親しく交わ
りを持つこと」が重要であるということだ。 そのためにも、我々は、日々、信仰の導き手であ
り、またその完成者であるイエスから目を離さないでいたいものだ。
★旧約聖書(新共同訳) イザヤ書 46:9,10
思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしの
ような者はいない。 わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、既に昔
から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り/わたしは望むことをすべて実行する。
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