めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年8月14日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<時間の経過、待つことについての思考>


★新約聖書 ヤコブの手紙 5:11
   見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの
   忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛
   に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。
 
★新約聖書 へブル人への手紙12:1
   こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです
   から、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている
   競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
 
★新約聖書 テサロニケ人への手紙 3:5
   どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいます
   ように。
 
●歳を重ねるにつれて、時間の経つのが早く感じるようになる人が多いのではないだろうか。 
1週間は、あっという間に過ぎ去る。 まさに「光陰矢の如し」だ。 なぜ、歳を重ねると時間の
経つのが早く感じるようになるのかについては、いろいろな説があるという。 心理学的あるい
は生物学的な視点から解釈すると、時間感覚に最も強く影響を与えているのは体内リズム、
それまでの経験、記憶であるという。 また、一般的によく知られている「ジャネーの法則」の説
もある。 例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1だが、5歳の人間にとって
は5分の1に相当する。 だから、年齢に対する比が小さいほど時間が短く感じられるので、加
齢によって時間が短く感じられるようになるという説である。 他にも、いろいろな説があるが、
歳を重ねるにつれて、時間の経つのが早く感じるようになることは事実であることに間違いは
ないようだ。
 
また、年に関係なく、時間の経つのが遅く感じることもある。 毎日同じことを繰り返している
と、脳が時間を短く見積もってしまい、時間の経過を遅く感じるという。 その他、いろいろある
が、多くの人たちが体験していると思うが、不安や緊張を感じているとき、「待つ」というときに
も、時間の経過を遅く感じる。 人との待ち合わせで「待つ」というときもあろうが、特に、何か
の返事を待つとき、約束通りになるのを待つときなどは、時間が長く感じることが多い。 聖書
の登場人物も、この「待つ」ということにおいて、時間が長く感じた体験をした者も多い。
 
例えば、サウル王の場合Tサムエル記13:8-14) ペリシテ軍の脅威にさらされていた時、
サウル王は、預言者サムエルに「7日間、ギルガルで待つように。 全焼のいけにえと和解の
いけにえをささげる。 なすべき事を教える。(Tサムエル10:8)」と言われていた。 7日間
待ったが、サムエルがなかなか来ない。 そのときのサウルは、この7日間を長く長く感じたで
あろう。 民は彼から離れて散って行こうとするのを見ると尚更であったと思われる。 それで
サウルは、本来、祭司の務めであり、王には許されていない、いけにえをささげた。 ささげ終
わった時、サムエルが到着した。(Tサムエル13章) サムエルは神の命じられたことを守らな
かったサウルを激しく叱責したが、サウルは言い訳ばかりで、真の悔い改めをせず、自分の行
為を正当化した。 この事のために、王位から退けられた。 「待つ」ことに失敗したのである。 
 
ノアの場合。 神がノアに箱舟を造るよう命じられた。 ノアは家族とともに箱舟を造った。 と
てつもなく巨大で重労働が強いられるだけでなく、箱舟造りの中心であったノアは、世間から愚
か者、変わり者と蔑(さげす)まれ、見下されは半端でなかった。 それでも、ノアは、ひたすら
「神のことば」に徹底的に従いながら、語られた「神のことば」の完了の時を待った。 きっと長
く感じたことであろう。 ただ、箱舟を造る重労働のため、若干は気が紛れたかもしれない。 
むしろ箱舟に入っていた約1年と10日間の方が、家畜や生き物の世話はあったが、いつ、箱舟
から出られるのかわからず、じっと「待つ」ということでは、長く感じられたかもしれない。 しか
し、ノアは「待つ」ことによって、「救い」が与えられた。
 
アブラハムの場合。 約束の「ことば」が語られてから10年ほど経ち、アブラム85歳、サライ75
歳になっても一向に「ことば」通りにならないので、アブラム(アブラハム)は、サライの意向も
あって、若い女奴隷ハガルによって子ども(イシュマエル)を儲けてしまった。 「主のことば」
は違う。 神はそのときから約13年間、アブラムに現われておられないようである。 この期間
のことについて、聖書には何も書かれていない。 推測ではあるが、もし神がアブラムに何か
語られていたとしても、神のご計画の中の重要なこと、取り立てて聖書に記述されるような出来
事や「主のことば」「主の計画」へ直接つながることは何も語られなかったのかもしれない。 要
は、それまでのように親しい神との交わりがなかったおそれがある。 とすると、13年間は、ア
ブラム(アブラハム)にとって、とても長く感じたことであろう。 
 
しかし、この長く「待つ」ことは、アブラハムが、ますます練り清められるという「益」になったと思
われる。 そのことは、13年経ったとき、アブラムが99歳、サライが89歳のとき、再び神がアブ
ラムに現われ最初に語られたことばが、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩
み、全き者であれ。(創世記17:1)」だったからである。 「全き者」とは、神を信頼することに
おいて完全であれ」、「神に信頼しきれ」ということである。 「神に信頼しきる」ことができる者
に、神がアブラムを変えられたから、このような「ことば」を語られたのであろう。 そして、名ま
えも、「アブラム」を、「アブラハム(多くの人々の父)」、サライという名前を「サラ(王女)」に変え
るよう命じられたのだと思われる。 
 
一般的に「待つ」ことにおいて、何かをしながら待つ方が、気が紛れて時間を短く感じるもので
ある。 同様に、「主のことば」を与えられた者が、「主のことば」が、現実にその通りになるまで
「待つ」ことにおいて、何かをしながら待つ方がある意味、楽である。 クリスチャンであるなら、
伝道集会や聖書集会、家庭集会などの各集会に参加すること、礼拝や聖会に出席することな
ど何かしら「主の働き」と言われることをしながら待つ方が、待ちやすい。 待っている間に「苦
しみ」があったとしても、「主の働き」をしていることで「苦しみ」を緩和できるからだ。 だから、
キリスト者(クリスチャン)で、そういう「主の働き」をしておらず、普通の生活をしながら、「主の
ことば」の成就、完了の時を待っている時間というのは、結構、長く感じるものだ。 
 
それでは、そういう「主の働き」をしたらよいではないか、と言われそうだが、中には、主から、
普通の生活をしながら、ただ「待つ」こと、「主が語られたことば」「主から与えられたことば」
成就、完了の時「待つ」ことを示されている者もいる。 そういう場合、「待つ」ことにおいて
は、結構、長く感じる。 「主から与えられたことば」が成就、完了するまで、その人には、「主か
らの試し(訓練試練)」がある(詩編105:19) また、悪しき霊どもも、「主のことば」が完了しな
いようにと様々な方法で妨害してくる。 その人が、「主のことば」を手放すよう仕向けてくる。 
その攻撃が、結構きついが、しかし、それさえ、父なる神のみ許しがなければ起こらないことで
ある。(マタイ10:29) そのことに、すぐさま目を向けることができるなら幸いであるが、厳しい
「主からの試し(訓練試練)」の最中では、なかなか難しいものである。 しかし、この「待つ」こと
は、確実に、「主から与えられたことば」を受け取っている人を変えている。 
 
ローマ人への手紙5章3〜5節に、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患
難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと
知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられ
た聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」と書かれている通りである。 
 
アブラハムもノアも、「主から与えられたことば」の成就、完了の時、完了の実際の現われの時
が、いつであるか、具体的な時、明確な時は知らされていなかった。 だから余計に「待つ」こと
において、長く感じられたであろう。 それでも「待つ」ことで、「神の奇跡」を見た。 「神の救
い」を得た。 サウルは、サムエルから、「わたしが捧げものをささげに行くまで、7日間、ギル
ガルで待つように」と言われていた。 具体的、かつ明確な時が知らされていた。 ただ、サム
エルが、少し遅れた。 しかし、それは、具体的、かつ明確な時が知らされているからこそ、
「主からの試し」があったのではないかと思われる。 
 
いずれにしても、「主から与えられたことば」の成就、完了の時、完了の実際の現われの時
が、いつであるのか、具体的、かつ明確な時が知らされていても、知らされていなくても、「主か
らの試し」はある。 とにかく、「待つ」ことが、長く感じられたとしても、「待つことで、神の奇跡を
見る。」 「待つことで、希望を生み出す練られた品性となる。」 「待つ」ことで、いつでも「主と
主のことば」を最優先できるように、主によりすがり続けていくことに取り組みたいものである。  
 
★旧約聖書 イザヤ書 8:17
  私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。



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