めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年10月2日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
旧約聖書 箴言 2918の「幻」についての思考2018325日付修正文。


新約聖書 使徒行伝 21718<ヨエル書22829

   神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息

   子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 その日、わたしのしもべにも、はし

   ためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 

新約聖書 へブル人への手紙 112

   神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方

   法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

 

聖書においての「幻」について、旧約聖書 箴言 2918から考えてみた。 日本語の「幻」

いう意味は、辞書(goo辞書、広辞苑など)によると『実際にはないのに、あるように見えるも

の。例えば「死んだ母の幻を見る」というように・・』、などと説明されている。 しかし、聖書に

おいての「幻」は意味が違う。 「幻」原語(ヘブル語)は、「ハーゾーン」 で、「見る」という動

詞「ハーザー」の名詞形で、見たもの といった意味であるという。 聖書においての「幻」は、

本語の「幻」のように、実際には ないのではなく、実際に実在するのである。 ただ、見るに

は、主の働きのために神からの賜物を頂いていて、特別に神に示された人だけが見ることが

できるようである。 

 

新約聖書にも、この「幻」を見た者たち、アナニヤ、ペテロ、パウロ、ザカリヤ、12使徒のヤコブ

とその兄弟ヨハネ、・・などのことが書かれている。(使徒9,10章、16章、18章、Uコリント12章、

ルカ1章、マタイ17章) 旧約の多くの預言者たちも「幻」を見ている。 

 

さて、この箇所(箴言2918は、聖書によって訳が若干違うようであるが、いわんとしているこ

とは同じである。 新改訳、がなければ、民はほしいままにふるまう。」 新共同訳、

なければ民は堕落する。」 口語訳、預言がなければ民はわがままにふるまう」 KJV訳(キン

グジェームス)、Where there is no vision, the people perish NKJV訳(改定欽定訳)、

Where there is no revelation, the people cast off restraint 日本語では、「幻」、「預言」とあ

り、英語ではvisionビジョン(見えること)」、「revelation(啓示)」となっている。 また、ドイツ語

の聖書では「幻のない民は滅びる」となっているという。 「幻」(ハーゾーン)は、ひと言でいうな

ら、神の計画、人の将来についての神からの啓示であり、それを実際に見たことを意味する。

 

要は「主と主のことば、キリストに焦点を向けていなければ、民はほしいままにふるまい、結

局、滅びる」または、「実在される主イエス・キリストを見つめていない民は堕落して、結局、

滅びる」ということであろう。 神のご計画である天の御国のビジョンから目をそらさずにじっと

見つづけることが必要であるということだ。 人間というものは、好き勝手に歩みたがる者であ

るからだ。 

 

神からの啓示の与えられ方は、人によって様々である。 幻、夢であったり、聖書あっり、

来事を通してであったりといろいろである。 言い換えれば、「幻」、「夢」、「出来事」なども、主が

語られていることばである。 それらを通して、主は語りかけておられる。 主は、今日も、人に

直接、語られ、霊的感覚、様々な出来事を通しても語られる。 

 

もちろん基本的には、神のことばとして、我々に与えられている、「聖書のみことば」を通して語

られる。 実に、聖書は、我々が、この地上で主が定められた道を歩むための人生の規範で

あり、ゴールである「天の御国」へ確実に導くための指針である。 神は、「ひとりでも滅びるこ

とを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」。 だから、聖書には、万人

に語られている「ことば」があり、ある人にある時に語られている「ことば」がある。 聖書を見る

なら、「天の御国」への道をしっかりと踏み進んで生きていくためには、聖霊の導きが必要であ

り、どのような方法であっても、主が語られる「主のことば」が重要であることがわかる。 

 

したがって、神の計画、人の将来についての「神からの啓示」は、「天の御国」へと足を進めて

いる者にとっては、なくてはならないものである。 ただ、神が、「直接」、語られたり、「幻」、

「夢」、「出来事」、「霊的感覚」、「聖書のみことば」を通して、語られたと思っても、間違っている

場合がある。 自分の心の奥に隠されていた、もしかしたら自分でも気づいていなかった「願

い」「希望」「思い」などが混入していることがあり得るからだ。 だから、本当に「主からのこと

ば」か、「神からの幻」であるのかどうかを吟味し、確認することは必須である。 

 

著者たちも、神が、「直接」語られたり、「霊的感覚」を通して語られたり、「夢」を与えられて、そ

れは、おそらく主なる神からのものだと感じたとき、祈って吟味してきた。 著者は、何度も何度

も祈って主に尋ね、熟考し、また深く祈ってということを繰り返してきた。 当初は、何十回どころ

ではない、何百回も祈り尋ねた。 そういうことを繰り返していくうちに、だんだんと、「主からのこ

とば」かどうか、「主からのもの」かどうかが、何百回も祈らなくても分かるようになってきた。 ま

た、それらのことばに、聖書の裏付けが与えられるようにも祈り求めてきた。 このことも、相当

祈った。 主は与えてくださった。 そういうことを繰り返して今日に至っている。 (2018年に教

えられたこと:ただ、祈って最初は「良し」とされていたことが、深みに入っていけばいくほど、主

の清さに預かり「否」とされる場合があり得る。 真実の中の一点でも「偽」が入ると、それは真

実とは言えない。 そのようなことがあり得るときは、祈って祈って主に尋ね続けている者には、

必ず主が教えてくださるものである。)

 

さて、この神からの「幻」を与えられる者、主の働きのために神から選ばれた人である。 神のご

計画があるゆえに与えられるのである。 アブラハム、ヨセフ、エリヤ、エゼキエル、ペテロ、パ

ウロ、・・・などは、明らかに神の重要なご計画の中にあったことが、聖書を見れば一目瞭然で

ある。 彼らは、神からのことば、幻を正しく、すなわち神のみこころ通りに受け取った。 彼らは、

厳しい訓練試練の道を歩んだから、神の御前にへりくだり、正しく受け止めることができたので

はないだろうか。 厳しい神からの訓練試練により、彼らは、砕かれ、整えられたから、そのよう

な働きをしても、決して高ぶることはなかった。 むしろ、常にへりくだっていた。 もし、「幻」「こと

ば」を与えられた者が、砕かれていないなら、すぐに高ぶってしまうだろう。 幻を見ても、旧約

のバラムは滅んでしまったように。(民数記22-24章、318

 

砕かれ、整えられることは、神からの「幻」を与えられる者だけでなく、どのような方法にしろ、

「主からのことば」を与えられる者はみな、必要である。 どのような方法にしろ、神が語りかけ

てくださることは、とても大きなこと、重大なことである。 そして、最も重要なことは、与えられて

受け取る者が、正しく受け取り、主のみこころ通りに理解することである。 

 

いずれにしても、へりくだって心砕かれ、主に信頼し、主のことばにおののく者には、神が何ら

かの方法で神からの啓示を与えてくださり、今後の進むべき道を示してくださるであろう。 

日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、祈り続けて、主との交わりを深くしていきたい

ものである。 

 

新約聖書 ローマ人への手紙 1133

   ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り

   尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

 



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