めんどり通信/2016年8月21日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <キリストと深くつながり、「キリストと自分」が確実に「一対一の関係」となった上で「主のみこころ」を知ることについて> |
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:9
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどま
りなさい。
●神は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ
る。(Uペテロ3:9) イエスは昇天される前、弟子たちに、「全世界に出て行き、すべての造ら
れた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と仰せられた。(マルコ16:15) そこで、彼らは出て行っ
て、至る所で福音を宣べ伝えた。 主は彼らと共に働き、みことばに伴うしるしをもって、みこと
ばを確かなものとされた。(マルコ16:20) 福音を聞いた多くの者たちがイエスを受け入れた。
長い歴史の中で、多くの者たちが、口でイエスを主であるとの告白によって、心で信じて救わ
れた。(ローマ10:10) 長い歴史の中で、伝道熱心なキリストの弟子たちが次々に起こされ
た。 キリストの福音は、あっという間に世界中に広がり、今やキリスト教人口は、世界人口、
約72億の3割以上の22億5400万人と言われている。
キリストの福音が受け入れにくいと言われる日本でも、現代に至るまで、キリスト教会は、救わ
れる者たちを獲得するために、いろいろなことを行なってきた。 もともと日本は、最初からキリ
ストを受け入れにくい国ではなかったようだ。 高槻城主であったキリシタン大名、高山右近の
時代、1549年のザビエル布教から40年も経たない短期間のうちに、高槻全領民の7割以上の
住民が、キリシタンになっていたという。 当時、日本の中心であった京都には、キリスト教徒
の住む地域が、デウス町という名で5つから6つあったと言われている。 現在でもはっきりわ
かっているのは、四条堀川通りの南西区画がデウス町だったという。 安土桃山時代の日本
における、ロサンゼルスとして名を残しているのだという。
日本人が、キリストを受け入れにくくなった原因は、1587(天正15)年に発布された豊臣秀吉の
禁教令に始まり、徳川時代の筆舌に尽くし難いキリスト教迫害の歴史が270年以上続いたこと
だという。 日本人全員を強制的に仏教徒にし、どこかの寺の檀家にならなければならないと
いう檀家制度を幕府は命じた。 家々に仏壇を安置させ、死者供養を義務づけ、僧侶が家々
をまわり、読経するシステムを幕府が全ての日本人に、強制的に押しつけた制度でもある。
そのような中でも、一部のキリスト者たちは、毅然と立った。
1945年、第二次世界大戦での敗戦によって、信仰の自由の時代が日本に訪れてから、多くの
宣教師たちが日本に来た。 日本のキリスト教会は、国家との関係を悔い改め、国家を切り離
して、様々な種類の集会、戸別訪問伝道、大衆伝道、聖書の学び集会、祈祷会、教役者大
会、・・などを行なってきた。 それでも、日本は、相変わらずのキリスト教人口1%弱である。
しかし、キリスト信仰は、根絶やしされていない。
世界においても、同じように、様々なことが行われてきた。 それで、世界のキリスト教人口に
ついては、世界人口の3割以上となった。 イエスが、イスラエルのオリーブ山から弟子たちが
見守る中、昇天されて、もう2千年が過ぎた。 その間のキリスト教人口総数は、すごいもので
あろう。
ただ、そのすごい数の者たちの皆が皆、本当に救われているとは言えない。 なぜなら、主イ
エスが「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天に
おられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 その日には、大ぜいの者がわた
しに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪
霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その
時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ど
も。わたしから離れて行け。』」と仰せられたからだ。(マタイ7:21-23)
要は、人から見たクリスチャンと、神から見たクリスチャンとは違うのである。 イエス・キリスト
を信じた者を、「キリスト者」とか「クリスチャン」と呼ばれるが、原語のギリシャ語では「クリス
ティアノス」または「クリスティアーノス」と記されている。 「キリスト」はギリシャ語では「クリスト
ス」という。 「クリスティアノス(クリスチャン)」とは、通常、キリストに従う者、キリストにつく者、
などの意味であるという解説が一般的である。 ちなみに、聖書でキリスト者、「クリスティアノ
ス」という言葉は、聖書の中では3回しか使われていない。(使徒11:26、26:28、Tペテロ4:16)
さて、一般的に、教会に所属している、教会へ通っている、教会の諸行事にも参加してい
る、・・という人が「クリスチャン(キリスト者)」と見られている。 もちろん、そのような人たちは、
「イエス・キリストを信じている」と言う。 しかし、「イエス・キリストを信じる」ということは、イエ
ス・キリストに全幅の信頼を寄せており、自分を捨てる、すなわち心をすべて明け渡していると
いうことであり、口先だけで言っているのとは大きく異なる。 軽い次元で言っているのでもな
い。 そのように見る時、案外、神から見たクリスチャン(キリスト者)は少ないのではないかと
思う。 イエスに、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人に、主イエスは、「努力して
狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくな
る人が多いのですから。」と仰せられた。(ルカ13:23,24)
また、主イエス・キリストの名で預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇蹟を行なったりした者
に、「『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではない。」とイエスは言われた。 預
言をすること、悪霊を追い出すこと、奇蹟を行なうことは、一般的に言えば、生まれたばかりの
「クリスチャン(キリスト者)」ではなく、「キリストの弟子」と呼ばれるような人たちであろう。 明ら
かに、主に仕え、主のために働いていた人たちであろう。 それでも、主は、「わたしはあなた
がたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われるという。
なぜだろうか。 思うに、主は外側だけを見ておられるのではなく、やはり、内側、心の奥底を
見られているからではないだろうか。(Tサムエル16:7) 表面的なところではなく、心の底を見
ておられ、そこに「主を愛し主に仕える思い」があるのかどうか、もしくは、主が与えてくださる
「神への愛」を素直に受け取れる心なのかどうかを見ておられるのではないだろうか。 それで
は、預言をすること、悪霊を追い出すこと、奇蹟を行なうことという、主が働かれなければ現わ
れることのない神のみわざは、何故、主に知らないと言われた彼らを用いてあらわれたのか。
ヨハネが、イエスの名を唱えて悪霊を追い出している者を、私たちと共に従ってこないから、や
めさせたことを言うと、イエスは、「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力ある
わざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。」と答えられた。(マルコ
9:39) このことと同じようなことかもしれない。 確かに、主イエスの御名で預言をすること、悪
霊を追い出すこと、奇蹟を行なうことをした後で、彼らはイエスのことを悪く言うことはなかった
と思われる。 神は、イエスに従って来ない者を用いてでも、人をいやしたい、解放したいと
願ってくださっている方であるということだ。 主イエス・キリストと父なる神の人間に対する愛
は、本当に深い。 心から主なる神に感謝する。
最近、主の働きについて、考えさせられることがあった。 約50年ぶりの小学校の同窓会に参
加したときのことである。 一人の同級生(男性)が、著者のところに来て、約24、5年前、著者
に聖書を買わされたと言った。 責める口調ではなく、話の種として言ってきた感じではあっ
た。 すでに この同級生夫婦は離婚していたからだ。 確かに、当時、戸別訪問伝道で彼の
家に行ったことを覚えている。 彼の奥さんも、著者が中学校の時の同級生で話しやすかった
ことも覚えている。 そのとき、彼は仕事で留守だった。 彼女に福音を伝え、聖書を読んでみ
ることを薦めた。 それで、彼女は聖書を買った。 決して、押し付けておらず、強制的でもな
かったことも覚えている。
当時、所属していた教会では、口語訳聖書を使っていたが、新共同訳聖書を取り入れ、伝道
の時、薦めるようにとの牧師の導きがあった。 著者は、数十冊受け持った。 結構な値段な
ので、読んでみると言う人には聖書を買ってもらった。 何冊かは導きがあったので、著者が
買って差し上げた。 本当に、一人でも多くの人が救われてほしいと思っていた。 だから、当
時は、教会の礼拝と集会に参加、一般伝道、戸別訪問伝道、トラクト配布、家庭集会を開く、
いろいろな所であった聖会に参加、祈祷会、教役者大会に参加・・・など忙しく主のために働い
ていた。 牧師の導きに従っていた。
その後、約20年前、教会を出てから、「キリストと自分」、「主なる神と自分」の「一対一の関
係」、「一対一の交わり」を確固たるものとなるために取り組みだし、砕かれ整えられて成長し
てきた。 そうするうちに、自分の心の奥底にあるものに気づくようになってきた。 以前の教会
に所属していた時代、著者は、牧師の顔色を見ていたところがあった。 主の働きをするよう
になればなるほど、牧師の顔色を窺(うかが)っていた。 聖書を買ってもらうなり、差し上げる
なりして、新共同訳聖書が、自分の手元から離れて行くことは、一人でも多くの人が神のことば
に触れることであるので、牧師にも報告しやすい。 もし、その中から救われる者が起こされる
なら、それは大きな働きとなり、尚更、牧師に報告しやすいなどという不純な「思い」があった。
ただ、そのような不純な「思い」は、大きい「思い」ではなく、ほんの少しの「思い」であり、主の
働きの方に目が向けられていたので、いつのまにか著者の心の奥に沈殿していった。 この
不純な「思い」については、何年も前に、主から教えられていた。 人が、どのような言葉を語
ろうとも、その人の心の奥底にあるものが、相手に伝わるということも教えられていたが、今
回、改めてもっと深みを教えられたと思う。 そして、主が、著者の多くの失敗、愚かさ、弱さな
どを許してくださっていたから今日に至ることができたのだと、つくづく思う。 主を褒め称える。
確かに、伝道も集会も主の働きも大切なことである。 しかし、それ以上に大切なことは、ま
ず、一人一人が神ご自身と、しっかりつながること、それも深くつながり続けることであろうと思
われる。 イエスは弟子たちに多くを教えられたが、それらの中で、最重要点は、とにかく、「キ
リストにしっかり、つながること」、「キリストにとどまり続けること」である。 すなわち、それは、
「主なる神と自分」が完全に「一対一の関係」になることでもある。 そのような者たちの集まり
が教会である。(教会のあり方について、めんどり通信/2015年4月19日参照) そのことが確
実になっていくなら、本当の意味で、「主のみこころ」がわかってくるのではないかと思われる。
そして、それが、主なる神の望まれていることであろうと思われる。
だから、しっかりと、「主にとどまり続けること」、「主につながり続けること」、そして、「主なる神
と自分」、「キリストと自分」が確実に「一対一の関係」、「一対一の交わり」になることに取り組
んで行きたいものである。 それが、自分の足場となるように真剣に取り組んで行きたいもの
である。 そのためにも、日々、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない
で、十字架のもとに自分を置き、神に依り頼むことをしていきたいものである。(へブル12:2)
★旧約聖書 詩篇 16:8
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
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