めんどり通信/2016年12月4日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <土曜日に礼拝するのか?日曜日に礼拝するのか?いつ礼拝するのか?> |
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★新約聖書 マタイによる福音書 5:17、18、12:8
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するため
にではなく、成就するために来たのです。 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅び
うせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就さ
れます。 人の子は安息日の主です。
★旧約聖書 ミカ書 6:8
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられる
のか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと
ではないか。
●多くのキリスト教会は、キリストが復活された日曜日を「安息日」として礼拝している。 それ
でキリスト者(クリスチャン)たちは、礼拝するために、日曜日に教会へ行っている。 イエスを
メシアと信じるユダヤ人メシアニック・ジューたちや一部の教会は、土曜日を「安息日」として礼
拝するために集まっているという。 日曜礼拝をするべきか土曜礼拝をするべきか、はたま
た、そのような形に拘(こだわ)らずに礼拝するべきか、と教会、キリスト者たちの間でいろいろ
意見があるようだ。
そもそも、「安息日」は、天地創造のとき、「神が天地を6日間で創造し、7日目に休んだ」ことに
由来している。 創世記などの旧約聖書は、ユダヤ教が神のことばとして正典にしている。 旧
約聖書は、ユダヤ教で成立した。 ユダヤ教では週の最後の日、7日目の「安息日」は土曜日
である。
創世記の創造とキリストの十字架と復活を照らし合わせると、人(アダム)が、造られたのは金
曜日。 イエスが十字架につけられたのも金曜日。 7日目は、神は、なさっていたすべての
(創造の)わざを休まれ、神はその第7日目を祝福し、この日を聖であるとされた。 「安息日」
(土曜日)である。(創世記2:1-3) 一方、土曜日、イエスは、墓の中におられた。 8日目につ
いて、創世記には何も書かれていない。 日曜日であろう。 一方、日曜日、イエス・キリストは
復活された。 復活されたキリストは、今までの我々と同じような体ではないので、今後も弟子
たちと共におられることを教えるために復活後40日間、弟子たちの前に現われたり、姿を隠さ
れたりを繰り返された。(マタイ28:20、ヨハネ福20:14-21:23、ルカ24:13-51、使徒1:4-12)
さて、6日目(金曜日)に造られた人祖アダムとエバは、罪を犯したので、人類の中に「罪」が入
り、「罪」によって「死」が入ってきた。 アダムとエバが造られて、蛇の誘惑を受けるまでの期
間は、どのくらいあるのか書かれていないが、もしかしたら、アダムとエバが、蛇にだまされて
「罪」を犯したのは、金曜日なのかもしれない。 これは、あくまでも推測の域にすぎない
が・・・。 いずれにしても、キリストは、そのすべての人の「罪」を一身に受けられ、罪そのもの
となられ、我々の身代わりとして十字架で死んでくださった。 「罪と死」から、我々人間を救う
ためである。
7日目(土曜日)は、「安息日」である。 「安息日」についての律法は、「安息日を覚えて、これ
を聖なる日とせよ。・・・あなたはどんな仕事もしてはならない。・・・(出エジプト20:8-11)」であ
る。 一方、イエスは、「律法や預言者を成就するために来た」と仰せられ、律法のすべてを成
就された。 キリストが十字架の死の後、墓に葬られたが、十字架で死なれた翌日、すなわち2
日目、きれいな亜麻布に包まれたキリストの体は、墓の中で横たわっておられた。 ここで思う
のに、キリストは2日目に復活されても よかったのではないか? しかし、2日目は、「安息日」
だから避けられたのだろうか? 墓にとどまることで、律法を成就されたのではないだろうか?
そのように考えるなら、我々の代わりに「安息日」を守ってくださった、律法を行なってくださった
と言えないだろうか? そう言うには無理があるだろうか?
キリストは十字架につけられて3日目に復活されたが、その日は、日曜日である。 創世記で
いうなら8日目である。 キリストは、新しい体、栄光の体で復活された。 復活の体は、ある時
は肉眼で見え、ある時は肉眼で見えない。 「イエス・キリストは、私の罪のために十字架につ
けられ、死んでくださり、三日目に復活されて今も生きておられる。 キリストは私の主であ
る。」と告白するなら救われる。(ローマ10:9,10) キリストの十字架の死と復活が、律法を成就
した。 キリストの復活は新しい創造であるが、また、これは、創世記でいうなら8日目である。
この8日目については、エゼキエル書43章27節に「この期間が終わり、八日目と、その後は、
祭司たちが祭壇の上で、あなたがたの全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげなければ
ならない。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れる。」と書かれている。 エゼキエル書
43章には、新しい神殿に「主の栄光」が戻る幻、新しい神殿の聖なる祭壇についての幻が書か
れている。 2頭ずつのいけにえをささげることを7日間行ない、それで祭壇の贖いが完成す
る。 そうすれば約束があり、「わたしはあなたがたを受け入れる」ということである。 すなわ
ち、8日目になってはじめて、神に対して全焼のいけにえや和解のいけにえを奉げることがで
きるということである。 8日目に贖いはイエス・キリストによって完了したということである。
「全焼のいけにえ」の「全焼」の原語は「オーラー」、「上る・登る」で、「いけにえ」(献げ物)の原
語は「コルバーン」:その語源となる動詞は「カーラヴ」で、語源は「近づく・進み出る・ささげる」
である。 「ささげる」とは「ささげ物」を主に「近づける(近づけさせる)」という行為である。 全焼
のいけにえや和解のいけにえを奉げることができるということは、神と和解して、神に近づける
ということである。 そして、そのことは、イエス・キリストの十字架の血によって神と和解させて
いただき、キリストの復活によって、それを信じる者たちが、その信仰によって大胆に確信を
もって神に近づくことができるようにしてくださったということだ。(コロサイ1:20、エペソ3:12)
そして、それは創世記でいうなら8日目である。
創世記とキリストの十字架と復活とを強引に見比べたかもしれないが、これらのことから、主が
望まれているのは、日曜礼拝、土曜礼拝などというのではなく、大切なことは、イエスが仰せら
れた「礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」ということだ。 「霊とまこととを
もって神を礼拝する」ということは、「神の霊によって新しく生まれた人の霊」と「まことなるキリス
ト(ヨハネ福14:6)」が一つになって神を礼拝するということである。 単に、「神を崇めます」と
口で言ったらいいものではない。 自分の生かされた新しい霊がキリストと一つになるというこ
とは、キリストと日々共に歩んでいなければできない。 礼拝のときだけ、キリストと一つになっ
て、礼拝が終わればキリストから離れるというのは、キリストと日々共に歩んでいない証拠であ
る。 イエスはキリスト者が、主ご自身に「とどまること」を命じられている。(ヨハネ福15:4-9)
結局のところ、最も大切なことは、一人一人が神ご自身と、しっかりつながること、それも深くつ
ながり続けることであろうと思われる。 とにかく、「キリストにしっかり、つながること」、「キリス
トにとどまり続けること」である。 すなわち、それは、「主なる神と自分」が完全に「一対一の関
係」になることでもある。 そうして、日々、神を礼拝することを、主が望まれているのではない
だろうか。 本当の安息である復活されたキリストに留まり続けていくことに取り組んでいきた
いものである。
★旧約聖書 サムエル記 第一 15:22
するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、そ
の他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾け
ることは、雄羊の脂肪にまさる。
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