めんどり通信/2017年6月4日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「信仰」についての思考> |
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★新約聖書 へブル人への手紙 12:2
信仰の導き手(創始者)であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではな
いか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、
神の御座の右に座するに至ったのである。
●聖書は神と人との「契約の書」である。 聖書の著者はアルファであり、オメガである神であ
る。 その神の全き支配の下に、神の霊感を受けた人間の手によって、書かれた「神のこと
ば」が聖書である。 もちろん、聖書は、今日、改ざんがあったり、翻訳に人間の考えや感情が
入ったりなど問題があると多くのキリスト者は言う。 確かに、ある意味、そうである。 しかし、
聖書のことばのすべてが問題というわけではない。 聖書の中には、神の真実、真理が隠され
ている。 神は、そういうことの全てをご存知の上で、あえて、許されている。 それは、キリスト
者が、それらの「隠された奥義」を見つけるために、主を最優先して真に主に頼って、聖霊の
導きによって「隠された奥義」を見つけ出し悟ることを神が望んでおられるからだ。
「契約」という以上、双方で取り交わしが行われて、双方がそれぞれの責任を果たすということ
が契約を存続させるためには必要である。 ただ、聖書の神と人との契約には、もう一つの
面、神からの一方的な神の恵みである「契約」がある。 その契約は無条件であり、ただただ
神の恩恵である。 しかし、多くは、双務契約であり、一般的にも最も多い契約であろう。 聖
書の神は「契約の神」である。 この「契約」とは条件のついた約束である。 だから我々の側
が契約内容(主のことば)を遂行しなければ、契約破棄ということもあり得る。 契約内容(主の
ことば)を遂行するということは、その契約内容(主のことば)を信じていなければできないこと
である。 信じること、すなわち「信仰」が必要になる。
現代、我々キリスト者(クリスチャン)は「イエス・キリストが十字架にかかって、我々の罪の身
代わりとなり罰を受け死んでくださった。 しかし、3日目によみがえられ今も生きておられる。
(Tコリント15:4,5)」、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中
からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。(ローマ人10:9)」など聖書の救
いのことばを信じる「信仰」によって、罪が赦され、永遠の命を受ける者とされた。 キリスト・イ
エスに対する「信仰」によって、神の子とされた。(ガラテヤ3:26)
キリストを信じた多くの者たちは、教会や書物、集会、聖会、・・などを通し、「信仰」について、
「信仰」を持つことの重要性やどのような「信仰」を持つべきか、「信仰」を持つとはどういうこと
なのか、など、いろいろなメッセージを聞き学んだことだろう。 著者も20年以上前に所属して
いた教会や書物で、いろいろ教わった。 しかし、その後、それらのことを改めて、いろいろ考
えてきた。
いろいろ教えがある中で、一般的に言う教えは、例えば、みことばは、「主の打ち傷によってい
やされた(イザヤ書53:5、Tペテロ2:24)」と書かれているから、本当は、その病は、いやされ
ているんだ。 今の症状はサタンが持ってきたもの。 偽。 神のことばを自分の実際となるた
めに、今感じていることに振り回されてはならない。 必ず、実際のいやしの時が来るから、そ
の時まで、聖書の神のことばを信じ続ける。 告白し続ける。 そうすれば主は、約束を、私た
ちに対して成就してくださる。 必ず、いやしの時は来る、とその日を待つことは、身体的にはし
んどいかもしれないが、信仰の面では、しんどいようでしんどくない。
なぜなら、なかなか、その時が来ないときには、「自分の場合は、いやされるが、この地上でい
やされることは主の御心ではなく、天の御国でのことだったのだ。 自分の場合は、三浦綾子
さんやパウロのように病と付き合いながら、主に従って行くことが主の御心だったんだ」と、い
つでも「信仰」を切り替えられるからだ。 一つの「主のことば」に関しての「信仰」を貫くことをし
ない。 「信仰」を切り替えることは、「信仰」の逃げ道を作っていることである。 「主の御心」と
いう言葉を使って、「信仰」を切り替えることは、その「信仰」は、なまぬるい。 「主のことば」を
自分の都合で解釈し、時には自分の都合で「主のことば」を変えているからだ。
また、「主のことば」を人が解釈している場合、「信仰」が足りないから、いやされないのだ、と
言って人を責める者もいる。 個人的に「主からのことば」を与えられていないのに、「信仰、信
仰」と言うのも、時には、人を責めることになる。 個人的に「主からのことば」を与えられてい
ないのに、聖書に書いているからと、聖書のことばを律法的に解釈して、人(自分も含む)を追
い込むようなことがあり得る。
聖書の「主の打ち傷によって我々はいやされた」というみことばは、病持ちの人全員に語られ
ことばではない。 ある意味、全員ではあるが、実際、現実に、その人だけに語られるという
「主のことば」がある。 聖書のみことばを通してなり、直接なり、人を通してなり、出来事、霊的
感覚、ビジョン、夢などを通して、その人だけに語られる「神からのことば」を与えられる者がい
る。 そのような時、与えられた「神からのことば」通りに忠実に受け取ろうとするとき、「信仰」
が試される。 その時には、「信仰」が命がけとなる。 殉教のような体の命をかけるというので
はない。 殉教は、キリストのためということで、いわば恵のニュアンスがある。 殉教の賜物を
頂いているのではないかと思う。 だから、殉教できるのだと思う。 ちなみに、「主の打ち傷に
よって我々はいやされた」の「いやされた」は、病気など肉体的だけではなく霊的ないやしも意
味する。
いずれにしても、「主からのことば」を与えられた者が、忠実に受け取るとき、「主のことば」と現
実の状況のギャップや矛盾を感じる時がある。 それは、神に対しての矛盾である。 その
ギャップと矛盾によって、「主のことば」を与えられた者が、結構、苦しむことがある。 しかし、
何故そのようなギャップがあるのかを、サタンからの攻撃という言葉では済まされないほど大
きな矛盾を感じ、相当な苦しみを受ける者もいる。
相当な苦しみを受けた者と言えば、ヨブが思い出される。 ヨブの苦しみは、旧約聖書のヨブ記
を見ると壮絶である。 ヨブを苦しめた一番大きなことは、この「苦しみの原因、理由がわから
なかった」ことである。 ヨブは、それを神に訴えている。 神が存在されるのになぜ、これほど
までにサタンが攻撃してくることを許しておられるのか。 なぜ、何故、・・・と、矛盾を感じてい
たと思われる。 しかし、苦しみの最後に、神ご自身があらしの中からヨブに答えて仰せられた
が、彼の苦難の理由はいっさい語られなかった。 創造と摂理、神の権威を示された。 そし
て、それまでにない大きな神の恵みを賜わった。 ヨブは苦しみにあうまで、神への「信仰」は
大したものだった。 それでも、更に深いレベルを神はヨブに求められた。 神に対して忠実で
敬虔なゆえ、神に対しての矛盾は大きかったと思われる。 いわば、ヨブの「信仰」は、命がけ
だった。 体の命ではない。 極端かもしれないが、神は神として存在されるのか、この神を神
として信じるのかどうかということである。 体の命以上に、命がけだったと思われる。
「信仰」には人によってレベルがあること。 「ただ、信じたらいい。」と言っても、レベルがある
こと。 どのレベルにおいても、「信仰」に逃げ道を与えてはならないということ。 もしくは、「信
仰、信仰」と、人を責める道具にしてはならないこと。 「信仰」も「霊」も成長すべきものではあ
るが、一人一人によって、レベル(深さ)の違いがあり、過程の違い、成長の早さに違いがある
こと。 これらのことを知っておきたいものだ。 そして、一旦、キリストを信じた者は、やはり、
キリストの弟子を目指すべきであろうと思う。 群衆であるなら、福音書の群衆が、イエスを裏
切ったように、イエス・キリストを愛するより、自分の都合を最優先する可能性大であり、神から
離れてしまう恐れがあるからだ。 ヨブのように、自分は特別な者ではないという謙遜はいらな
い。 神は、ご自身を求めてくる者を求めておられるからだ。
それと、その人の、その時の「信仰」のレベルを知っておかなければ、「主のことば」によって人
を傷つけてしまうことがあり得るということだ。 敵であるサタンや悪しき霊を打ち倒すならいい
のだが、人を傷つけて、人を救いの道、命の成長の道から逸れさせる危険性がある。
著者の場合。 著者が20年以上も前、教会の牧師たち数名でイスラエルへ行ったとき、「信
仰」が足りないと言われ、自分もそう考えたことがあった。 著者は、幼い時から乗り物酔いを
していた。 時には、新幹線でも酔ったことがある。 バスはてき面だった。 それで、酔い止め
薬を持って行こうとしたとき、牧師から「・・・さんも乗り物酔いしていたが、信仰をもって薬を持
たずに行ったら酔わなかった。薬は持っていかなくていい。」と言われた。 それで、持たずに
行くと、イスラエル内をバスで移動するたび、吐き気を催した。 しかし、必死で心の中で主の
御名を呼んだ。 信仰を下さいと心の中で必死に求めた。 それでも 吐き気はおさまらず、気
を逸らすために、手の甲をつねったりして我慢したのを覚えている。 今思うに、当時、著者の
「信仰」が足りなかったとは思えない。 あれから20年以上経ったが、相変わらず、乗り物酔い
はいやされていない。 それもそのはず、乗り物酔いについてのいやしのことばは、著者に与
えられていたものではなかったからだ。
とにかく、我々は、我々に神を信じることを教え、その信仰を成熟へと導く信仰の導き手であ
り、またその完成者であるイエスから目を離さないでいることだ。 イエスから目を離さないとい
うことは、イエスにつながっていなければできないことである。 結局、まず、一人一人がキリス
トと一対一で親しく深く繋がることに取り組んでいくべきであり、キリストにとどまり続けること、
主と親しく交わりを持つことである。
★新約聖書 ローマ人への手紙
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
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