めんどり通信/2017年8月13日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <主から、「友よ(ギリシャ語の「ヘタイロス」)」と呼ばれるのか、「・・・よ」と名を呼ばれるのか> |
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★旧約聖書 イザヤ書 43:1
ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はい
まこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたを・がなった。わたしはあなたの名を呼ん
だ、あなたはわたしのものだ。
★新約聖書 ルカによる福音書 10:20
・・・あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい。
●イエスが語られた「ぶどう園の主人と労働者のたとえ」から、いろいろ思考してみる。 ぶどう
園のたとえのあらすじはこうである。(マタイ20:1-16) ぶどう園の主人が、自分のぶどう園で
働く労働者を雇うために、夜明け前に出て行って、何人かの労働者を1日1デナリの約束で
雇った。 次に9時ごろに市場に出て行って何人かに「相当な賃銀を払うから」と言って雇
い、12時頃と午後3時頃にも出て行って、同じように言って雇った。 最後に夕方5時になって
も、まだ仕事に就けないで市場に立っている人々がいたので雇った。 彼らには報酬のことは
何も言わなかったが、彼らは、ぶどう園へ行った。
さて、賃金を払うことになって、主人は管理人(監督)に「最後に来た労働者から始めて、最初
に来た者まで順に、賃金を払ってやりなさい」と指示した。 ところが、最初に雇われた人たち
が、最後に雇われた人たちと自分たちの賃金が同じであることで、「この最後の連中は、たっ
た1時間しか働かなかったのに、1日中、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いにすると
は。」と主人に不平を言った。 これに対して主人は「友よ」と呼びかけ、「わたしはあなたに対
して不正をしてはいない。 あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。・・・わたしは、
この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。・・・(マタイ20:13-16)」と答えて言った
というたとえである。
このたとえの中で、主人は不平を言い、主人を非難してきた最初に雇われた人々に、「友よ、
わたしはあなたに対して不正をしてはいない。・・・」と言われたが、この「友」という言葉は、通
常ギリシア語では「フィロス」という原語で表現されるという。 フィロスとは、フィリア(友愛)や
フィレオー(愛する)という語源からきており、「愛する」「友愛」という意味を含むものであるとい
う。 その意味は親愛の情をこめて、「友」「味方」「仲間」という意であり、「親しい間柄にあって
愛されている人」を意味するという。
しかし、ここの「友」という言葉は、ギリシャ語の「ヘタイロス」(hetairos)から翻訳されており、
「愛する友」への呼びかけではなく、ぶどう園の主人はその男を良い意味で「友」と呼んだので
はないということだ。 この「ヘタイロス」で「友」と表す言葉は聖書中、3度しか出てこないとい
う。 @ぶどう園の主人が最初に雇った労働者に呼びかけられた時。(マタイ20:13) Aマタイ
22章の「結婚披露宴のたとえ」で、ひとりの人が礼服を着ずに婚宴の席についていたとき、王
に「友よ、・・」と呼びかけられた。(マタイ22:12) B主を裏切ったイスカリオテのユダが先頭に
たってイエスに近づいてきたとき、イエスは「友よ、・・」と呼びかけられた。(マタイ26:50)
Aの「友よ」と呼びかけられた人は、招かれた結婚披露宴に「礼服」を着ていなかったばかり
か、王の問いのことばにも、ただ黙っていた。 その人は、手足を縛られ外の暗やみにほうり
出された。 明らかに、裁きを受けた者のたとえだとわかる。 Bのイスカリオテのユダは、イ
エスを売った銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。 悔い改めるチャンスは
あったが、結局、神の恵みから漏れた結果の行動であることがわかる。 @の家の主人にむ
かって不平をもらし、主人を非難した最初の人々は、ABのように明確に裁かれた様子は書
かれていないが、恵みから漏れた可能性はある。
主人が最初の人々に語った「わたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。(マタイ20:1
5)」の箇所は、欽定訳聖書(KJV)や新欽定訳聖書(NKJV))など、他の英語訳では、「わたし
が良くしているので、あなたは悪い目をしているのか」と表現されているという。 これはヘブル
語の慣用句をギリシャ語で言い表したものの直訳だという。 また、この「友」という言葉は、ギ
リシア語辞典では「名を知らない者に語られる言葉」と書いてあるという。 主人に名を知られ
ていない、主人が名を知らないということだ。 主の名によって預言をし、悪霊を追い出し、多く
の力あるわざを行なった人たちが、主から「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ど
も、わたしから離れ去れ。(マタイ7:23)」と言われることが書かれているが、主に名を知られて
いない者は、主から離されるということである。 また、20章15節の「わたしが気前よくしている
ので、ねたましく思うのか。」の直訳は、「私が良いのであなた方には悪く思われるのですか」だ
という。 この言葉は「あなた方が悪い者である」と言わんばかりの裁きの言葉としての響きが
あるという。 こうしてみると、やはり@の人も裁きを受けた者のたとえであることがわかる。
@ABの者たちに共通することは、主の御心を受け入れなかった者であるということだ。 自
分は正しい、だから、主人に文句を言うことで、黙ることで、裏切ることで自分の思いを貫いた
ことだ。 ぶどう園の主人は、最初の人々に対して「あなた方が悪い者である」と言わんばかり
だったが、@主人を非難した最初の人々、A礼服を着ず、黙ったままの人、B主を裏切った
イスカリオテのユダは、「主人が悪い」「王が悪い」「イエスが悪い」と言わんばかりの批判、反
抗、裏切りをしたことだ。 そして、神の恵みから離されたことである。 いや、離されたのでは
なく、むしろ、自らが神に背を向け、神の恵みの拒絶して神から離れたことである。
聖書の登場人物のおもだった人々を見ると、主に名を知られている。 主から名を呼ばれてい
る。 ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、サムエル、ダビデ、エリヤ、イザヤ、・・ペテ
ロ、ラザロ、パウロ(サウロ)、・・・。 主から名を呼ばれるということは、主にとって、呼ばれた
者は、他のものとは区別された特別の価値あるもの、かけがえのないもの、特別な存在として
認識されているということを意味する。 また、黙示録20章15節には「いのちの書に名がしるさ
れていない者はみな、火の池に投げ込まれた」と書かれている。
我々は、主から、「友よ(ギリシャ語のヘタイロス)」と呼ばれるのではなく、「・・・よ」と名まえを
呼ばれたいものである。 だから、主から名まえを呼ばれるほど、主と親しくなりたいものであ
る。 すなわち、主を愛し、主から愛される者となりたいものである。 そのためにも、自分の命
をキリストのために捨てることができる者となれるよう取り組んでいきたいものである。
この「いのち」というとき、身体の命だけでなく、世の基準、価値観、肉から出てくる自分の考
え、自分の思いなど、いわば「自分自身」のことであり、それを捨てるということである。 ただ
「捨てる」とは原語では「置く」という意味だというので、「捨てる」ことは、自分自身を「主に置
く」、すなわち、「主にゆだねる」「主にゆだね切る」ことである。 人がキリストのために「自分」
を捨てること、すなわち、自分を主に委ね切ることは、神を愛していると言えるということであ
る。 神を愛する者は、熱心に神を求めていくだろう。 そういう者は、主によって定められた道
を歩み、神を愛し神に愛される歩みに導かれるということである。 とにかく、日々絶えず、主イ
エス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって、真の「主の交わり」を深くしっかりとし
ていきたいものである。 そして、ますます深く、主を知っていきたいものである。
★新約聖書 コリント人への手紙 第二 5:9
そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主
に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
★旧約聖書 箴言 8:17
わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。
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