めんどり通信/2016年5月29日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <イエスの兄弟ヤコブから思考> |
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★新約聖書 ヘブル人への手紙 7:25
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリ
ストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:34
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方である
キリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
●聖霊によって処女マリヤからイエスが生まれた。 その後、結婚したヨセフとマリヤの間に
は、この地上でイエスの弟、妹たちとなるヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、妹たちが生まれた。
(マタイ13:55,56) イエスの兄弟たちについての記述はほとんどない。 ただ、ヤコブについて
は、新約聖書の「ヤコブの手紙」の著者は、イエスの弟ヤコブである。 また、ヤコブはエルサ
レム教会の指導者として使徒行伝に登場する。 およそ30歳でイエスがキリストとして立たれ
たとき、ヨセフはすでに他界していたと言われている。(マルコ6:3、マタイ12:47) そのような
状況の中、イエスがキリストとして宣教生活に入られた。 残された家族に、イエスの噂が伝
わってきたようであるが、その様子や「気が狂ったのだ。」と言う人たちのことがあって、イエス
の身内の者たちは、イエスを連れ戻しに出て来たことが書かれている。(マルコ3:21) 「兄弟
たちもイエスを信じていなかった」とも書かれている。(ヨハネ福7:5)
ところが、イエスが十字架で死なれ3日目に復活され、40日の間、弟子たちに顕現されたが、
その中に、弟ヤコブがいたことを、パウロは語っている。(Tコリント15:7) イエスの顕現が、
どのようなものであったのかは書かれていないが、どうも、この時、ヤコブはイエスに対しての
信仰を持ったと思われる。 ペンテコステ(五旬節)の聖霊降誕のとき、ヤコブがそこの場にい
たからである。(使徒1:14) その後、世界で最初に誕生したエルサレムの教会の指導者と
なっている。
エルサレム教会の指導者になったのは、イエスの兄弟ということではなく、ヤコブのイエスへの
信仰が大きな要因を占めていたのではないだろうか。 当時、キリストの弟子たちは、
聖霊の
導きに従って祈り、ステパノたち七人をヘレニスト(ギリシャ的な人、ギリシャ語を話す人という
意味)の世話役として決めたが、当然、指導者についても聖霊の導きに従おうと祈って決めた
と推測できるからである。(使徒6章) しかし、それ以上に、神がヤコブを指導者として据えた
のかもしれない。
なぜ、神は、イエスの弟ヤコブをエルサレム教会の指導者に据えられたのだろうか? イエス
がキリストとして宣教を開始された当初は、イエスの母マリアとヤコブをはじめ 兄弟たちがイエ
スに同行していたようである。 カナの婚宴の後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょ
に、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在されたと記されている。
(ヨハネ福2:12) しかし、その後は、イエスは気が狂っていると考えている人たちの言葉の方
を受け入れてしまい、イエスに対して不信仰になってしまったようである。
それでも、神である主は、ご自身の計画を進められるために、ヤコブを選ばれていたから、イ
エスのヤコブへの顕現となったのではないだろうか。 ただし、神の顕現を受けたから、奇蹟的
ないやしや不思議な神のわざを体験したから、皆が皆、イエスへの信仰が確かなものとなり、
また深く確固たる信仰になるとは限らないかもしれないが、主は、ヤコブをずっと見ておられ、
「良し」とされたから、エルサレム教会の指導者に据えられたのではないだろうか。
世界で最初に誕生したエルサレムの教会は、当初、ユダヤ人の信徒を中心とした集団だっ
た。 だから、当然ながら、ユダヤ人としての、神殿祭祀、生活の中での律法遵守(じゅんしゅ
)は、何ら変わらなかったようである。 相変わらずユダヤ優越性の色彩は濃いかったようであ
る。 エルサレム教会は、しばらくはペテロをリーダとして活動していたが、ステパノの殉教以
降、弾圧が強くなり、信徒たちは、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。 しかし、散らされ
たところで皆、伝道していった。 ペテロはあらゆる所への宣教の旅に出た。 その頃、ヤコブ
は、12使徒でもなく、ヘレニスト(ギリシャ的な人、ギリシャ語を話す人という意味)の七人の世
話役でもなかったので、標的にされ難かったのかもしれないが、エルサレム教会の指導者とし
ての務めに入ったようである。(使徒6章)
その後、異邦人コルネリオに聖霊が注がれ、パウロが加わり、イエスの教えが世界に向けて
次第に異邦人の中に拡大していった。 そうして最初の異邦人教会がシリアのアンテオケに誕
生した。(使徒11章) パウロは、このアンテオケ教会を基地にして3回、伝道旅行を行なってい
る。 異邦人のクリスチャンと、イエスをメシヤ(キリスト)と認めていたユダヤ人の信徒との間
には、意識のズレが深まっていたようである。
エルサレム教会からアンテオケに来たある人々が、「モーセの慣習に従って割礼を受けなけれ
ば、あなたがたは救われない。」と主張しだし、パウロやバルナバとの間に激しい対立と論争
が生じるという出来事が起きた。(使徒15章) そして、エルサレム会議が開かれた。 多くの
議論が出た後のペテロが、無割礼の異邦人にも聖霊が与えられたことを証しすると全会衆は
沈黙してしまった。
そうして、イエスの弟ヤコブが総括した。(使徒15:13-21) ヤコブが語った「神に立ち返ろうと
する異邦人を悩ますべきではない。 ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と
血とを避けるように書き送るべきだ。(使徒15:19,20)」という言葉は、ヤコブがユダヤ人の信
徒と異邦人信徒の間をとりなしたものであると思われる。
長い間、ユダヤ的環境、律法の教育の下で育ってユダヤ性が染みついて来たユダヤ人にとっ
て、ヤコブのこの言葉は、異邦人がユダヤ人をつまずかせないための言葉であるように思わ
れる。 ユダヤ人と異邦人が共に歩み寄るためのお互い、納得せざるを得ない最低限の線引
きの言葉ではないだろうか。 様々な意見が出ても人に流されるのではなく、聖霊の導きを窺
(うかが)いながら、全体の意見を集約してまとめているが、両者のことをよく知っているヤコブ
だから、このようにできたのかもしれない。 「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るに
はおそいようにしなさい(ヤコブ1:19)」というヤコブのことばは、ユダヤ人と異邦人という分裂し
かねない「ふたつの群れ」をそれぞれに平和に保つ役割を果たした彼の人柄を表わしているよ
うにも思われる。
この点は、パウロが語った「二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平
和を実現するため(エペソ2:15)」、「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊
において、父のみもとに近づくことができる(エペソ2:18)」、「その奥義とは、福音により、キリ
スト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに
約束にあずかる者となるということ(エペソ3:6)」と似たところがある。(エペソ2:15) そして、
ヤコブの最期は殉教だった。
ヤコブは多くのユダヤ人をイエスに導き、異邦人との一致、それぞれの平和に力を尽くした
が、長年のユダヤ体制、ユダヤ思想は、ますます固くなっていったようである。 それでも、神
は、ユダヤ人を愛しておられたゆえ、ヤコブを選ばれたのだと思われる。 しかし、その後、ユ
ダヤ人はタルムード(ユダヤ人の言い伝え、伝承を記した書)を編纂し、聖書を捨て去り、 タル
ムードの教えを実践するようになったと言われている。 このタルムードの内容は、ユダヤ人は
選民(神に選ばれた唯一の民)であり、異邦人は人ではなく獣扱いをしており、キリストを冒涜
する言葉が並べられているという。
今日、ユダヤ教を保持したまま、イエスをメシアと信じるユダヤ人である人々をメサニック・
ジュー(メシヤニックジュー)というが、彼らは、このタルムードを捨てていないという。 ユダヤ
体制、ユダヤ思想などユダヤ優越主義、選民思想はずっと続いてきたようである。 しかし、神
は確かに、人類を救おうとして、まずユダヤ人を選ばれた。 「神の賜物と召命とは変わること
がありません。(ローマ11:29)」の通り、イスラエルに対する契約と約束は変わらない。 神は、
ユダヤ人を愛しておられる。 だから、いろいろな方面から様々な方法を用いて、根気よく ご
自身の民を変えようとされたと思われる。 しかし、多くのユダヤ人は、その神なる主の心に反
して、ますます頑なになっていったようだ。 その頑なな自我、肉は、なかなか砕かれようとせ
ず、むしろ、選民意識でユダヤ優越主義に凝り固まっていった。
選民思想とは、この世の終わりに他民族の不義が裁かれ、メシヤの統率のもとにユダヤ人が
世界を征服し、地上に神の国が実現すると考える思想であるが、今日、多くのキリスト教会
は、当時のヤコブのようにイスラエルへの執り成しをするというより、イスラエルの優越性、選
民意識を暗黙のうちに認めているような振る舞いをしているのではないだろうか。 主が望ま
れることは、御霊によって新しく生まれた人々が、キリストを頭として一つになっている姿、パン
種(罪)の入ったそのままの不完全な状態のユダヤ人と異邦人がキリストを通して一つになり、
神にささげられる(神に近づく)ことである。
このようにイエスの兄弟ヤコブのことを見ていくと、今までと違うようにヤコブ書を受け取れる。
揺るぎない確固たる、そして深いイエス・キリストへの信仰がヤコブの足場、土台としてあった
上に、ヤコブ書が書かれている。 ヤコブの手紙は、律法主義的で、藁(わら)ほどの値打ちも
ないという人もいるが、むしろ、我々が実践すべき教えである。 口先だけの「信じる」ではな
く、本当に信じるなら、「信仰」と「行い」は、コインの表と裏のようなものであると思う。
いずれにしても、ユダヤ人の場合、自我が固まり、肉が旺盛になるのにあまりにも長い時間が
経過している。 個人というより民族的な背景もあろう。 しかし、我々には、ユダヤ人のような
民族的な背景はない。 だから、ひとりひとりキリストを受け入れて、主の望まれるような者にし
ていただくために取り組むことは案外、容易であるはずだ。 取り組むことを拒まない限り、聖
霊の導きは必ずある。 我々は、変えられながら、ヤコブのように主が望まれる「とりなし」をす
ることができるようにと願う。
★旧約聖書 レビ記 23:17
あなたがたの住まいから、奉献物としてパン――主への初穂として、十分の二エパの小
麦粉にパン種を入れて焼かれるもの――二個を持って来なければならない。
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