めんどり通信/2017年1月29日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <創世記17章と18章から、アブラハムとサラについてのいろいろな思考> |
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★旧約聖書 詩篇 33:11
主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。
★旧約聖書 箴言 19:21
人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。
●アブラハムに関しては、学ぶべきところが多いが、創世記17章18章を読んでいて、気になる
ところがあったので、いろいろ思考してみた。 ハガルのことがあって、アブラハムに神の顕現
が13年間にわたってなかった。(創世記16章:めんどり通信/2017年1月22日参照) その間、
アブラハムは、日々の生活の中で何らかの形で砕かれ整えられていったのかもしれない。 た
だ、それは、神が望まれていたレベルとは違っていたようである。 17章18章を読んで、そう
思った。
それでも、神がご自身のご計画を進められる。 99歳の時、主はアブラハムに語ら
れた。
★創世記17章1節「・・・わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であ
れ。」 2節「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをお
びただしくふやそう。」
創世記17章1節と2節の間に、原文では2節の頭に「そうすれば」という接続詞「ヴェ」があるとい
う。 したがって「そうすれば、わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。・・」
となるらしい。 また、1節の「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」は、ヘブライ語原典
では「わたしの顔の前に歩き回れ。そして完全(傷のない、純情という意味もある)な者であ
れ。」ということらしい。
本来、人間には「罪」が入っていなかった。 堕落していなかった。 その頃の「アダムとエバ」
は、エデンの園で自由に平安に神と交わりをしていた。 アダムとエバは、神の御顔を見て、神
と話していた。 アダムとエバは、神に対して絶対的な信頼を持ち、神につながっていた。 神
に対して、純情であり、傷もなく、完全であった。 いわば、神の御顔の前で歩き回っていたと
いうことである。 「全き者であれ」はそういうことである。 イエスが、弟子たちに言われた「完
全な者となりなさい(マタイ5:48)」も同じである。 「神の御顔の前で歩き回る」、すなわち、主
に対して絶対的な信頼を持ち、主につながって、主と共に歩むということである。
また、17章で、主は、「アブラムをアブラハム(17:5)」、「サライをサラ(17:14)」と改名を命じられ
た。 「アブラム」に、日本語で「ハ」、ヘブル語では「ヘイ」という1字が与えられて、「アブラハ
ム」となり、「サライ」は、ヘブル語のヨードという1字が省かれ、その代わりに「ヘイ」の1字を与
えられて、「サラ」になったという。 このように、2人とも原語のヘブル語では「ヘイ」が付く。 こ
の「ヘイ」は、ヘブル語の「ハーラフ」の頭文字で、「ハーラフ」とは「歩む、歩き回る」という意味
の動詞だという。
「ハーラフ」という言葉は、聖書の中では、相当な数が使われているらしいが、聖書で最初に登
場するのは、創世記のエデンの園においてである。(創世記3:8) 主なる神は、園の中にアダ
ムとエバが見えないので、歩き回っておられた。 アダムとエバの名まえを呼びながら歩き回っ
ておられたのかもしれない。 その声を聞いて、「罪」を犯して堕落した二人は隠れた。 人が、
神と人を隔てる壁(罪)を築いてしまったのだ。 そして、神の御顔の前で「一体」であったアダ
ムとエバの正しい関係さえも崩れてしまった。
その後、「ハーラフ(歩く、歩き回る)」は、エノクやノアが「神とともに歩んだ」というところで使わ
れているという。(創世記5:22、6:9) アブラハムもウルから呼び出され、父の家を出て(12:
1)、カナンへ導かれ、ロトと別れた時には、「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。(13:1
7)」と言われ、イサクをささげに「モリヤの地に行きなさい(22:2)」と言われて、アブラハムとイ
サクは「歩き続けた。(22:8)」 これらのところには、「ハーラフ」が使われているという。 他に
も「ハーラフ」が使われているところは、聖書の中には多々あるという。
ペテロは、主に従うキリスト者を、「旅人であり寄留者であるあなたがた」と言っている。(Tペテ
ロ2:11) へブル人への手紙の著者は、信仰の人々を、「地上では旅人であり寄留者である」
と言っている。(へブル11:13) 「旅人」「寄留者」は、「ハーラフ(歩む、歩き回る)」。 このよう
に、天の御国に向かって「神の御顔の前で歩き回る」ことは、本来、人のあるべき本当の姿で
ある。
また、アブラハムとサラの2人とも原語のヘブル語では「ヘイ」が付いているが、このことは、堕
落する前のアダムとエバが、「一体(創世記2:24)」だったように、アブラハムとサラが、改名す
ることで、「一体」となり、「神の御顔の前を歩み、全き者となる」ことを意味していると思われ
る。 そのためには、「神の前を歩み、全き者である」ことを、アブラハム自らの意志で、自発的
に「信仰」を働かせて、神の前に歩んでいくことが必要となっていく。 サラも同様である。
アブラハムが「一体」となるべき相手は「サラ」である。 「純情である」ということは、「混じりけ
のない」ということであるから、アブラハムとハガル(エジプト人)との間の子イシュマエルは、神
のみこころでなかったということである。 それでも、主は、ハガルとイシュマエルを、あわれん
でくださったが。
さて、神は、神とアブラハムと彼の子孫との間に永遠の契約を結ぶと仰せられ、「割礼」を受け
るように仰せられた。 ついで、サラによって、ひとりの男の子を与え、サラを祝福すること仰せ
られた。 その時、アブラハムは、そんなことは、あるはずはないと笑った。(17:17) そして、
「イシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」と神に申し上げた。 しかし、神
は、「来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」と仰せられた。(1
7:21) 神は語り終えられると、アブラハムを離れて昇って行かれた。
そこで、アブラハムは、その日のうちに、神とアブラハムとの契約のしるしとして、「割礼」を受
けた。 アブラハムは、息子イシュマエルやしもべなどアブラハムの家の人々のうちのすべて
の男子を集めて包皮に「割礼」を施した。 そんなことは、あるはずはないと笑ったアブラハム
だったが、すぐさま、神のことばに従って「割礼」を受けたことで、体の肉が切り取られただけで
なく、心の皮も切り取られて、変えられ、成長した部分があると思われる。
だから18章で、天幕の入口にすわっていたアブラハムは、3人の人を見るなり、彼らが普通の
人ではないとわかった。 「目を上げた時」は、ヘブライ語原典には「すると見よ(ヴェヒネ)」とい
う言葉が使われおり、この「ヴェヒネ」は「新しいものを見て驚く様子」を表す言葉だという。 3
人は神から遣わされた存在であり、その中の1人をはっきりと「わが主」だとアブラハムは、わ
かったという。 事実、1人は主で、2人は御使いである。 だから、アブラハムは、最上のもて
なしをしている。
さて、17章18章を読んでいて気になったところは、アブラハムが、そんなことは、あるはずはな
いと笑った、そのことを神は指摘されなかったことだ。 ところが、18章では、サラが、アブラハ
ムと同じように心の中で笑って、「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに
主人も年寄りで。」と言うと、主は、「サラはなぜ(不可能だと)笑ったのか」とサラにではなく、
アブラハムに指摘されたことだ。
多くは、アブラハムとサラは不信仰だったという。 他、「サラを祝福し、彼女によって男の子を
与える」と言われた主のことばをアブラハムがサラに伝えていなかったのかという意味で、主は
アブラハムに「なぜサラは笑ったのか」と言われたという意見もある。 17章の出来事から18章
の3人の人に会うまでの時間は、ユダヤ教の伝承によると、アブラハムが「割礼」を受けてから
3日目だったと言われているが、数日から数週間という意見が多いようだ。 もし、たとえ、サラ
に伝えていなくても「割礼」を受けて、傷が完全に癒えていないアブラハムに同情し、サラは不
信仰という意見も多い。
いずれであっても、サラは、主の後ろの天幕の入り口で聞いていたが、自分の心の中で思った
ことを言い当てられ、自分の考えが全能の神より上に立つという愚かではすまないことだと即
座に悟って恐ろしくなり、思わず「私は笑いませんでした。(18:15)」と言ったのかもしれない。
アブラハムが「割礼」を受けて砕かれたように、サラは神を恐れて砕かれたのではないだろう
か。 それでも、まだまだ先がある。 神が、アブラハムとサラを選ばれた。 だから、神のご責
任において、不完全な者を完全な者に段々と変えられていく。
このように、いろいろ読みながら考えていくと、結論として思うことは、アブラハムとサラが準備
が完全になされていなくても、神ご自身が定めておられる「時」が来たら、必ず実行なさる方で
あるということ。 アブラハムとサラのように、明確に神が選ばれている者たちに対して、たと
え、その者たちの成長具合、状況、環境などいろいろな面で神が望まれているレベルと違いが
あったとしても、神のレベルに達していないとしても、神ご自身が定めておられるご計画に変更
はなく、そのご計画は進んでいること。 そして、神は、まことにまことに、ご計画を実現される
方であるということを、つくづく思う。
「神の前を歩み、全き者である」ことを、我々自らの意志で、自発的に「信仰」を働かせて、神
の前に歩んでいくことに取り組んでいきたいものである。 そして、天の御国に向かって「神の
御顔の前で歩き回る」という、人のあるべき本当の姿、神の喜ばれる姿でありたいものだ。
★旧約聖書 詩篇 56:13
あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいま
した。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。
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