めんどり通信/2017年3月19日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <イエスの系図にある女「ルツ」と「ナオミ」についての思考> |
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★旧約聖書 詩篇 4:3
しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主
はわたしが呼ばわる時におききくださる。
★旧約聖書 詩篇 86:11
主よ、あなたの道をわたしに教えてください。わたしはあなたの真理に歩みます。心をひと
つにしてみ名を恐れさせてください。
●旧約聖書のルツ記から「ルツ」について、いろいろ思考してみる。 「ルツ記」は4章だけであ
る。 あらすじは、こうである。 エリメレクという人が妻ナオミと2人の息子マロンとキリオンを
連れて飢饉のために、ユダのベツレヘムから隣国モアブへ移って行った。 ところがエリメレク
は死んでしまった。 異国の地でナオミは、女一人で2人の息子を育てた。 2人の息子は、モ
アブの娘(ひとりの名はオルパ、ひとりの名はルツ)をそれぞれ嫁に迎えた。 しかし、10年ほ
どで2人の息子も死んだ。 息子たちに子どもは授かっていなかったようである。
やがてナオミにユダの地を襲った飢饉は終わったとの情報が入った。 それで、ナオミは帰国
することを決断した。 「主がその民を顧みて、すでに食物をお与えになっていることを聞いた
(ルツ1:6)」と書かれている。 ただ単に飢饉が終わったというのではなく、「主がその民を顧み
て」終わらせてくださった、ということこそ、ナオミが帰国を決意した理由であることがわかる。
帰国の途についたナオミと嫁2人だが、ナオミは思い直して2人の嫁オルパとルツにそれぞれ
実家に帰るよう説得した。 「帰りなさい。(ルツ1:8,11,12)」と3度言われたオルパは、自分の
民と自分の神々のもとへ帰って行った。 4度目、ナオミに「あなたも相嫁(オルパ)のあとにつ
いて帰りなさい」と言われたとき、ルツは、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの
神です。(ルツ1:16)」と告白した。
ナオミとルツは旅をつづけて、ついにベツレヘムに着いた。 貧しい人のために「落穂を拾って
も良い」という規定があったので、ルツはナオミとの生活のために、落ち穂拾いをして働いた。
(レビ記19:9、23:22、申命記24:19) ルツが入った畑が、はからずもナオミの夫エリメレクの
遠縁に当たるボアズという有力者の畑だった。 ボアズは、ルツに、ことのほか親切であった。
ナオミはイスラエルの習慣である買い戻しの権利を思い出し、なんとかしてルツをボアズと結
婚させたいと思い立って策を練り、ついに二人を結ばせるのに成功した。 ボアズとルツに、男
の子オベデが生まれた。 オベデは、後のダビデ王の祖父にあたる。
以上が簡単なあらすじである。 ルツ記では、当然「ルツ」が主人公であり、「ルツ」を通して
我々は学ぶところが多い。 しかし、忘れてはならないのは、「ナオミ」の存在である。 異国の
地で夫を亡くした女が生きていくことだけでも大変な時代であるのに、2人の息子を育て嫁を迎
えた。 それだけでも相当な苦労があったことと推測できる。 その上、2人の息子も亡くし、孫
もいなかったようだ。 ナオミの悲哀が伝わってくるようだ。
そのようなナオミに嫁たちは、自分たちにとっては異国の地であり、生活習慣も礼拝する神も
違うベツレヘムに帰るナオミについて行くと言った。 ナオミに仕え、ナオミの世話をするという
ことである。 ルツもオルパも姑に、やさしい、情に厚い。 言いかえれば「愛」がある。 姑ナオ
ミも彼女たちに対して やさしかった、愛があったと推測できる。 いつの時代にも絶えない嫁
姑問題。 しかし、ルツとオルパとナオミには、そのような問題の心配はなかったようだ。
ただ、「やさしさ」「情に厚い」だけでは、最後までナオミについて行くことはできない。 「やさし
い、愛する」というのは、この地上で生活するには、十分役立つし、人間関係を円満にするた
めには必要なことであろう。 しかし、神に従っていくには、それでは足りない。 もちろん、「愛
する」ということは重要である。 主も「主を愛する者は、神に愛される」と仰せられた。(ヨハネ
福14:15-24) ヨハネは「神は愛である(Tヨハネ4:16)」と言っているが、キリスト者も「神を愛
する」とよく口にする。 しかし、「愛する」という言葉は、一般的には通用するかもしれないが、
神が望まれている「愛する」というレベルに達している者は少ないかもしれない。(Tコリント1
3:4-8)
さて、ナオミは3度「帰りなさい。(ルツ1:8,11,12)」と2人に言った。 そして、オルパは帰って
行った。 一方、ルツは、ナオミの4度目の「帰りなさい(1:15)」という言葉を受けて、「あなたの
民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。(ルツ1:16)」と告白した。 このようにして見
ると「3度」というのは、ある意味、「試し」だったのかもしれない。 そして「4度目」の後のルツの
告白を聞いたナオミは、「もうそれ以上は何も言わなかった。」と書かれている。 ルツは、神か
らの「試し」に合格したと言える。 「4」は、聖書においては宇宙、世界をあらわすと言われてい
るが、完全な試みを経たことも意味するらしい。(モーセが十戒を受けるまで40日間シナイの山
中にいたこと、イスラエルの民の荒野の40年間の放浪生活、イエスの40日にわたる荒野での
試みなど)
オルパもルツも父親が亡くなっていたのかもしれない。 通常、「父の家」と言うが、ナオミは
「あなたがたは、それぞれ自分の母の家に帰って行きなさい。(ルツ1:8)」と言っているから
だ。 たとえ父親がいなくても母親がいる。 彼女たちは、まだ若かったようなので、実家にい
たなら再婚もできるであろう。 オルパもナオミに対して、やさしく、ナオミを愛していた。 しか
し、ナオミから離れて行った。 自分の民と自分の神々のもとへ帰って行ったオルパは、その
後、モアブの母の家、すなわち、モアブの民とモアブの慣習、モアブの神々の支配の下へ帰っ
て行った。
オルパもナオミからイスラエルの神、真の神について聞いていたと思われるが、turn back
(後
戻りした)彼女は、次第にモアブその色に染まっていったのではないだろうか。 ナオミに示し
たやさしさ、情に深い言動をもってこの地上では幸せに暮らしたかもしれない。 しかし、イスラ
エルの神とは関係ない。 真の神とのつながりがない。 この地上で幸せに暮らしたのなら、そ
れでいいではないか、と思うかもしれないが、人は死後に行くべき所がある。 この地上で、真
の神とのかかわりを持つこと、真の神、主イエス・キリストにつながること、すなわち、「救われ
ること」が、その人の行くべき所を決定する。 ただ、死ぬまでキリストのこと、真の神のこと、
5月3日。/2015年12月6日)を参照してほしい。
なお、もしかしたらオルパは、モアブの中でもナオミから聞いた真の神のことを思い出して、神
への「信仰」を少しずつ成長させていったということもあり得るかもしれない。 エジプトに売られ
たヨセフは神からの訓練試練を受けながら砕かれ、「信仰と霊」が成長し整えられていったか
らだ。 神の幸いなご計画の中に入れられていたことが書かれているからだ。 ただ、オルパ
の場合、ヨセフのように訓練試練により砕かれ変えられたと聖書に書かれておらず、むしろ、
「自分の民とその神のところへ帰って行きました。」と書かれているのは気になるところではあ
る。 だから、真の神への「信仰」を全うできたかどうかは定かではない。
ルツはナオミに対して「やさしさ」を示し、ナオミを「愛した」。 ここまでは、オルパと同じである。
しかし、ルツはナオミを「愛した」だけでなく、「尊敬していた」のではないだろうか。 「尊敬」と
は、その人の人格をとうといものと認めてうやまうこと。 人格・識見・学問・経験などのすぐれ
た人を,とうとびうやまうこと、と辞書には書いてある。 ナオミは、ルツとオルパに全能の神で
あるイスラエルの神のこと、イスラエルの歴史(アダムとエバのこと、ノアの箱舟のこと、アブラ
ハムのこと、モーセのこと、出エジプトのことなど)も話したのではないかと思われる。
ナオミの普段の生活の中で、あまりにも苦しくて愚痴を言ったり、弱音を吐くような言葉を並べ
たりというようなこともあったのだと推測できる。(1:20,21) しかし、そのような状態のときでも
嫁たちにやさしく接していたのではないだろうか。 また、嫁たちも、そのようなナオミを見て、
かわいそうにと思いやさしくするということもあったかもしれない。
しかし、たとえ、ナオミのそのような外側の言動がどうであれ、ルツが見ていたのは、ナオミが
神に立ち返った歩みをしているところを見ていたのだと思われる。 日々の生活の中で、大き
い小さいにかかわらず何かを決断したり判断したりしなければならない時がある。 ナオミは、
そのような時には必ず、神に立ち返って決断、判断していたのではないだろうか。 事実、帰国
を決断したときも、ナオミは神に立ち返っている。 神への「信仰」がある。 ルツは、ナオミの
外側ではなく、内側、ナオミの心がどこに向いているのかを見ていたと思われる。
ナオミを愛するということは、ナオミに焦点が定まっているが、ナオミを「愛し、尊敬する」こと
は、ナオミを通してナオミの「神を敬う」ことである。 ルツは、真の神を信じているナオミを尊敬
していたのではないだろうか。 そういうわけで、モアブに帰ったオルパとナオミについて行った
ルツの違いは、ナオミを尊敬していたかどうかであろう。 「尊敬する」という言葉は一般的にも
よく使われるが、その人の人格がどこから来ているかを見ることがある意味、本当に尊敬する
ということかもしれない。
ルツは、ナオミを「尊敬」していたからこそ、ナオミを愛し、ナオミを支えよう(仕えよう)とついて
行くことができたのだと思われる。 「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神で
す。(ルツ1:16)」という言葉は、「信仰」の言葉であるが、それは、ナオミを「尊敬し、愛してい
た」から言えた告白ではないだろうか。 そして、ナオミを「尊敬し、愛していた」からボアズと結
婚させるためにナオミがルツに指示した一つ一つのことに従順に従うことができたのであろう。
旧約時代からずっとユダヤ世界だけでなく、キリスト教会においても家父長制社会の影響で男
性中心の世界観、価値観、男女観になっていると言われるが、ルツ記では、ナオミの夫エリメ
レクが死に、2人の息子が死に、2人の嫁の実家の父が死んでいる。 神は、「男」ではなく、
「女」に焦点を当てておられるかのようだ。 事実、ルツは、マタイによる福音書に記されている
イエスの系図の中に名まえが書かれている。 ナオミの孫(ボアズとルツの子)の3代目は、ダ
ビデであり、それから一千年余を経て、その家系からイエス・キリストが誕生した。 聖書の中
で、このように要所要所に神のご計画になくてはならない「女」を組み込んでいるように思える。
いずれにしても、日々の生活の中で、「やさしさ」「愛」が、神の望まれているレベルに達するよ
うに取り組みたいものである。 人に対して「やさしさ」を示すだけでなく、進んで互に愛し尊敬し
合えるようになりたいものである。 そして、誰よりも何よりも口先だけでなく、心から神を敬う
者として整えられたいものだ。(ローマ12:10)
★旧約聖書 伝道者の書 3:14
わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、
これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつよう
になるためである。(神は人間が神を畏れ敬うように定められた。:新共同訳)
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