めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年11月13日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
なぜ人は神からの試練(苦しみ)を通らなければならないのか:アブラハムとヨブから思考


★新約聖書 ペテロの手紙 第一 1:7
   信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・
   キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
 
★旧約聖書 ホセア書 6:6
   わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ること
   を喜ぶ。
 
●人はこの世で生きている以上、様々な「苦しみ」を体験する。 この世の中には多くの悪がは
びこり、不条理なこと、事故、災害、戦争、犯罪、貧困、難病・・・など、いつの時代にも絶えな
い。 今日、科学、医学、物理など、目まぐるしく発達して世の中いろいろな面で便利になって
いるにも関わらず、ますます世は悪くなっているようにも感じる。 しかし、それも仕方のないこ
と。 聖書に「この世の君(支配者)」「この世の神」はサタンであると書いているからだ。(ヨハ
ネ福12:31、Uコリント4:4) だから、悪いことや悪い人間が増えていくのも当然である。 悪が
増えるに比例して、人の「苦しみ」も増えてきたのかもしれない。 人の「苦しみ」が、自らの罪
や間違いによってもたらされたものであるなら、一般的には「自業自得」という言葉で片付けら
れてしまう。 また、日本では昔からよ「因果応報」とか「罰(ばち)が当たった」とも言われる。
 
主イエス・キリストを信じて、「キリスト者(クリスチャン)」になった者でも苦しむ。 ただ、キリスト
者の場合は、聖書ではっきり、「キリスト者は苦しみにあう」こと、「苦難を通る」ことが書かれて
いる。 「キリスト者」、すなわち、「神の子」であるなら、父なる「神からの訓練試練」があるから
だ。(ヘブル12:4-11)  人が個々に遭遇する一つ一つの「苦しみ」をもたらす事がらについて、
その原因や理由をすべて理解できていない場合も多い。 だから余計に「苦しむ」ことになる場
合がある。 
 
それでは、なぜ、「キリスト者(クリスチャン)」は、「神からの試練(苦しみ)」を通らなければなら
ないのだろうか。 聖書のみことば見てみると、このことに関して、いろいろ書かれている。 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 9:1〜3
   またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは彼についてイエス
   に質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからです
   か。この人ですか。その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したので
   もなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
 
★新約聖書 へブル人への手紙 12:6-8、10
   主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからであ
   る。」 ・・・神はあなたがたを子として扱っておられるのです。・・・もしあなたがたが、だれで
   も受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないので
   す。 ・・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、
   懲らしめるのです。
 
要は、神は訓練試練を与えられる者たちを愛してくださっているということである。 聖書の登
場人物も様々な試練にあっている。 「信仰の父」と呼ばれたアブラハム。 そして、「苦難の
人」と言われるヨブ。 アブラハムへの試練は、飢饉、ロトとの間の争い、サラの不妊、その他
多々。 そして最大の試練は、100歳で神の約束のことばによって与えられたひとり子「イサ
ク」を、神に全焼のいけにえとしてささげよという神の命令だった。 「神に全焼のいけにえと
してささげる」ということは、アブラハムが自分の手で、イサクを殺して、焼いて神にささげると
いうことである。 これほど厳しい試練であったが、アブラハムは、躊躇せずに、 翌朝早く、「主
のことば」に従った創世記22:1-19、ヤコブ2:21-23)
 
アブラハムは、イサクをささげることができるまでに、いろいろと神からの試練訓練を受けて、
成長していたとは言え、相当凄まじい試練であったことは間違いない。 イサクを自分の手で
殺して奉げるのではなく、アブラハム自身が犠牲の捧げ物として死ぬ方が、余程ましだったの
ではないかと思う。 結局、ささげ物にする小羊を神が備えてくださっておられ、「アブラハムの
信仰」「神は良し」とされた。
 
ヨブの場合は、ヨブは異邦人であった。 聖書では、ユダヤ人は、神が選ばれた民(選民)であ
り、神の特別な約束を受けている。 しかし、ヨブは、そのような特別の民の中にいたわけでは
なかったにもかかわらず、真の神を信じて、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた
いう。 「素直で純粋な人」であった。 ヨブは大変な資産家であり、東の人々の中で一番の富
豪であった。 ヨブには、七人の息子と三人の娘がいたが、彼らが、豊かさのゆえに、神を忘
れてしまうことがないようにと、常に祈り、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけに
えをささげたというほど、神に対して敬虔な者であった。
 
ところがサタンの挑戦によって、神の許された試練にあい、、家族や財産を一瞬にして失い、
健康も奪われて激しい苦しみの日々を過ごした。 友だちからも「罪を犯したから罰を受けてい
る。」と責められ、その上、神に叫んでも答えがなく、ヨブにかかったストレスは半端なものでは
なかった。 あまりにも積もり積もったストレスと心の奥、霊にまで傷ついた深い傷により、ヨブ
の心は限界を超え、それは、死を願うほどの苦しみだった。
 
ヨブを苦しめた一番大きなことは、この「苦しみの原因、理由がわからなかった」ことである。 
それを神に訴えている。 苦しみの最後に、神ご自身があらしの中からヨブに答えて仰せられ
たが、彼の苦難の理由はいっさい語られなかった。 創造と摂理、神の権威を示された。 一
言で言えば「お前(ヨブ)は被造物である」ということである。 
 
このように、アブラハムの試練やヨブの試練を見て思うのに、@神は、なぜアブラハムやヨブ
に厳しい試練を与えられたのか。 Aアブラハムやヨブの試練を、我々キリスト者全員が受け
なければならないのか。 Bアブラハムはなぜ、このような試練に従うことができたのか。 ヨ
ブはなぜ、神に訴えはしたものの、このような試練の中にとどまり続けることができたのか、と
いうことである。
 
@の答えとして。 アブラハムのこともヨブのことも、我々は、結末を聖書から知ることができ
る。 アブラハムは凄まじい試練を通ることによって、「神の友」と呼ばれた。 聖書で「神の友」
と呼ばれているのは、アブラハムだけである。 アブラハムが「神の友」となることを、神の方が
望まれていたと思われる。 ヨブは、厳しい試練を通ることによって、神に出会い、神の知恵に
出会った。 要は、「神を見た」ということである。 ヨブは、神が正しい方であることを頭では
知っていたが、試練を通ってからは、頭で知るのではなく悟った、神を見た。 神の正しさに心
底触れた。 神とヨブの「一対一の深いかかわり」を神の方が望んでおられたと思われる。 そ
のためにアブラハムにもヨブにも凄まじく厳しい試練を与えられたのであろう。
 
アブラハムとヨブの良い結末」を知っているので、我々もそのような試練が臨んだとき、「耐え
られるだろう」と安易に想うことは可能だが、実際、そのような試練が臨んだとき、本当に、この
ような学びは助けになるのか? 本当に、自分は、その試練に耐えられるのか? と思う者も
多いのではないだろうか。 口で言うのは容易い。 しかし、現実はそう簡単ではないと思われる。
 それでも、「耐えられた者」がおり、「耐えられる者」がいる。 「良い結末を迎えた者」が実
際にいることは事実である。 「良い結末を迎えた者」を、見た者聞いた者は、「その人が良き
信仰を働かせたからだ」と、一般的には言うであろう。 しかし、「信仰」という一言で片づけら
れないようにも感じる。 
 
Aアブラハムやヨブの試練を、キリスト者全員が受けなければならないのか?といことを考え
てみる時、聖書から見ると、皆が皆、アブラハムやヨブのような厳しく深い試練を受けていると
は思えない。 やはり、試練においても、一人一人に応じての厳しさ深さのレベルがあるように
思われる。 新約に入って、長いキリスト教会の歴史の中でも、パウロやペテロたち使徒が受
けた試練、キリストの弟子と呼ばれる者たちが受けた試練、弟子ほどではなくても、キリスト者
と呼ばれる者たちが受けた試練には、それぞれに応じての違いがあるように思われる。 一人
一人のことを知っておられるのは、神ご自身であられる。 主は、一人一人に応じての試練訓
練を通しておられるようである。 
 
いずれにしても、神からの試練訓練を通る者は、「神のご計画の中」に入れてくださっていると
いうことである。 それも、「幸いな神のご計画の中」に留めさせようとしておられるということで
ある。 そこには、「神の采配」がある。 完全な「神の支配」がある。 それが、Bの答えでは
ないだろうか。 結局、アブラハムもヨブも「幸いな神のご計画の中」に組み込まれた者であっ
たということだ。 神に選ばれていたということである。 ただ、この神の選びを、我々キリスト者
は、鼻高々にすべきものではない。 神は、この世の愚かな者、この世の弱い者、この世の取
るに足りない者や見下されている者を選ばれたからである。(Tコリント1:27,28) 
 
また、神の選びにおいて、神は「人の自由意志」を無下にされていない。 むしろ重んじておら
れるようだ。 アブラハムやヨブは、神に選ばれていたから、神の支配の下にいから、凄まじく
厳しい試練であっても放棄することなく、主に頼り、主に求め、主に正しい訴え、主に尋ねる
とができたのであろう。 アブラハムやヨブは、いろいろな試練訓練を通りながら、自我が砕か
れ、肉は切り取られて整えられながら、神の定められた道を自分の「自由意志」で選択し、歩
んで行った。 だから、全く打ち伏せられることがなかったのである。 この「主が定められた
道」を歩むということが重要であると思われる。 ところが、このことが結構、難しいものである
ことも事実だ。 だから神からの試練訓練が必要なのだと思う。 
 
@ABの答えを思考してみたが、実際のところ、我々の人生には、「神の領域であるゆえ、決
して知り得ないこと」が幾つもある。 特に、神からの試練による「苦しみ」の原因、理由は、ヨ
ブにも答えられなかったが、それにも「神の領域」があるのかもしれない。 たとえ、「苦しみ」の
具体的な原因、理由がわからなかったとしても、確かなことは、神に選ばれているなら、「苦し
み」に必ず、耐えることができ、「良い結末を迎える」ということである。 すなわち、「主が定め
られた道を全うできる」ということである。 日々、絶えず「信仰の創始者であり、完成者である
イエスから目を離さないで」主の御前にへりくだって、「主が定められた道」を進んでいくことを、
真から願いながら、求めつつ歩んでいきたいものである。
 
★旧約聖書(口語訳) 詩篇 37:23、24
   人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れて
   も、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。
 
★新約聖書 ピリピ人への手紙 1:29
   あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦し
   みをも賜わったのです。
 
 



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