めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年4月16日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<イエスの系図の中にあるラハブという女についての思考:ヨシュア記2章6章>


★旧約聖書 詩篇 40:4
   主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさい
   わいである。
 
●先週タマルを取り上げたが、今回は、そのタマルとユダの間に生まれたペレツの子孫であり
イエスの系図の中にある女性のラハブについて思考してみる。 このラハブについては、ヨシュ
ア記2章と6章に書かれている。 あらすじはこうである。 モーセの後継者となったヨシュアに
率いられたイスラエルの民が、カナンの地に入り、征服し、占領していった。 約40年前、モー
セが12人をカナンの様子を調べるために斥候として遣わしたが、10人は、彼らの外側だけを
見て侵入することを恐れ反対した。 その時、カレブとヨシュアは、「主にそむいてはならな
い。・・主が私たちとともにおられるのだ。・・(民数記13章14章)」と言ったが、結果は民に反対
されイスラエル人たちは、40年間荒野での訓練を受けることになった。 そして、その第1世代
は、みな荒野で死に、2代目の者たちがヨシュアに率いられてカナンの地に入ることになった。 
第1世代ではカレブとヨシュアだけがカナンの地に入ることができた。 
 
その体験があったからこそ、ヨシュアは、イスラエルがまだヨルダン川を渡る前に、2人の斥候
(せっこう:スパイ)をエリコの町とカナンの様子を探らせるために遣わしたのであろう。 2人
は、まず、エリコの町に行った。 当時、エリコの町は、町全体が、高さ10メートルもある2重の
城壁で囲まれていたという。 2人は、城壁の上に建つ家に住んでいたラハブという名の遊女
の家に入り、そこに泊まった。 この場所を選んだのは、見知らぬ人たちが多く出入りする所で
あり、身を隠すには好都合だった上、エリコの内部情報が集められるからであろう。
 
ところが、イスラエルのスパイが入り込んだという情報はすぐに、エリコの王の知るところとな
り、王は、ラハブのところに、人をやって、「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡
せ。」と言わせた。 しかし、ラハブは、2人のイスラエルの斥候(せっこう:スパイ)をかくまい、
「彼らは来たけど、とっくに出て行った。 急いであとを追えば追いつけるでしょう。」と少しもた
めらうことなく堂々と言って斥候を捕まえに来た人たちを追い払い、2人を逃がしてやった。 ま
た、2人のスパイは、ラハブから、「この地の民がみなあなたがたの前に震えおののいている」
という貴重な内部情報を聞くことができた。 40年前は、敵の外側だけを見て恐れをなし駄目
だと判断したイスラエル人たち。 しかし、今度は、「敵が恐れている」という、すでに神が働い
ておられるという確信と励ましをヨシュアやイスラエルの民は知ることができた。 この情報は、
勝利を得るためには大きなことだった。
 
2人は無事、敵から逃れてヨシュアのもとに来て、その身に起ったことをつぶさに述べた。 そ
の後、イスラエル人たちは、神の奇跡を体験しながらヨルダン川を渡り、渡った後、第2世代の
男子は割礼を受け、第一の14日にエリコの平野で過越の祭を行った。 そして、ヨシュアの前
に立ちはだかった「抜き身の剣を手に持った主の軍勢の将」の顕現により、この戦いが主のも
のであることを示され、主の指示によってエリコ攻略に向かった。(ヨシュア記3章-5章)
 
「エリコは、イスラエルの人々のゆえに、かたく閉ざして、出入りするものがなかった。(ヨシュア
記6:1)」と書かれているように、エリコの人たちの恐れは頂点に達していたようだ。 武装した
者たち、雄羊の角笛(ラッパ)を持った祭司が7人、契約の箱をかつぐ祭司たち、その他のイス
ラエル人たちの順で、沈黙を守りながら1日に1回エリコの町の周りを回ることを6日間続ける。 
7日目だけは7回まわったとき、ヨシュアの合図によって、祭司が角笛(ラッパ)を長く吹き鳴らす
と、イスラエルの民が大声をあげる。 そうすると、城壁の壁が崩れるという奇妙な主の作戦に
より、イスラエルはエリコを攻略した。 
 
そして、エリコの陥落の時、「窓に赤いひもが結び付けられている家を救う」という契約を斥候
たちとしていたラハブは、ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者は生かされた。 
ラハブのその後については、旧約聖書には書かれていないが、新約聖書 マタイによる福音
のイエスの系図の中に書かれているのを見ると、イスラエル人サルモンと結婚したようだ。 
そして、サルモンとラハブ(カナン人:異邦人)の子が、ボアズであり、ボアズと結婚したのが、
ルツ(モアブ人:異邦人)、その子がオベド、エッサイ、ダビデと続き、イエスまで続く。 ラハブ
は、神の救いと祝福を自分の家族と子孫に与えたばかりでなく、それを全世界にもたらす者
なったということである。
 
さて、これらの箇所を読んで思うに、カナン人であるラハブは、なぜ、同胞の民を売るようなこと
をしたのだろうか。 イスラエルの2人の斥候(スパイ)を匿(かくま)うことは、自分の命をかける
ことである。 それだけでなく、ラハブの家族親族の命をもかけることになる。 それでも、匿っ
たのは、何故だろうかと考えてみた。
 
ヨシュア記2:9-11にラハブが2人の斥候に話した言葉が書かれている。 イスラエルの出エジ
プトのときの奇跡やエモリ人の王シホンとオグの出来事(民数記21章)など、要はイスラエルの
出エジプトと荒野の道中でのことは周りの民族に詳しく知られていたということだ。 それらのこ
とを聞いたカナンの人々は震えおののいて心がくじけているという。 しかし、同じ言葉を聞い
ていたラハブは、むしろ、神を畏れ(恐れ)、神の御前にへりくだった。 エリコの町、さらにはカ
ナンの土地全体がイスラエルに渡されること、すなわち主がその上に主権の御手を持っている
ことを認めただけでなく、「・・あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるか
らです。(2:11)」だと信仰告白した。 
 
このように、ラハブが神の御前に悔い改めへりくだったから、エリコの王から遣わされ、スパイ
を捕えに来た人たちに確信をもって堂々と話せるよう、いわば彼女の芝居に神が介入されて
いたのではないだろうか。 ここでは、真実を言うべきだとか嘘は言ってはならないとかの問題
ではない。 「神が介入されている」、「神が良しとされている」こと、それが大切である。 ラハ
ブは、偶像崇拝の盛んなカナンの地で「遊女」をしていた。 遊女と言っても、今日の一般的に
言う「遊女(売春婦)」とは違う。 当時のカナンには、それぞれの町の神々を祭る神殿があり、
そこには神殿娼婦と呼ばれる者がいた。 当然、宗教(偶像崇拝)と絡んでいた。 ラハブは、
神殿娼婦のひとりであったという。 「屋上に並べてあった亜麻の茎(束)の中に彼らを隠してい
た」ということばから、遊女なら糸を紡ぐことはしなかったであろうが、神殿娼婦は、亜麻の祭服
などを作るために置いてあったのかもしれない。
 
いずれにしても、ラハブは、自分が信じ受け入れた神は、「天と地を造られた創造主であり、す
べてを支配しておられる神である」ことを悟り、この神を畏れて(恐れて)「神と神のみこころ」
を第一にした結果が、同胞を裏切ったかたちになったと言えよう。 斥候(スパイ)を守るため
に嘘をついたことも、自分と自分の家族だけの救いを求めたことも、人の側から見るなら道徳
的にどうかと首をかしげることかもしれないが、神の側から見られたら、「良し」とされている。 
神の視点と人の視点は、まるで正反対のようにも思える。 
 
神を畏れ神を第一にするまでの彼女は、その生活の中で、心は、どうであったのだろうか。 カ
ナンで神殿娼婦もしくは遊女をしなければ、家族を養えなかった現実があったのだろうか。 好
き好んで神殿娼婦(遊女)をしていたのではなかったように感じるのだが。 土地の豊穣を得る
ことができるために神殿娼婦をしていたとしても生活のために遊女をしていたとしても、心の表
面や行動とは裏腹に、彼女の心の奥には、様々な葛藤があったのかもしれない。 また、推測
ではあるが、心の奥底ではカナンの地の神は、はかないものであり、人を幸せにするどころか
不幸にするものではないのかとまで考えていたかもしれない。 
 
神は、そのような彼女の心の奥に目を留められたのではないのだろうか。 ラハブの心の奥
あるものが、真の神を受け入れる要素があったかどうかを神は見られていたであろう。 軽い
次元で信じるというのではなく、神のために命をかけることができるのかどうか見ておられた
と思う。 いろいろ葛藤があっても、自分では抜け出すことができなかったラハブは、真の神の
ことを聞いて、悔い改めてへりくだったとき、そこから抜け出す力さえ与えられた。 神が介入
れるということは、そういうことでもある。 ラハブは、自分と自分の家族が救われたことについ
て、自分のような罪人も悔い改めて信仰によって救ってくださる救いの神を信じたが、エリコが
崩れ滅んだことも、ラハブは裁きの神を信じたゆえに、ある意味冷静に受け入れたのではない
だろうか。 
 
新約聖書 へブル人への手紙11章では、信仰の勇者たちの名まえが書かれているが、その
中で女性の名まえはアブラハムの妻サラと遊女ラハブが記されている。 ラハブの肩書きを
「遊女」と書いているが、決して見下しているようには受け取れない。 むしろ、その肩書きを付
けることによって神の偉大さ、愛の深さ、あわれみ深さ、神の正義が示されているように感じら
れる。 
 
ところが、「遊女でも救われたんだから…。 遊女に与えてくださった信仰を我々にも与えてくだ
さる神に求めよう・・・」などと、よく教会やキリスト者たちが言うが、その中には、「遊女」という、
ある意味、見下す心、一般とは違う差別的な見方、意味合いなどを含んでいるのを感じられる
ことがある。  話す言葉の表現は正しくても、その言葉の出所に問題があるという場合が結
構ある。 ただ、そのことに気づいていない人が多いのも事実ではないかと思う。 心の奥に
「見下し」「蔑(さげす)み」「差別」「ねたみ」「神に逆らう自尊心」・・など潜んでいるのが原因
ではないかと思われる。 
 
ルカによる福音書7章にイエスに香油を注いだ一人の「罪深い女」のことが書かれている。 ル
カの記す「罪深い女」とは、娼婦や遊女を指す言葉である。 新約聖書のどこを読んでも、マグ
ダラのマリアが娼婦であるとは書かれていないが、昔から「マグダラのマリアは娼婦だったかど
うか」ということがキリスト教会の中でも意見がいろいろ分かれていたと聞いたことがある。 と
いうことは、そのことをある意味、問題視していたということであろう。 
 
復活後、一番最初にイエスの顕現を体験したのが、マグダラのマリヤだから、そのような人が
娼婦や遊女であるはずがない、あるべきではないという意見。 また、そのような娼婦や遊女
が、一番最初にイエスの顕現を体験したことは、すばらしい、・・・とかいろいろ。 聖書の事実
を調べるために必要な場合はあるのかもしれない(?)が、「マグダラのマリヤが香油を注いだ
女と同じ人物であったかどうか」「マグダラのマリアは娼婦だったかどうか」は、どちらでもいい
ではないかと思った。 イエスは、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の
国にはいる。(マタイ21:31)」と言われたが、主が人の心の奥を見ておられた証拠ではないだ
ろうか。 主から見られたらこの世の善人も遊女もみな罪人である。(ローマ3:23) 
 
今日、テレビなどの影響や社会のモラルの低下などによって、「遊女」「娼婦」「売春」「不倫」・・
などに対して罪悪感や喪失感など薄れてきているように思われる。 手っ取り早くお金を得ら
れたらいいなどと安易に考える者も多くなったのかもしれない。 当時のラハブは、霊的真理に
ついてはほとんど無知同然であったし、天地創造主、真の神について、イスラエル人同様の知
識があったわけではない。 今日の人々も当時のラハブ同様、霊的真理について無知である。 
しかし、ラハブはイスラエルの出エジプトのときの奇跡やエモリ人の王シホンとオグの出来事だ
を聞いて、「天と地を造られた創造主」を信じ悔い改めてへりくだった。 今日、「天と地を造
られた創造主」の情報量は、ラハブの時に比べてはるかに多い。 ただ、闇の勢力も強く、
人々が主なる神を知ることを強く妨げていることも事実である。
 
しかし、それ以上に問題なのは、キリストを信じているキリスト者であれ、未信者であれ、人の
心の奥に潜んでいるもの対処されずに残っていることではないかと思う。 「自分は、キリス
トを信じているから大丈夫」というところにあぐらをかいていてはいけないと思うのだが・・。 神
は、我々人に、いろいろなかたちで問いかけておられる。 語っておられる。 ラハブのように、
それに素直に応答できるように しておきたいものである。 いよいよ、「主と主のみこころ」
知ろうと(霊の)耳を澄ましながら、日々の生活をしていきたいものである。
 
★旧約聖書 箴言 4:20
   わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。 わが子よ、わたし
   の言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。




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