めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年6月18日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「求めよさらば与えられん」についての思考>


 
 
★新約聖書(新共同訳) マタイ、ルカによる福音書 7:7、11:9
   求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさ
   い。そうすれば、開かれる。
 
●冒頭にあげたみことば「求めなさい。そうすれば、与えられる」は有名なことばである。 文語
では「求めよ、さらば与えられん」である。 故事ことわざ辞典にも「求めよ、さらば与えられ
ん」と記載されている。 「求めよさらば与えられんとは、与えられるのを待つのではなく、自ら
積極的に努力すれば、必ずよい結果が得られるということ」という意味や「ひたすら神に祈れ
ば、神は必ず正しい信仰心を与えてくれるだろうということ。 転じて、何事も進んで努力する
姿勢が大切だという意味」という解説も書かれている。 
 
ただ、主が言われた意味とは違うようである。 「求めなさい」、「探しなさい」、「門をたたきなさ
い」は、原語のギリシャ語ではすべて現在命令法であり、ギリシャ語では、現在形は、継続をも
含む時制であるという。 だから、より正確に訳すならば、「求め続けなさい」、「探し続けなさ
」、「門をたたき続けなさい」になるという。 また、主イエスが言われたのは、人の欲望のと
おり何でも与えられるなどということではない。 
 
マタイ7章7節、ルカ11章9節「求めなさい。そうすれば、与えられる。・・・」の後に、「悪い(罪人)
の父親でも、子どもが魚を求めているのに蛇を、卵を下さいと言うのにサソリを与えたりしな
い。 良いもの与えようとする。 天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良い
ものを下さらないことがあろうか。(ルカ11:11,12、マタイ7:11)」と書かれている。 この「良いも
の」とは、ルカによる福音書11:13には、明確に「聖霊」と書かれている。 「聖霊」こそ我々に
とって最大の「良いもの」であり、必要なもの、必要不可欠なものである。 我々は「聖霊」の導
きや助けなくして真理を悟ることはできず、天への道をまっすぐに進むことができないからだ。 
 
ルカ11章9節「求めなさい。そうすれば、与えられる。・・・」と主が語られる前に、真夜中にパン
を求めた人のたとえを語られた。 そのたとえとは、真夜中にある人のところに旅の途中の友
人が来た。 その友人に食べさせるものが何もなかったので、その人は、別の友だちのところ
へ行きパンを3つ貸してくれるよう頼んだ。 ところが、彼は家の中から断ってきた。 それで
も、その人は何度も何度も戸をたたき頼んだ。 結局、友だちだということではなく、真夜中にう
るさいからとパンを3つ与えてくれたというたとえである。 
 
このたとえを読むと、イエスが言われたこととは違う印象を受ける。 このことを話される前、何
をしたら永遠の生命が受けられるのかというある律法の専門家にイエスは、『あなたの隣人を
あなた自身のように愛せよ。』ということで、サマリヤ人のたとえ話をされた。(ルカ10:25-37) 
その後、マルタとマリヤの話しが書かれている。(ルカ10:38-42) それらを見れば、このたとえ
に出てくるパンを貸した友だちは、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あな
たの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。(ルカ10:27)』
の教えとは正反対のような感じを受ける。 しかし、なかなか起きてこなかったこの「友だち」
神は責めておられない。 そちらの問題ではないということだ。 
 
また、このたとえを話される直前に、イエスは弟子たちに「主の祈り」を教えられた。 その中に
「わたしたちに必要な糧(かて)を毎日与えてください。(新共同訳:ルカ11:3)」という祈りの言
葉がある。 我々に「必要な糧」とは、イエスの「人はパンだけで生きるものではなく、神の口か
ら出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである(マタイ4:4)」ということばから、「霊的なもの」
と言える。 「パン」とは、「わたしが命のパンである。(ヨハネ福6:35)」とイエスが言われたよう
に、「神のことば」をさすたとえである。 「神のことば」は、霊的な食物である。 天からのパン
は、霊的な糧である。(マタイ4:4) 
 
そうであるなら、ここで主が我々に言わんとされているのは、友人のために求めた「パン」
は、霊的なものであり、非常識と思われても真夜中に「しきりに」「しつように」頼んだこの人の
ように、我々も「霊的なもの」「霊的な糧」を得るためには、「求め続けること、探し続けること、
たたき続けること」をすべきであるということだ。 
 
このようにして見ると、キリストを信じ求めて「聖霊」が与えられたから、それで「一件落着して
安堵する」というわけには いかないようだ。 「求め続けること、探し続けること、たたき続ける
こと」を命令されているということは、「聖霊」が豊かに注がれ、深みへと導かれなければならな
いということである。 「聖霊」が豊かに注がれ、「聖霊」が関与されることにより、「霊的なもの」
「霊的な糧」が得られ、霊の深みへと入っていくことができる。 成熟へと進むことができる。 
「聖霊」が介入されることによって、主の定められた道をまっすぐに進むことができる。 いわ
ば、それは、「霊」「信仰」が成長していくことである。 完全な者へと変えられ整えられていく
ことである。 
 
そうして、「キリストと自分」、「神と自分」、「主と自分」という一対一の「交わり」が確固たるもの
となっていく。 だから、霊的な糧である「神のことば」を、「聖霊」を、「主の御心」を、「主が定め
られた道」を・・・を求め続け、探し続け、たたき続けることは、成熟するためには、必要不可欠
であるということだ。
 
「求め続け、探し続け、たたき続ける」ことについて、著者の場合。 約21年前に、それまで所
属していた単立の教会を出てから人間不信、教会不信、クリスチャン不信になった。 「牧師が
言われることは、すべてイエス様が言われているのと同じだから、牧師が言う通りにせよ」とい
うのが、その教会の教えだった。 当時の牧師は信者たちや著者を固く立たせようと熱心だっ
た。 だから、決して信者や教えている教役者を「マインドコントロールして支配してやろう」など
と思っていなかったと思う。 
 
一般的に言えば、「良い牧師」である。 しかし、その熱心さが裏目に出ていたように思われ
る。 それが、信者をマインドコントロールにかけてしまうことになったと思う。 熱心な者ほど、
このマインドコントロールにかかっていたのではないかと思う。 
 
牧師の言うことに従わなかったから、心が沈み浮上しなかったから、「見込みなし」「役立たず」
「キリストに嫌われている」と追い出された。 他の信者たちには、「町で会っても挨拶をしては
ならない」と牧師が箝口令(かんこうれい)を敷いたようで、著者を見れば、みな顔をそむけた。 
21年経って今も尚である。 おそらく、Uヨハネの手紙1:9-11「すべてキリストの教をとおり過ご
して、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。・・・ この教を持たずにあなたがた
のところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。 
そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである。」のみこと
ばを信者たちに語られたのではないかと推測する。 
 
当時、「あの教会、あの牧師から離れた自分は滅びる」という恐怖心が半端なかった。 しか
し、約1年半祈って祈って、マインドコントロールから解放された。 主が解放してくださった。 
その後、自分はどう進めばよいのか、主が望まれている道、主が定められている道を求め続
け、たたき続け、探し続けた。 当時の日本の教会の実情をある程度、知っていたので、他の
教会に行く気にはなれなかった。 もちろん、著者の知らなかった教会の中には、主が喜ばれ
る教会があったのかもしれないが、そこへは導かれなかった。 
 
以前所属していた教会の牧師は、よく「ウォッチマン・ニー」の書物からメッセージをされてい
た。 著者も牧師から紹介されて「ウォッチマン・ニー」の本をよく読んだ。 それで、日本で
ウォッチマン・ニーの群れの集会はないかと探した。 当時、すでにウォッチマン・ニーの群れ
はウィットネス・リーに継承されていたと思う。 東京にある回復の召会(地方召会)の集会に出
席してみた。 そのときの集会では、特別に何かを感じることもなかった。 祈るように勧めら
れ祈った。 集会が終わって帰路につきつつ考えていた。 あそこは、主の御心なのだろうか、
今後も何らかの形で交わっていくべきなのだろうか・・・などいろいろ主に尋ねつつ考えていた。
 
そして、羽田空港へ向かう電車の中でのこと。 急に吐き気がしてきた。 電車に酔ったわけで
はない。 幼い頃からあった乗り物酔いは、自分で車を運転するようになり徐々に改善してき
た。 ただ、体調(胃)がすぐれないときや長時間のバスでの移動、山道走行の車では酔いや
すいが、その他は酔うことが少なくなっていた。 乗り物酔いではないと思ったので心の中で
祈った。 もしかしたら、集会で祈った祈りがよくなかったのではないだろうか、証しをするとき、
高ぶったところがあったのではないだろうか、何か間違ったことを話したのではないだろうか、
主の喜ばれる態度でなかったのではないだろうか・・・と次々にいろいろな思いが湧きあがって
きた。 それで、一つ一つ悔い改めi祈った。 
 
それでも、まだ吐き気が治まらない。 それどころか、ひどくなってきた。 ハンカチで口を押え
ながら電車を降りてトイレに駆け込もうと急いでエスカレーターに乗った。 上って行く途中で、
待ち合わせをしていた主人の顔が見えた時、吐き気がピタッと止まった。 嘘のように消えた。 
と同時に、「あそこは違う。 自分が交わるところではない。」ということが、はっきりわかった。 
 
どのように進むべきか、誰とどういうところと交わるべきか、主が定められた道を進むとは具体
的にどうするのか、主が定められた道とは・・・と「求め続け、探し続け、たたき続け」ていた答
えの一つをこのような形で主は教えてくださった。 こういうことを繰り返しながら今日まで進ん
で来れた。 今も主に「聖霊」を豊かに注いでくださるように、「主の定められた道」を歩めるよ
うに、具体的な「主のみこころ」を、主が著者に望まれていること、主が「ことば」を語ってくだ
さるようにと、・・・「求め続け、探し続け、たたき続け」ている。 ますます、「キリストと自分」、
「神と自分」、「主と自分」という一対一の「交わり」が深みに入っていけるように求めていきた
いものである。
 
★新約聖書 ヤコブの手紙 1:17
   あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、
   変化とか回転の影とかいうものはない。
 
★新約聖書 ピリピ人への手紙 3:12   
   わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕
   えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられて
   いるからである。
 



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