めんどり通信/2017年5月21日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <日曜礼拝についての思考> |
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★旧約聖書 イザヤ書 57:15
いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、
「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の
霊をいかし、砕ける者の心をいかす。
★旧約聖書 イザヤ書 1:13
・・薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること――わ
たしは不義と聖会とに耐えられない。
●先週に引き続き「日曜礼拝」について思考してみる。 これらのことについても、長い間、祈
りつつ考えてきているが、本当の主の御心を簡単に知ることは、やはり なかなか難しい。 20
年以上前まで所属していた単立の教会で教えられたことや自分の体験や教会を出てからの学
びから、いろいろ思考している。 ただ、これらのことは、思考の余地などないくらい、教会教派
教団ごとにきちんと制度化され定着して実際、行なわれている。 難癖をつけるつもりもなく、
物申すなどと大それた考えを抱くつもりもない。 それでも、主が望まれていることは何なの
か、本当に、このままが主の御心なのか・・・といろいろ思考している。
さて、「礼拝」とは、辞書による言葉の意味は、1
神仏などを拝むこと。 2
キリスト教で、神の
賛美と祈祷(きとう)。 教会での礼拝はこれとともに聖餐(せいさん)・説教が中心となる、であ
る。 通常、プロテスタントの多くのキリスト教会では、信徒が日曜日に教会へ行き、讃美歌を
歌い、皆と心を合わせて、神を崇め、感謝し、牧師や教役者から神の言葉を聞き、献金し、
種々の祈りをささげるという一連の行為が行なわれる。 これらのことについて、教会ごとに
様々な特徴があると思われるが、だいたい流れは、このようなものであろう。
なぜ、「日曜に礼拝」なのかは、以前、所属した教会では、「主イエスが復活された日」であるか
らと教えられた。 また、日曜日を「クリスチャンの安息日」とも教えられていたと思う。 この
「日曜礼拝」はいつから始まったのか。 「日曜日」という表現は使われていないが、主イエス・
キリストが復活した、日の「週の初めの日」(マタイ28:1、マルコ16:1-2,9、ルカ24:1、ヨハネ20:
1)。 弟子たちが集まっていた「週の初めの日」(使徒20:7、Tコリント16:2)。 「主の日」(黙
示録1:10)。 これらは「日曜日」である。 使徒の時代、日曜日にキリスト者たちが集まってい
たようだ。
ただ、使徒たちが「日曜礼拝」を遵守(じゅんしゅ)したという感じはない。 主を愛するがゆえに
自発的に集まり、誰にも何にも強制されることなく、各自の自由意志(意思)で様々なものを共
有していた。 使徒行伝4:32には「信じた者の群れ」とあり、5:11には「教会全体」と書かれて
いる。 教会は、ギリシャ語で「エクレシア」だが、「エクレシア」のヘブル的背景を見るみると、
「教会全体」とは「全会衆」「群れ全体」とも訳せるという。 ローカル・チャーチ(地方教会)のイ
メージではなく、「ユニヴァーサル(普遍的)・チャーチ」のイメージだという。
「日曜礼拝」が遵守されるようになった経緯は、ローマのコスタンティヌス皇帝が、西暦321年に
「週の初めの日(日曜日)」を休息日として定め、西暦380年には、テオドシオ皇帝が、帝国の
唯一の宗教としてキリスト教を定める勅令を出し、その他の宗教を禁止したという。 西暦383
年に「週の初めの日」が、「主の日」という名まえに変更され、そこから発展して、カトリックが、
日曜日の礼拝参加を義務づけたという。 当時、ローマ教会の位置は、日曜日休業令によっ
て、更に確固たるものとなったようである。 尚、コスタンティヌス皇帝はローマ帝国時代の神、
太陽神ミトラの信奉者で、キリストを太陽神ミトラと同一の神としていたという。 教会は早くか
ら神から離れ始めていたようだ。
また、「安息日」については、キリスト教会でも意見が分かれている。 「安息日」について書か
れている聖書箇所は、「こうして天と地と、その万象が完成した。神は第七日にその作業を終
えられた。・・・神はその第七日を祝福して、これを聖別された」(創世記2:1,3)、他、旧約聖書
出エジプト20:8-10、イザヤ58:13,14、新約聖書マタイ28:1、マルコ16:9、2:17などである。
それらから「安息日」は第七日(土曜日)であることがわかるが、多くの教会は日曜日を安息日
としている。
以上から、「安息日」は今も土曜日であろう。 だから、「日曜礼拝」というのは、「キリスト教の
安息日」というのではなく、イエス・キリストが十字架で死んでくださり3日目の日曜日に復活さ
れたのを記念して、主に感謝するために礼拝しているということであろう。 ただ、使徒たちの
ような「主を愛するがゆえに」自発的に集まり、誰にも何にも強制されることなく、各自の自由
意志(意思)で心から神を礼拝している教会が、今日、本当にあるのだろうか。 そのようなキ
リスト者が、どれほどいるのだろうか。 多くの教会は、経済的にも運営していかねばならない
ところから、様々なトラブルが起きているという現実がある。 経済的、人間関係、教えの強
要、権威の押し付け、マインドコントロール、カルト的になる、牧師に従わない信者を追い出す
などのいじめ・・・などなど。 この世のいろいろな組織内で起きることと大差ない。 もしかした
ら、教会の問題の方が厄介かもしれない。
使徒時代の「教会全体」は、「ユニヴァーサル(普遍的)・チャーチ」のイメージだが、確かに、キ
リスト教会は、本来一つである。 教会は、キリストをかしらとしたキリストのからだである。 こ
の教会は、「ユニヴァーサル(普遍的)・チャーチ」であろう。 そうなると、やはり、一人一人の主
に対する心がどうなのか、「主を愛するゆえに」ということが重要となってくる。 「主を愛するゆ
えに」、主を礼拝する、神を礼拝する者を主は求めておられる。
ヨハネによる福音書4章でイエスは、サマリヤの女の問いに答えておられる。 サマリヤの女
は、イエスに「わたしたちの先祖は、この山(ゲリジム山)で礼拝をしたのですが、あなたがたは
礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています。」と、どこで礼拝するのが正しいのかを
イエスに問うている。 しかし、主イエスはどこで礼拝するのかという場所のことは言われてい
ない。 場所に重きをおかれていない。 主が建てあげられようとしている教会は、一つの「ユ
ニヴァーサル(普遍的)・チャーチ」だからである。 「…あなたがたが、この山でもエルサレムで
もない所で、父を礼拝する時が来る。・・・しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととを
もって父を礼拝する時が来る。 そうだ、今きている。 父は、このような礼拝をする者たちを求
めておられるからである。 神は霊であるから、礼拝をする者も、<霊とまこと>とをもって礼
拝すべきである。(ヨハネ福4:20-24)」と答えられた。
ヨハネ福音書に強調され用いられている霊(プニューマ)と いう言葉は、本来、風と息と霊であ
るという。 ヨハネ福音書16章の主イエスの訣別の説教には「…わたしは父にお願いしよう。
そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
それは真理の御霊である。・・」と述べられている。 我々は、聖霊によって悟りが与えられ、神
の子として、聖霊によって「アバ、父よ」と呼ぶことができ、礼拝をすることができるのである。
(ヨブ32:8、ローマ8:15)
「霊とまこととをもって神を礼拝する」ということは、「神の霊によって新しく生まれた人」が「聖霊
によって」神を礼拝し、「イエスのまことによって」神を礼拝するということである。 単に、「神を
崇めます」と口で言ったらいいものではない。 我々は全身全霊で神に向かい、我々の生かさ
れた霊が神の霊に触れるように礼拝すべきであるということだ。 それは、キリストと日々共に
歩んでいなければできないことだろう。 そういう者たちの礼拝を神は求めておられる。 しか
し、イザヤ書1:13「・・・薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月(祭)、安息日、また会衆を呼
び集めること(会合の召集)――わたしは不義と聖会(集会)とに耐えられない。」と書かれてい
るが、主は多くの教会、キリスト者たちをこのように見ておられるということであろう。
主が安息日の礼拝、集会、聖会を忌み嫌われ、薫香でたとえられている祈りさえ忌み嫌うと言
われている。 これは、当時のイスラエルに対して言われただけでなく、今日の教会にも警告と
して言われているように思えて仕方がない。 形だけになって、口では「主よ、主よ。」と言いな
がら、自我は砕かれておらず、肉(生まれながらの性質)が旺盛である多くのキリスト者(クリス
チャン)たち。 ドロドロした問題が教会内で起こっても「日曜礼拝」や教会主催の様々な「集
会」のときには外面を繕っている多くの教会、教役者たち。 主の御心に従っていると言いなが
ら、主キリストから離れてしまっている教会や教役者やキリスト者(クリスチャン)たち。 そうい
う事実がキリスト教会の中に実際ある。
礼拝のときだけ、キリストと一つになって、礼拝が終わればキリストから離れるというのは、キリ
ストと日々共に歩んでいない証拠である。 イエスはキリスト者が、主に「とどまること」を命じら
れている。(ヨハネ福15:4-9) 主は、我々が神を恐れ、心から神に従って生きることを求めて
おられる。 心から神に従って生きることができるためには、キリストとつながっていなければ
なできない。
結局、まず、一人一人がキリストと一対一で親しく深く繋がることに取り組んでいくべきであり、
キリストにとどまり続けること、主と親しく交わりを持つことである。 「主なる神と自分」が完全
に「一対一の関係」になることを最優先しつつ、日々神を礼拝していきたいものである。
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、また
わたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離
れては、あなたがたは何一つできないからである。
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