めんどり通信/2017年2月5日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <アブラハムとサラについてのいろいろな思考(2)> |
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★新約聖書 ローマ人への手紙 2:28、29
外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではあり
ません。 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊によ
る、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:7
ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
●前回のめんどり通信/2017年1月29日で、アブラハムとサラの改名について書いたが、その
ことからいろいろ思考してみた。 「アブラム」に、日本語で「ハ」、ヘブル語では「ヘイ」という1
字が与えられて、「アブラハム」となり、「サライ」は、ヘブル語のヨードという1字が省かれ、そ
の代わりに「ヘイ」の1字を与えられて、「サラ」になった。 このように、2人とも原語のヘブル語
では「ヘイ」が付き、この「ヘイ」は、ヘブル語の「ハーラフ」の頭文字で、「ハーラフ」とは「歩む、
歩き回る」という意味の動詞だということだった。(創世記17章)
さて、この改名のときに、アブラハムとサラのそれぞれに与えられた原語のヘブル語で「ヘイ」
という字は、「あばら骨」の形をしているという。 「あばら骨」といえば、創世記2章21-24節で、
神が、アダムにふさわしい助け手を造ろうと、人を深く眠らせ、彼の「あばら骨」の一つを取っ
て、ひとりの女(エバ)を造られた。 そして、アダムとエバは、エデンの園で神との親しい交わ
りをもった。 また、神は人を愛しておられたので、アダムとエバは、神から「自由意志」を与え
られていた。
この時点で、罪は入っていない。
ところが、エデンの園で、まずエバが「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。必ず
死ぬ。(創世記2:17)」という神のことばに疑問を持たせる蛇の誘いに乗ってしまい、「食べても
あなたがたは決して死なない。(創世記3:3,4,5)」という蛇(サタン)の誘惑のことばを選び、その
実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3:6) そのことを神に
指摘された時、アダムもエバも言い訳して自分をかばい、人のせいにして悔い改めようとしな
かった。 こうして、アダムとエバは「罪」を犯して、全人類に「罪」と「死」が入ってきた。 「これ
こそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。(創世記2:23)」と言って喜んでいたが、「一
体」は崩れた。 神の御顔の前での親しき交わりはできなくなった。
「罪」を犯したアダムとエバは、エデンの園から追放された。 追放される時、主なる神は、アダ
ムとその妻のために、「皮の衣」を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3:21) この「皮の
衣」は、それを作るためには、動物の血が流されている。 これはキリストの十字架の贖(あが
な)いの血を示唆している。 「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない(へブル9:22)」と
聖書に書かれているが、イエスが十字架で血を流してくださった、すなわち、死んで下さったか
ら「罪の赦し」がある。 イエス・キリストの十字架の血が、罪の問題を解決してくださった。 ア
ダムとエバの時、神の側からはすでに「人間に対する神の壮大な救いのご計画」を始めてくだ
さっておられたのである。 「衣」は、聖書には、サタンの誘惑に勝利して主に留まり続け、神か
らの訓練試練に耐えた者には、「白い衣」が与えられることが約束されている。(黙示録3:5)
さて、アブラハムとサラが改名することで与えられたヘブライ語の「ヘイ」は、「あばら骨」の形を
していることから、神の御前で人(男と女)を「一体」となることを回復されたのではないだろう
か。 「あばら骨」の形をしたヘブライ語の「ヘイ」がそれぞれに与えられての「アブラハムとサ
ラ」であるからだ。 また、人が「自由意志」を正しく使えるようになるために、神が、神からの材
料(あばら骨)を二人に与えられたのでないだろうか。 「あばら骨」が与えられたことにより、人
に与えられている「自由意志」を正しく使えるように、神が責任をもって、訓練し導いてくださると
いうことではないだろうか。
そして、この「あばら骨」は、「キリスト」を表わすのかもしれない。 男と女が、キリストによって
「一体」となるだけでなく、「男と女」、すなわち「人」が、「キリスト」と「一体(一つ)」となって、「神と
交わる」こと。 「キリスト」と「人」が「一体(一つ)」となって、「神とともに歩む」ことを、神がご計
画してくださったのではないだろうか。 アブラハムとサラの改名は、新しくされた者が、神の責
任において、罪の入った人を作り変え、成長させ導いて整えてくださることを示しているのでは
ないだろうか。 アブラハムとサラの改名で、ある意味、スタートの仕切り直しではないかと思う
のだが・・?。 突拍子もない推測だろうか?
アブラハムが、「神とともに歩む」、「神の御顔の前で歩き回る」、すなわち、主なる神に留まり
続け、親しく友のように交わるからこそ、「信仰の父」と呼ばれているのではないだろうか。 聖
書の登場人物の中で、神が「わが友」と呼ばれたのは「アブラハム」だけである。(イザヤ41:
8、ヤコブ2:23) 「救い」はアブラハムから始まり、「信仰」をもつ者のあるべき生き方、歩み方
もアブラハムから始まったと言えるかもしれない。
真にキリストを信じて「神とともに歩む」、「神の御顔の前で歩き回る」、すなわち、「主なる神キ
リストに留まり続ける者」、「親しくキリストと交わる者」を、主イエス・キリストは、「友」と呼んでく
ださる。(ヨハネ福15:14) そのことに真剣に素直に取り組む者に、主は「割礼を受けよ」と命
じられる。 アブラハムの時代は、実際の「肉の割礼」だったが、神との永遠の契約のしるしと
して、アブラハムは、神が命じられると直ちに素直に神のことばに従った。 そのことで、アブラ
ハムは、「肉の割礼」だけでなく、「心の割礼」も受けた。 パウロは、この「割礼」について、「心
の割礼こそ割礼です」と言っている。(ローマ2:29)
神の子としての身分をいただくことができ、神のものを受け継ぎ、神の国を相続することのでき
るのは、アブラハムの子孫である。 アブラハムの子孫とは、「肉の割礼」ではなく、「心の割
礼」を受けた者。 すなわち、肉が切り取られ、自我が砕かれた者、砕かれつつある者である。
そのように神に導かれている者がアブラハムの子孫である。(ガラテヤ3:7) 真にキリストを信
じて「神とともに歩み」、「主なる神キリストに留まり続けること」、「親しく主と交わること」に、真
剣に取り組んでいきたいものである。
★旧約聖書 創世記 2:24
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
★新約聖書 コリント人への手紙 6:17
しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
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