めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年7月31日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
主のことばの成就が延ばされたと思われる時、それさえ神のご計画の中にある:ダビデの生涯の一部から学ぶ


★旧約聖書 詩篇 89:34
   わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。
 
★旧約聖書 イザヤ書 55:11
   そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来
   ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
 
★旧約聖書  詩篇 138:8
  主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。・・・
 
●聖書には主なる神の語られた「ことば」が、成就したことが多々記されている。 神は一旦、
語られた「ことば」は、基本的には変えられない。 だから、一旦、語られた「主のことば」
我々は絶えず、注目すべきである。 たとえ、「神が語られたことば」が完了される途中経過の
中で、神が「ことば」を変えられたのではないかと思われるような実情になったとしても、「主の
ことば」と正反対の状況になったとしても、新たに語られた明確な「主からのことば」がない限
り、最初に語られた「ことば」に返るべきである。 主なる神は、ご自身が一旦、語られた「こと
ば」は、必ず成就される方、完了される方であるからだ。 そのことをクリスチャンは認めてい
るし、体験している者も多いであろう。 
 
ただ、一旦、語られた「主のことば」が実現するまで握り続けることは、結構、難しいものであ
る。 特に、内容によっては、完了するまでに長い時間を要することがある。 その間、神から
の様々な訓練試練があり、サタンも「主のことば」から離れさせようと、巧妙に攻撃を仕掛けて
くることがあるからだ。 それで、もしかしたら、今、握っている「ことば」は、主からのことば」
はなく、自分の思い込み、生まれながらの肉からの願いだったのではないだろうかなどと迷い
と混乱の中で判断して離してしまう場合があり得る。 サタンや悪しき霊どもは、主に敵対させ
るような思いではなく、へりくだったような思いを握らせようと働きかけてくる。 敵対させるよう
な思いなら、悪しき霊からだと見破れる者も多い。 しかし、へりくだったような思いであるなら、
なかなか見破ることは難しい。 
 
いずれにしても、「主からのことば」を与えられた者は、「ことば」が実現される時を心待ちに
待っていることであろう。 そのような中で、神からの訓練試練を乗り越えたし、何度となく襲っ
てくる悪しき霊からの攻撃も何とかかわせた、だから主なる神が「ことば」を成就してくださる時
が来た、完了してくださるといういう流れに入ったと思った時に、またぞろ、今までにない厳しい
試練が訪れ、「ことばの成就の時」が引き延ばされたと感じることがある。 しかし、それは、引
き延ばされたのではなく、神の中では、それらもご計画の中にあったことである。 このことに
ついて、ダビデから見てみる。
 
ダビデは3度油そそぎ受けたが、神からの任命は1回目の油そそぎだけである。(Tサムエ
ル16:12,13、Uサムエル2:4、Uサムエル5:3) 後の2回は、人々による追認、公認の意味で
油そそぎであった。 「油そそぎ」とは、旧約時代、王や祭司、預言者に注がれた。(士9:8、
Uサム2:4、T列1:34、出28:41、T列19:16) それは聖別と任職を意味した。 そして、油そ
そがれることは、神から権威が与えられた事を意味し、非常な厳粛さが伴った。
 
ダビデは神に選ばれ、預言者サムエルから密かに油そそぎを受けた。 「主の霊がその日以
来、ダビデの上に激しく下った」と書かれている。 一方、サウルは油注がれた王であったが、
アマレクに対する聖絶命令を忠実に実行せず、「神の心にかなう」王でないことが明白となり、
王位から退けられることが明らかにされた。(Tサムエル15章) 「主の霊はサウルを離れ、主
からの悪い霊が彼をおびえさせた。」と書かれている。(Tサムエル16:14) ただ、そのときす
ぐに王座を退いたのではなかった。 その後、何年かは王座に就いていた。 神の目から見ら
れて、サウルが、王として不適格、不忠実な者とわかってからダビデに神からの油そそぎ
あった。 
 
その後、ダビデはペリシテ人の巨人ゴリヤテを石投げだけで倒し、その後もダビデは、サウル
が遣わす所に出て行って、勝利を収めた。 女たちは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打っ
た。」と笑いながら歌った。 サウル王はダビデに激しくねたみと怒りと憎しみを抱いた。 それ
で、悪い霊がサウルに臨んだとき、ダビデはサウルの心を慰めようと琴をひく。 ある日、琴を
ひいたとき、サウルは槍を手にして、ダビデを突き刺そうと2度振りかざしたが、ダビデは身を
かわして逃れた。 こういうことが2度あった。 サウルの息子ヨナタンの計らいによって一時
は、サウルはダビデと和解したかに見えた。 
 
しかし、ダビデが戦士として相変わらず多くの勝利を上げるのを見ると、サウルのダビデへの
憎しみ、妬みは、ますます激しくなっていった。 ついにダビデは、サウル王のもとから逃れ、苦
しい逃亡生活が始まった。(Tサムエル24:1〜) いろいろな気の休まることができない出来事
があり、敵地であるペリシテ人の町ガテに逃げ込んだときには、ペリシテの敵であるイスラエル
のダビデであると見破られ、捕えられて、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したり
と狂人のふりをして助かるということなど、様々な苦しいところを通った。 そのように苦難試練
を通って、ダビデはエルサレムの南西にあるアドラムの洞窟に逃れたが、逃亡生活の中でも、
ケイラという町を救うために、ペリシテ人と戦い、ケイラを守ったりした。 
 
その後、ペリシテ人討伐から帰って来たサウルは、三千人の精鋭をえり抜き、ダビデを追っ
た。 エエリムの岩の東にあったほら穴に、用をたすためにその中に入った。 ちょうど穴の奥
の方にはダビデと部下がいた。 「用をたす」とは、原語では「足をおおう」ということなので、サ
ウルは休息のため寝ていたようだ。 ダビデの部下の「今こそ、主が与えて下さったサウルを
打つ時です。」との言葉に、ダビデは、もう逃亡生活も厳しい試練も終わり、神がサムエルを通
して油をそそいでくださったことが、実際となる、すなわち、公に「王」として立つときが来たのか
もしれないと、思ったかもしれない。 長く相当、苦しい逃亡生活の上、ダビデは主を愛して
いたから、「偶然はない。 すべては神の采配がある」と信じていた可能性があるので、そう思
うのも無理はない。 
 
それで、ダビデは、サウルの上着のすそを、こっそり切り取ったのであろう。(Tサムエル24
章) しかし、そのことで心を痛めた。 そして、ダビデはサウルを殺さなかった。 一瞬は、
「王」になるという成就の時が引き延ばされた感があったかもしれないが、ダビデは、サウルも
「主が油をそそがれた」ことを改めて思い出し、「主ご自身」に目を向けた。 主による「油そそ
ぎ」の重大さを知っていたから、「主」に心を向けることができたのかもしれない。 そして、この
ことで、ダビデは更に、自分の思いや願いではなく、また、回りの状況や現状によって「神のみ
こころ」を判断するのでもなく、とにかく、何ものにも影響されず、「主」だけを見て、のみここ
ろ」を純粋に知ることができるようになることが大きく一歩、進んだと思われる。 何よりも「神
のみこころ」が実現されることの方を最優先する者となり、更に深く主を愛する者と変えられた
のではないかと思われる。
 
そのことのあらわれているのが、サウルを殺せるチャンスが、もう1度あったときのことから窺
(うかが)える。 1度目は、偶然にサウルを殺すチャンスがきたようにも受け取れるが、2度目
は、サウルが追ってきたことを知ると、ダビデの方から、幕営の中に忍び込んだ。 サウルは
深く眠り込んでおり、その将軍ネルの子アブネルも兵士たちも眠りこんでいた。 ダビデの部下
は、やはり、これは神がくださったチャンスだと考え、「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に
渡されました。」と言ったが、ダビデは何の迷いもなく、「主に油そそがれた方に手を下しては
ならない」ときっぱり退けた。(Tサムエル26:8,9) それで、寝ていたサウルとその将軍ネル
の子アブネルの枕もとにあった槍と水差しとを取って行った。 
 
このように、ダビデの生涯の一部分だけ見ても、これほどまで様々な出来事があり、厳しい苦
難の連続であるように見えるが、それを乗り越える度、「主への愛」「神への信仰」、「ダビデ
自身の霊」が深くなっている。 神から多くのことば」をいただいたダビデにとって 、厳しい
試練の度、「神の約束のことば」が引き延ばされた感を持ったかもしれないが、しかし、その
度、それらの一つ一つの出来事の背後には神の采配があることを認め、絶えず、「主」を見る
者に変えられている。 「主への信頼」「主への愛」が深くなっている。
 
ダビデの生涯は、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために
は、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:2
8)」のことば通りである。 ダビデの生涯に起きたすべてのこと、すなわち、ダビデの失敗も苦
難試練も悩みも成功さえも・・・神は、何一つ無駄にされず「益」としてくださった。 それは、ダ
ビデの生涯のすべてが神のご計画の中にあったからである。 神は、ダビデを召しておられ、
試練苦難を通ったダビデを義と認め、義と認めたダビデに栄光を与えられるという大きな「益」
にしてくださった。 サムエルを通して神からの油そそぎ受けたのが17歳くらいと言われてい
るが、30歳でユダ族を治める王となり、37歳で全イスラエルを治める王となって、ダビデは老年
を迎え、長寿を全うして、彼の先祖たちとともに眠り、ダビデの町に葬られた。(T歴代誌23:
1、T列王記2:10)
 
我々も、真に主につながって、主からの「ことば」をいただきたいものである。 どういうかたち
で与えられるかはわからないが、「主のことば」が与えられて、主からの試し、試練があったと
しても、主のことばの成就、完了が延ばされたと思われる時があったとしても、主に寄りすがっ
ていく幸いな者でありたい。 そうして、ダビデのように神に対して心が純粋で清くなり、神を見
る者となりたいものである。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:30
   神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々
   にはさらに栄光をお与えになりました。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 5:8
   心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
 
 



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