めんどり通信/2016年6月12日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <使徒の時代に起きた奇跡は終末に起きるのか?今後どう生きるべきか> |
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★旧約聖書 イザヤ書 25:1
主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは
遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。
★旧約聖書 イザヤ書 46:10
わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしの
はかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
●多くの人たちが、空想話しに関心を持っているのかもしれない。 なぜなら、奇跡の話しを題
材にしたファンタジー映画や小説がヒットしているからである。 確かに、聖書をよんでいて、ワ
クワクするところは@モーセやヨシュアの時代、Aエリヤとエリシャの時代、Bヒゼキヤの時
代、Cダニエルの時代、Dイエスと使徒の時代のところである。
これらの場面には、多くの奇
跡が書かれているからかもしれない。
特に大きな奇跡と思われる死人が生き返る奇跡が、聖書の中で7つ書かれている。 @ツァレ
ファテのやもめの息子(エリヤによる、T列王記17:22) Aシュネムの女の息子(エリシャによ
る、U列王記4:35)
B会堂管理者ヤイロの娘(イエスによる、マルコ5:42) Cナインのやも
めの息子(イエスによる、ルカ7:15)
Dラザロ(イエスによる、ヨハネ伝11:44)
Eタビタ(ドル
カス)(ペテロによる、使徒9:40) Fユテコ(パウロによる、使徒20:12)である。
さて、キリスト教会(キリスト教界)では使徒時代に起きた奇跡(すなわち超自然的力な聖霊の
賜物の働き)は、使徒時代とともに終わりを告げたという意見があり、一方、使徒時代ほどで
はないかもしれないが、現代までも奇跡は続いているという意見がある。 「使徒の時代に起き
た奇跡は、キリストのことばの証明のため」ということは、両者とも一致しているようである。
キリスト教の歴史を見ると、奇跡を売り物にしたような運動も起きている。(聖霊の第三の波、
後の雨運動など) しかし、偽ではなく、実際、大々的ではないが、使徒時代のような奇跡が起
きたこともあるようだ。(中国地下教会など)
終末に関することについても、キリスト教界では様々な意見がある。 聖書の解釈も、それぞ
れの教団教派、教会によって微妙に違っているようである。 キリストの再臨(昇天したイエス
が、再来すること)については、@艱難前携挙説、2段階携挙説(艱難中携挙説)。 A艱難後
携挙説と.2つに分かれる。 特に、艱難前携挙説は多くの日本の教会が受け入れており、あた
かも定まった教理のように扱われているという。 @は、Tテサロニケ4:15-18がこの教理の元
になっているという。 マタイによる福音書24:37-42もこの教理の聖書の裏付け箇所とされて
いるという。 他にもいろいろ解釈があるようだ。 「艱難前、2段階携挙説」「反キリストはヨー
ロッパから出る」「第三神殿がイスラエルに建つ」・・・・などの教理を受け入れている教会は圧
倒的に多いと聞く。
このように、今後(終末)のことや聖書の解釈他いろいろ、キリスト教会では不一致のところも
多い。 パウロが言うように、ほんとうの者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむ
をえないのだろうか?(Tコリント11:19) それでも、そういうキリスト教会の教理に自分の人
生が悪影響を受けることは神の御心ではないはずである。 そもそも使徒時代の奇跡が現代
でも起きる起きないということより、大事なことがある。 「奇跡が起きるからキリストを信じる」
という動機が、人を砕き、人の信仰を深め、成長させたりするわけではない。 焦点が、「キリ
ストの救い」「キリスト」より、「キリストの奇跡」「奇跡」に向いている限り、「本当のキリストとの
出会い」はできないだろう。
また、終末については、教理の内容によっては、この地上での生き方に影響を受ける者もいる
かもしれない。 事実、著者も悪影響を受けていたときがあった。 キリストへの信仰が固くなり
始めた頃、以前所属していた教会でA2段階携挙説(艱難中携挙説)のメッセージを何度も聞
き、当時、一緒に教会に通っていた友人と、こんな話を よくしていた。 「もうすぐ、空中再臨
があるから、地上に置いて行かれないようにしなくてはな。 ・・・を買おうと思ったけれど、止め
ておく。 もうすぐ空中再臨があるから。」などと話していたことを思い出した。 今思えば、穴が
あったら入りたい気持ちだ。 著者ほど愚かでなくても、間違った「再臨の時」については多か
れ少なかれ人によって、何らかの悪影響はあるのかもしれない。
しかしそれは、「再臨」についても、いつの間にか「キリストの救い」「キリスト」より、「再臨」が優
先になっていることが原因である。 「キリストを信じる」ことは、簡単なことではあるが、「キリス
トを信じている」と告白する者には、本当に信じているのかを問われるような何らかの機会(訓
練試練)が与えられる。 そのように問われたとき、その応答で、その人の「信仰」の程度がわ
かる。 「キリストへの信仰」を持って間もない頃や成長していない多くの者たちは、その応答で
いかに自分は「キリストを信じている」と言いながら、実は信じていなかった、ということが判明
する。 その時、そのような自分を認めて
主の前にへりくだり、主を見上げて主に求めるな
ら、その時こそ砕かれる時であり、その人の「キリストへの信仰」は成長して深みに入る時であ
る。 主のみ心を知ること、主ご自身を知ることにおいて一歩も二歩も前進する。 ただ、その
ように主から問われていることに気づかず、キリストから離れて自分の考え、思いで、この世に
どっぷり浸かった知恵、知識、判断で歩んでいる者も結構多いことも事実だ。
我々、主イエス・キリストを信じる者が、しっかり持っていなければならないことは、「主と自分の
一対一の親しい交わりを持つこと」、「主の中にとどまり続けること」であり、それを常に足場、
基本としてあることが重要であることだ。 「主なる神と自分」がしっかりと「一対一の関係」にな
り、それが持続するために、砕かれる必要があるのだ。 「主なる神と自分」がしっかりとつな
がって「一対一の関係」になっていくなら、どんな教え、教理よりも、どんなものよりも「キリスト」
を最優先できるようになる。
また、「主なる神と自分」がしっかり繋がった「一対一の関係」になることに取り組みながらも、
自分に示されている教えなりビジョンなりを握っていくことは大切なことかもしれない。 主の御
心のままに歩みたいと過ごしていても、日常に起きる様々な出来事に翻弄されて、主に焦点を
あわせている、キリストを優先していると思っても、若干ずれたり、落ち込みそうになったりする
ことがある。 そういう時、与えられている主からのビジョンは、人を奮起させるものとなる。
主からのビジョンであれば、「主のことば」と言えるからだ。 「主と一対一の親しい交わりを持
つこと」、「主の中にとどまり続けること」を足場、基本にしているなら、たとえ少々ずれた教えを
受けたとしても歩みを狂わされることはないであろう。 もし、あまりにも、その人に悪影響を与
え、主が定められた道から逸れていくような教理やビジョンを、その人が握っているのなら、主
が必ず教えてくださるであろう。
だから、「主なる神と自分」がしっかりと「一対一の関係」になることに、正しく真剣に取り組むこ
とが、いかに必須であるかということだ。 著者も、必死に、そのことに取り組んでいる。 著者
が信じ受け取っているビジョンは、キリスト教会(キリスト教界)の主張している教理と違うかもし
れないが、それでも主からのビジョンであると受け取っている。 「主の時」が来れば、はっきり
するであろう。 それまでは、とにかく「キリストに焦点をあわせること」、「主キリストを最優先す
ること」に全身全霊を傾けたいものである。 すでに終末に入ったと明確には言えないが、いつ
終末が来ても、「主の中にとどまり続けること」、このことに徹していくべきであると思っている。
ちなみに著者が与えられているビジョンは、著者が交わっている姉妹たちを通して主が示され
たと確信しているものであり、著者が信仰に固く立ち奮い立つのに大いに役立っている。 主
のことばとして受け取っているものである。 今までのめんどり通信でも書いてきたが、改めて
一部だけを書いてみる。
★ビジョン@:大きいテーブルがあり、真っ白い服来た者たち座っていた。 その様子は、レオ
ナルド・タ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵に画かれているようなテーブルと椅子ではなく、昔の
日本の家庭でよく見られた食事方式、すなわち、丸いちゃぶ台の周りに家族が座って食事を
摂るというような形だったという。 ただ、小さなちゃぶ台ではなく、大きな大きなテーブルだった
という。 楽しい交わりと食事が始まろうとしていたと思われる。 別の部屋が映し出され、姉妹
が以前、所属していた教会の牧師たちやキリスト教会の牧師さんたちがいたという。 薄汚れ
た灰色の服。 金や宝石みたいなものをジャラジャラつけていたという。(2013年9月23日に主
から姉妹に与えられたビジョン)
★ビジョンA:別の姉妹とのメールでのやり取りの途中、大勢の軍勢が見えたという。 その
天の軍勢は、一糸乱れず一人一人が尊厳に満ち、光輝いて整えられたプライド(いい意味で)
と、黄金の盾とピカピカ光るするどい槍という武器を持って、美しいほどに列が整列されてい
た。 スタンバイされている神の軍勢の一人一人は互いに何も無駄話しや話しをしていないの
に、霊で通じ合っているようで互いに愛し合っているのがわかったという。 何列も整列され
た、大勢の軍勢だった。 主の「GO!」があれば、すぐに来て、戦い、世界中のどんな軍隊も
勝てない軍隊である。 準備万端でGOサイン待ち。(2013年11月22日に主から姉妹に与えら
れたビジョン)
★ビジョンB:主の御声「わたしは、奪われた者たちを取り戻す。この地を取り返す?」と聞こ
えたという。 そして、日本の上空に古代ローマ時代の戦士のような姿、それも真っ白い衣装
に金の縁取りの衣装を着た勇士たちが、何十にも取り囲んでいた。 悪しきものが入れないく
らい、びっしり、すごい大勢の勇者たちが、「勝どき」の声をあげたという。 一人一人、手には
盾と槍をもっていた。<エリコの城壁が崩れた場面>(2014年5月13日に姉妹が著者のところ
に来る途中に主から与えられたビジョン)
★ビジョンC:地球儀みたいな日本が見えた。薄暗い空全体に包まれている地球だったが、
日出る国日本と(神の)霊からの声。そこから、ものすごい光がレーザー光線のように天に向
かって立ち上っていた。閃光は中心一本ではなく斜めにも何本かはわからないが、扇状に立
ち上っていたという。地球上の誰もが目にする程の大きな閃光で、まさに闇夜を貫き通す光
だった!その光に吸い寄せられるように、光の柱となるべき人たちが集まってきた。まるでイエ
ス様が生まれた時の羊飼い達が星に導かれたように! 不思議なことに 世界中 どこから見
ても見える光なのに 気づかない人が多い。その光景を見ていると、その足場が中東かどこか
の丘のようなところで、木が茂っているような感じ。(2014年11月13日に主から姉妹に与えられ
たビジョン)
★ビジョンD:めんどり通信2015年4月26日の最後の黙示録のことばを読んでいたときに与え
られたビジョン:少し高い御座か?裁きの座が見えた。 誰かおられたが、ぼやけて どなたか
わからない。 前に薄汚れた服を着た男の人が、うなだれていた。 言い訳のことばさえ出せ
ないくらいだった。 その人の後ろに小学生の低学年くらいの男の子がいた。 御座から、あわ
れみが流れていた。 男の子は安堵した表情をしていたという。(2015年4月28日に主から姉
妹に与えられたビジョン)
★ビジョンE:例(ビジョン@)のくすんだ色の服とじゃらじゃらと装飾品を身にまとった牧師達
はあの後まとめて裁かれるんだなあと感じたという。 その時彼らが口にする言葉が聖書に
あった「主よ、あなたの名によって数々の奇跡を〜…ではありませんか。」のような言葉とそっく
りだと思ったという。(マタイ7章) 結局、燃える所へ行くのだなあと思ったという。 その部屋に
いる時間は、短かったと思われる。 その部屋にいるとき、自分たちは、主のためによく働いた
と互いに褒めあっていたという。 主が忌み嫌われていたことなど全然、気づいていなかった様
子。 裁きの場に立ってから、はたと気づいた。 言い訳した者の多くは、良く働いたと思い込
んでいた牧師や指導者たちだったという。
次に場面が映し出され、主がおられる祝宴会場に移った。 よく見ると1人1人それぞれがそ
の個性にぴったりの異なった装飾品を身にまとっているが、不思議なことにその宝石がスケル
トンのように澄んだ身体の一部分のように内蔵されているかのようだった。 上手く伝えにくい
が、生身の身体ではなく、透き通っているみたいだったという。 その祝宴会場に居る人達は
自分、または他の人が身につけている装飾品には全く興味はなさそうで、ただただその場にお
られる主イエスだけを慕っておられるのがすごく伝わったという。(2015年5月8日に姉妹に主か
ら与えられたビジョン)
★ビジョンF:地球上には、黒色の豆粒のようなもの(人)がいっぱいいた。 宇宙みたいな空
間をみると、大きな門が3つ見えた。@社長みたいな感じの人、スーツをピシッと着たような人
たちがその門に入っていった。A黄色い
若者が入って行った。 その部屋で楽しそうにしてい
た。 B門に本があった。 分厚い本を持っている人たち、聖書みたいな本を持っている人た
ちが入って行った。 他にもたくさんの大きな門があたが、はっきり見えたのは3つ。 どの門
から入っても
それぞれにカラーがあった。 ただ、それらの門から部屋に入ると出口がない。
隅っこに
小さな小さな門があった。 薄汚れた服を着た人が、その門から入って行った。 門
から入ると部屋はなく、細い道が真っ直ぐに向こうの光に向かって延びていた。 その人の横
には、御使いか聖霊がいてくれて、細い道を一緒に行ってくれる。(2015年5月13日に姉妹に主
から与えられたビジョン)
★ビジョンG:地球をすっぽりと包む網があって、その網を引き上げることができるのは主だ
けである。 その主の前にひとりの女がいて、主がその女のすぐ後ろにいた。 引き上げる力
は主からきているのだが、、その女が網を引き上げるようなかたちだった。 その女が網を引
き上げているのを主が喜んでおられ、女も喜びの涙を流しながら引き上げている。 実際、引
き上げる力は主にしかないが、その栄誉、栄光をその女に主は与えておられた。
引き上げられている網の中には大きな魚から小さな魚までびっしりで、中には透明や虹色のよ
うに色の有るものから金色や銀色など様々。 中には縞々(しましま)のものも見え、面白い模
様のあるものもある。 一匹一匹に個性があり、個性豊かである。 全ての魚に共通している
ことは、いのち(肉の命ではない、永遠の命)に溢れ、どれも光輝いている。 ピチピチ跳ねて
命と喜びに溢れている。 網の中に捕らわれていることが魚にとって喜びとなっている。 一匹
一匹、金色に輝いている。 命のあるその魚(大きい魚)=光の柱。
全ての魚が引き上げられる、一匹も残されることはない。 小さい魚でも決して網目から落ちる
ことはない。 魚が網で引き上げられた後の地球を見ると、それは まるで死にかけの星のよ
うに光を失い薄暗く闇に包まれて見える。 魚が地球上の光だったが、もはや その光は引き
上げられたから 地球には光がない。 しかし、薄暗い地球には、大勢の人がいる。 教会に
行ったり、また通常の生活をしている者がいる。 しかし、命がない。 死にかけている。 死に
かけた星、地球に、死にかけた大勢の人。 どうなるのかわからない。(2015年4月15日に姉妹
に主から与えられたビジョン) 以上。
世界中に散らばっている「光の柱」になる者たち(網の中の大きい魚たち)は、光の柱が立ち上
がるときは、ずっと先のことではなく、案外、近いかもしれない。 プラグがコンセントに差し込
まれるような何らかの奇跡が起きるから、「光の柱」が立て上げられるのかもしれない。 今
後、聖霊の大いなる働き、奇跡を期待する。
★新約聖書 使徒行伝 2:20
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
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